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彼と出会った時、僕は二十五歳だった。
叔父夫婦に二人目の子供が生まれてから半年ほどの間、この店の夜は僕のものだった。叔母の体調が整うまでの間、月末以外の閉店作業を任せたいという叔父の頼みを断れなかったためだ。ただ、閉店作業自体はそう難しいものではなく、夕方五時を過ぎれば大通りから一本奥にあるこの店にほとんど客が来ることはなかった。
金曜の夜だった。一足早く帰ろうとする叔父を裏口で見送ろうとしていたその時、入口のドアベルがからんと音を立てた。
「いらっしゃいませ」
反射的にキッチンの奥からそう呼びかける。
六時二十七分。
こんな時間に珍しいな、というのと、面倒だな、という思いが一瞬で交錯する。閉店時間は七時だ。ぎりぎりまで居座られて、帰宅時間が遅くならなければいいがと思う。
「じゃあ朝海くん、あとは宜しく」
叔父は客の姿を眼で確認しながら明るい表情で帰って行った。
僕は小さく溜息を吐きながらグラスに氷水を注ぎ、それを盆に乗せてフロアへ行った。
入口には長身だがどことなく野暮ったさを感じさせる男が一人佇んでいた。
「一名様ですね。お好きなお席へどうぞ」
にこりともしない僕に対し、その人は気後れしたような顔をして、空いている二人掛けの席を選んだ。
「すみません。当店七時が閉店時刻となっておりまして、ご注文はドリンクのみになりますが」
「ああ……そうなんだ。じゃあ、この珈琲だけ」
「ブレンドですね。少々お待ちください」
僕はキッチンへ戻り、艶のある青い磁器のカップに珈琲を注いだ。
二年前まで僕は都内の会社で営業職として働いていた。
その頃までは笑顔が得意だった。仕事に関わらず、常に僕は他人に笑顔でいて欲しいと思って生きていた。
多分、幼い頃から両親が不仲だったせいだろう。家でわざと明るく振る舞ううちにそれは強迫観念となって僕の人格に取り憑いた。
眼の前にいる人間が笑顔でないと切迫感を帯びた不安に駆られる。
そんな僕にうってつけの仕事が営業だった。
そして笑って雑用、残業、呑み会など全てを受け入れているうちに体を壊し、とうとう退職する羽目になってしまった。
珈琲を運んで行った時、その人は分厚い紙の束を手にしていた。珈琲を置いた僕に対し軽く目礼はしたものの、何だか心ここにあらずといった感じだった。僕が立ち去ってからも、彼はこの世の終わりみたいな顔をして、手にした紙束をめくるでもなくじっと見つめ続けていた。
そんな彼を横目に僕は帳簿をつけ、明日のレジの釣り銭を準備した。あとはあの客が使い終えたカップを洗って、今日の売上金を金庫に移動するだけだ。仕事がなくなった僕は、店に置いてある雑誌をキッチンカウンターの中で眺めることにした。
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