小説家と卵の四角

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「卵?」 「ああ。『卵の四角』ってことわざ知ってるだろ?」  卵の四角。  たしか、あり得ないことの例えだ。  四角い形の卵が存在しないのと同じように、女郎は誠意をもたないという意味にも使われていたはずだ。 「俺の通ってた店では、帰り際に女が卵をくれるんだ。変に勘違いする客対策でね。あくまで金のためにあなたと接したんですよって意味らしい」  なるほど。  客に勘違いさせた方が金は多く得られるだろう。  しかし数年前に、勘違いして全財産を注ぎ込んでいた客が、遊女が他の客と話しているのを見て、嫉妬に駆られて遊女を殺したらしい。  店主も、商品を殺されては堪らない。  こうして客足が途絶えていないのだから、良い対策だったのだろう。   「昨日ので四十個目の卵だよ。実は少し期待してたんだが、もう諦めておくよ」 「よくそんなに通ったな」  昭和となった今、吉原の存在は昔と少し変わってきている。昼間の営業が中心となり、客は珍しい酒を飲みながら、女とお喋りするだけだ。 いったい四十回も通って何を話すことがあるんだ。 「そうだ。お前にこれを譲るよ」  賢次郎は懐から長方形の小さな紙を取り出して渡してきた。数えると十五枚ほどある。 「俺が通ってた店の割引券だ。かなり安くなるから、お前でも行ける金額になる。そこで小説のネタでも探してこいよ」 「嫌だよ」 「こんなところで俺と話すより、女の子と話してたほうがきっと楽しいぞ」  賢次郎は昔から、一度決めると、なかなか引かない。  僕が頑なに割引券を賢次郎に返そうとすると、賢次郎は更に一冊の本も押し付けてきた。 「お前この本好きだったろ? 偶然手に入ったからこれもオマケでつけてやる」  何がオマケだ。  僕は本を見たくないというのに。  これ以上賢次郎と居たら、次は何を押し付けられるか分からない。  僕はすぐにそう判断し、割引券と本を懐に入れて店を出た。  家に帰ろうとも思ったが、賢次郎に店を追い出されたせいで飲み足りない。  少し迷ってから、僕は吉原に向かった。  吉原は、想像していた通り、きらきらとしていた。  昼間なのに多くの店からカラフルな光が漏れ、客が賑わっている。  僕は割引券の裏に書いてある簡単な地図を見ながら、店に向かった。  たしか吉原では、話し相手の女を客が指名できるらしい。  せっかくなら賢次郎が絶賛していた、詩乃という女に会ってみるか。  入り口の男に伝えると、すぐに奥の部屋に通された。  暫く待っていると、確かに美しい女が部屋に入ってきた。 「君が詩乃さんだね。賢次郎という男が君のところに通っていただろう。そいつに割引券を貰ったから一度来てみようと思ってね」 「賢次郎? ごめんなさい。人の名前を覚えるのが苦手なの」  賢次郎が聞いたら酷く落ち込むだろうな。  しかし、四十回通ってた男の名前すら覚えていないとは。 「『卵の四角』そのままだな」  俺が思わず口に出すと、詩乃さんは「皆、そんなものですよ」と少し笑った。  期待外れだ。  遊女とはもう少し可愛げのある者だと思っていたが、こんな薄情な生き物だったとは。  これなら、まだ賢次郎に小言を言われながら酒でも飲んでいた方が随分マシだ。  店を出ようと立ち上がると、賢次郎に貰った本が懐から落ちた。  詩乃さんは床に落ちた本をじっと見つめると俺に尋ねた。 「それ、本ですか?」 「あぁ。友達に押し付けられてね。もしかして本を読んだことないのか?」 「昔、母に読んでもらったことがあります。今はこの店に住み込みで働いていますし、外出が禁止なので本を買うことができないんです」  噂以上の劣悪な環境だ。  年々過労死が増えているわけだ。  俺も小さい頃は小遣いが少なく、あまり本を買うことができなかった。  一冊でも多く本を読みたかった頃の俺と詩乃さんが重なる。 「よかったら、読んでみるか? 推理小説だから、少し難しいと思うが」  俺が本を渡すと、詩乃さんは少し困ったように笑った。 「私、文字が読むめないので」 「じゃあ僕が読んでやろう」  どうせ帰っても何もやることがない。  せめて暇つぶしに付き合ってやろうか。  僕は本を開いて、流暢に読み聞かせてやる。  読んだのは久しぶりだったが、だんだんと記憶が蘇ってきた。  この小説は、主人公の探偵が犯人だったという、所謂メタミステリーだ。当時は不評だったが、僕は本がボロボロになるほど繰り返し読んだ。  たしか、ここの主人公の証言が伏線になっていたんだっけ。  その時、ずっと静かに聞いていた詩乃さんが、口を開いた。 「ねぇ、この主人公、嘘ついているわ」 「お、すごいな」  多くの人間と会話する機会が多いからだろうか。  詩乃さんの推理は的を得ていた。  他にも、詩乃さんは時々自身の見解を話しながら聞くので、時間はあっという間に過ぎていった。  僕は一冊読み終わったところで、帰り支度を始めた。  隣でその様子を眺めていた詩乃さんが、「次はいついらっしゃるの?」と聞くので、僕は咄嗟に「明日」と答えてしまった。  昔からの悪い癖だ。  早く返事をしなくてはと焦り、よく考えずに答えてしまう。  まぁ、幸いにも僕は毎日暇だ。  明日も何か本を読んでやれば、いつの間にか時間が過ぎているだろう。  僕は噂の卵を受け取ると、まっすぐに家に帰った。  次の日、僕はホコリを被った本棚から、本を一冊持ち出して店に向かった。  この日はファンタジー小説を持っていった。  現実ではありえない事ばかりなストーリーだが、詩乃さんはノンフィクションの話を聞くように、喜怒哀楽を感じているようだった。  詩乃さんのコロコロ変わる表情があまりに面白いので、僕は次の日も本を持って店に向かった。
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