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気がつくとそんな日が続き、僕は当然のように本を持って店に訪れるようになった。
「次はどんな本がいいかい?」
「推理小説。次はあなたも読んだことがないのがいいわ。どちらが先に犯人を当てるか勝負するの」
「あぁ。分かったよ」
一週間後。
僕は詩乃の望み通り、読んだことのない新しい本を数冊買ってから店に訪れた。
勝負は僕の圧勝になるかと思ったが、案外良い勝負になった。
今まで読んだ本の経験から僕が勝つこともあれば、臨機応変な詩乃が勝つこともあった。
数年ぶりに毎日、本と触れ合う日々が続いた。
このまま永遠に続いてほしいが、終わりの日も明確に近づいていた。
割引券の残りを見れば、嫌でもタイムリミットを感じさせられる。
僕は元の生活に戻る決心はついているつもりだ。
しかし、一つ心残りがある。
それは詩乃のことだ。
詩乃は最近、本だけを楽しみに生きているようだった。
僕の都合でその楽しみを取りあげるのはあまりにも可哀想だ。
そんなことを言い訳に、僕は詩乃の元に通っていた。
いつものように話をしていると、詩乃は突如、楽しそうに僕にとっての死刑宣告をした。
「ねぇ、聞いてくださいな。店主にあなたのことを話したらね、定期的に新しい本を店に置いてもらえることになったの」
「それは良かったじゃないか」
店での会話はそこまでだったが、家に帰ってからも僕は詩乃のことで頭がいっぱいだった。
本があるのなら、詩乃も退屈しないだろう。
僕がここに来る必要もない。
ちょうど店の割引券も残り一枚だ。
割引券がなければ、僕は店に入ることはできない。
そう思うと、なかなか最後の一枚を使うことができずに、数週間が経過していた。
そんなある日、僕は店に向かった。
今日は僕の誕生日だ。
今日ぐらい詩乃に会っても良いだろう。
しかし、店に入るつもりは毛頭ない。
遠くから一目見ることができればそれでいい。
僕は店の近くの建物の陰に隠れ、詩乃を探した。
しかし俺が詩乃を見つけるよりも先に、凛とした声が俺の名前を呼んだ。
「洋蔵さん!」
声のする方を見ると、格子越しに詩乃が見えた。
「もう来てくださらないかと思いました。前にお会いした時、私はなにか粗相をしてしまったのでしょうか」
あまりにも気弱に言うので、僕は思わず店に入ってしまった。
僕が事情を説明すると、詩乃は先程の控えめな態度を変え、拗ねたように僕を見る。
「洋蔵さんが来てくださらないから、こんなに本が溜まってしまったわ。もう来れないなんて、読まない本で私の部屋を埋め尽くす気?」
「君、もう文字が読めるじゃないか」
「でも洋蔵さんと読まないとつまらないわ」
僕は困ってしまった。
しかし、最近ずっと考えていた計画を話す、いい機会かもしれない。
「じゃあ、僕が本を書くよ。君のために書こう。必ず出版してみせる。そうすれば、いつも一緒に読んでいるのと何ら変わらないよ」
上手くいけば、原稿料でこの店に再び来れるかもしれない。
しかし、詩乃は納得いかない顔で暫く黙っているので、僕は話を続ける。
「例えば、推理小説だ。僕が犯人として小説を通してトリックを仕掛ける。そして君は犯人を当てる。君はいつものように、僕と勝負すればいい」
約十分の攻防の末、詩乃はようやく納得してくれた。
それからは、他愛もない話をしていたら、いつのまにか数時間が経過していた。
時計に目をやると、時計の針は、僕が恐れていた時間を指している。
卵の時間だ。
「卵を持ってきますので、少しお待ち下さい」
詩乃は駆け足で部屋を出ていった。
卵を貰うのも今日が最後か。
卵がなければ、詩乃と会うこともできなかった。
そう思うと感慨深い。
暫くすると襖が開き、詩乃の持つ皿にはいつものように卵がのっていた。
よく見ると卵はいつもよりツルツルしているようで、部屋の光を反射している。
「おや、今日はゆで卵かい?」
俺が卵を受け取ろうとすると、詩乃は慌てて手を引っ込めた。
「待って」
詩乃は袖口から小さな包丁を取り出すと、意を決したように卵に押し当てた。
僕は綺麗に切られた卵を手に取ると、礼を言って足速に店を出た。
僕には、詩乃との一時的な別れを惜しむ時間もない。
家に帰ったらさっそく執筆を始めないといけないからだ。
道中、僕は手の中にある卵に目をおとした。
その卵は四角かった。
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