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その店の向かいには早咲きの桜が一本立っていた。
叔父夫婦が営む喫茶店に顔を出したのは、桜の季節にはまだ早い三月初旬のことである。
夏に予定している結婚式の招待状を手渡すため、僕は久しぶりにこの町へやって来た。
店に到着すると叔父夫婦は僕のために食事を用意して待ってくれていた。
「長いことご無沙汰してしまってすみません」
「いいよ、きっと仕事が順調で忙しくしてるんだろうなと思ってたからね」
かつて新卒採用で入社した会社をわずか二年で退職した僕を、叔父夫婦はフルタイムのアルバイトとして雇ってくれた。僕はここで二年働いた後、現在の会社に就職した。入社後はなかなか時間がとれず、ここ数年、叔父家族とは年賀状を出し合うだけの仲になっていた。
「子供たちは塾が終わったら来るから。下の子が先週、十歳になったばかりでね」
そうか、あれからもう十年経つのか。
路地に面した窓に何となく眼を向ける。
大通りの桜並木はやっと蕾が色づき始めたあたりだが、店の向かいに立つあの桜は既に花をつけ始めている。その樹が切られることになったと叔父から聞かされたのは、会話の最中でだった。
「病気、ですか」
「うん。今もああやって花がついてるから見ただけじゃ分かんないんだけどね」
叔父はビールを注ぎながら云った。
「放っておくと病気が進行して、いずれ倒木する危険性があるらしくて。大通りの方でも同じ病気にかかってる樹が何本かあるから、市の方で順次撤去していくんだってさ」
「植え替え、とかは」
「さあどうだろうねえ。困るよね、花見の季節にはあれで結構、集客できてたんだけどなあ」
その時、瞼の裏で桜が零れた。一瞬、それは降りしきる雪のように僕の脳内を真っ白に染め上げたかと思うと、途切れ途切れにある記憶を浮かび上がらせた。残花のあわいからあの人の後ろ姿が見える。
あの人に今、会えたなら。
僕は今度こそ、あの人の放つ熱に対等に向かい合えるだろうか。
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