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その日の帰り、梢江さんは僕を家まで送ると云って聞かず、一緒に大通りを南に向かって歩き始めた。
「この通りの桜並木も満開間近ですね」
「そうですね。じきに灯の準備がされると思います」
大通りの桜並木は見頃になるとライトアップが始まる。だが今日のように夜闇の中で桜を見上げるのも悪くないなと僕は思った。こんなに桜をじっくり眺めながら歩くのはいつぶりだろう。夜空の闇に浮かぶ白い靄のような花びらを僕は素直に美しいと思った。
「これが花あかりってやつですよね。梢江さんの作品の題名になってた。僕、調べたんです」
一際、豊かに花をつけた枝が触れられそうな高さに伸びていた。
近づいて匂いを嗅いでみる。振り返って梢江さんを見た時、自然と笑顔になれた。
と、突然彼は僕に背を向けた。
「ごめんなさい。家まで送ろうと思ってたんだけど、今日はここで帰ります」
「えっ、どうかしました?」
「僕、朝海くんのことが好きです」
唐突な告白に僕は息を呑んだ。
「今書いている物語はきみのことを書いてる。今、無性に書きたくて仕方がないんです」
「……梢江さん」
「今は何も云わないで下さい。物語が出来上がるまでは、今書いてる話ができ上がるまでは、きみに恋をさせて欲しい。今、朝海くんの顔を見たら、きみが僕をどう思ってるかきっと分かってしまうから。だからごめんね。どうか気をつけて帰って下さい」
原稿ができたら連絡します、と云い残して梢江さんはその場からいなくなった。
どのみち、その愛の告白に見合うだけの返答の用意が、彼より一回り人生経験の浅い僕にはできなかった。
梢江さんから電話がかかってきたのは、四月に入ってすぐのことだった。
僕は梢江さんの熱い視線を間近で受けながら葉桜の下でその物語を読んだ。
以前読んだ作品と同じ二人が出てきていて題名も『花あかり』のままだった。だが今回、彼らは死ななかった。
――長い間僕にとって人生は暗闇だった。そんな僕に太陽の強烈な光は耐え難かった。きみは仄かな優しい明るさを湛え、僕の道しるべになってくれた――
梢江さんに語りかけられているようで、僕はなぜか涙が出そうだった。
「何て云えばいいか……あの、素晴らしいと思います」
「ありがとう。それが聞きたかった」
そう云った次の瞬間、僕は梢江さんの腕にからめとられていた。
たちまち僕は彼の激しい恋のエネルギーに圧倒され、心奪われそうになった。その強さと熱量に眩暈がした。
愛はいきものだ。触れられたところから僕の細胞に入り込み、美しい狂熱に支配される。
正直に云う。僕は怖気づいたのだ。その時の僕はどうしても彼の真剣な愛と対峙する覚悟がなかった。これまでに一度でも、本当の恋をしていたら恐れずにいられただろうか。
逃げるように身を躱したその刹那、梢江さんと眼が合った。その時自分がどんな表情をしていたのか分からない。けれど彼はそれを僕の答えだと理解した。
「ごめんね。ありがとう。きみに会えて良かった」
それきり僕は梢江さんに会っていない。
あれ以来、僕は春に花見をしなくなった。桜が好きではないと云う僕を、今の恋人は責めない。
彼は僕のことを憶えているだろうか。彼も桜を嫌っていてくれたら嬉しい。そうしたら僕たちはどこにいても、たとえ何十年経っても同じ傷を共有していることになるはずだ。
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