花あかり

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 その雑誌の映画紹介のコラムが面白かったため、つい読み耽ってしまった。  我に返って掛時計を見上げると、七時を少し過ぎていることに気づく。慌てて立ち上がり、今日最後の客の元へ行った。 「失礼します。お席でお会計させて頂いても宜しいでしょうか?」 「ああ、はい」  その人も今気づいたという様子だった。  その時だった。  焦って明細書に伸ばした彼の手が誤って珈琲カップにぶつかった。 「あっ」  同時に僕たち二人は声をあげた。磁器の割れる、空気を切るような鋭い音が響く。磁器の破片と褐色の液体が混じり合って床に散乱した。一見して珈琲がほとんど飲まれていなかったと分かる。直後に僕は膝の下にぬるい温度がしみ渡るのを感じ、珈琲がエプロンとデニム、そして靴にかかっていることに気づいた。 「すみません」  その人は動転した様子で床に落ちた破片に手を伸ばした。彼が膝の上に置いていた紙の束が床へ落ちる。 「だめ」  だめです、と云いかけた時にはもう遅かった。カップの破片に触れた直後、その人は瞬間的に手を引いた。と、みるみるうちに指先に鮮血が滲んできた。その事態に今度は僕の方が慌てた。 「水で流しましょう」  僕は客用のトイレではなく、席から近いキッチンへその人を案内した。  先程とは別の席に座り、傷口を確認する。まだ血は止まっていなかったが、見たところ、細かい破片は入り込んでいないようだし、本人に訊ねても異物感はないという。僕は店の救急箱を取り出し、傷の消毒をした。 「今はこのぐらいしかできないので……もし痛みが引かないようだったり、違和感があるようでしたら病院へ」 「すみません、あの……服、珈琲が」 「仕事着ですから、替えがあるので」  しっかりしたワイドタイプの絆創膏を傷口に貼ると、僕は立ち上がり、掃除に取りかかることにした。まず珈琲の水たまりの端に落ちていた紙束を拾い上げる。滴る茶色い液体や細かい破片を拭うために、僕は紙ナプキンで紙束を拭った。  一番上の紙に印字されていた短い言葉が僕の眼にとまる。 『花あかり』  他人の持ち物を凝視してはいけないと思いながらも、その言葉をもう一度読む。何のことだろうと思っていると、 「それは捨てて頂いて結構です。拾って頂いてすみませんが」  と声をかけられた。  よく見ると、その人の眼は潤んでいた。その水分はしばらく表面張力で零れ落ちずにいたが、あるところで限界を迎えた。透明な雫が零れたのを僕ははっきりと見た。  突然のことに僕はびっくりして、眼元を押さえるその人を見ていた。 「すみません」 「大丈夫ですよ。気にしないで下さい」  他に何と云っていいか分からなかった。その人はちゃんと呼吸をするのさえ精一杯のようで、しばらく何も喋れずにいた。 「もう閉店時間でしたよね。これ、お会計」  彼は財布から五千円札を取り出した。 「お釣りは要らないので。割れたカップの料金です」  僕は失礼な動作にならないよう注意しながら、そっとそのお金を戻した。 「カップはいいんです。あの、それよりもう一杯珈琲を淹れますから、ゆっくりして行って下さい。先程あまり飲まれていなかったようなので」  その場で最大限の気遣いを示す言葉はそれぐらいしか思いつかなかった。僕は純粋に相手に安心感を与えたい一心で、その人と眼が合うまで待って何とか微笑んだ。  僕はキッチンで桜のマフィンを一口サイズに切って、珈琲と一緒にその人のところへ持って行った。 「どうぞ。ご試食下さい」  マフィンと珈琲を口にすると、その人は少し落ち着きを取り戻したように見えた。 「ありがとう」 「いえ」 「あなたは仕事のつもりでやってくれただけなんでしょうけど……人に気遣われたことなんて僕はもうしばらくなかったから」  そこで会話が途切れたので、この場を離れるべきか否か迷っていると、 「あの樹は今、満開ですね」  と窓の外の桜を見て彼が云った。  急に話が飛んだことに僕は少し途惑った。 「そうですね、大通りの桜並木に較べて、あれ一本だけ毎年ちょっと早いんです」 「ああ、大通りの桜は満開になるとすごいですよね。去年見て驚きました」  彼はまた一口珈琲を飲んだ。 「僕、去年引っ越して来たんですけど、こんないい喫茶店が近くにあるなんて知りませんでした」 「ありがとうございます。確かに小さい店舗ですし、大通りから一本入ったところにあるので、気づきにくいかも知れませんね」 「ええ、でもあの早咲きの桜のおかげでここを見つけられました。あの桜だけが明るく見えて、近づいて行ったらここを見つけて……この桜のマフィン、美味しいですね」 「良かった。僕もこれ、好きで。春の期間限定なんです」  その人の顔にほんの少し微笑みに近いものが浮かんだのを見届けてから、僕は破片の片付けに取りかかった。
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