小説家と卵の四角

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「よぉ、洋蔵。奇遇だな。小説家様は昼間から酒かい?」 「賢次郎。…お前だって飲みに来たんだろ」  僕が居酒屋で一人静かに酒を楽しんでいると、見知った顔が暖簾をくぐって現れた。  賢次郎は遠慮なく僕の隣に座ると焼酎を注文する。 「洋蔵。まだ小説書いてないのか?」 「書いてないよ。それどころか本も暫く読んでない」  小説のことを忘れるために飲んでいたのに、賢次郎のせいで台無しだ。  確かに昔は小説家を目指していた時期もあった。  今思えば、その頃が僕の人生の全盛期だ。  趣味で書いていた小説を、気まぐれで新人賞に応募してみたら、偶々受賞することができた。  他に取り柄のない僕が、初めて人に認められた瞬間だった。  受賞したことは勿論嬉しかったが、滅多に笑わない父が喜んでくれたことが、僕の夢を決定づけた。  しかし、それからは悲惨だった。  何作品書いてもどの賞にも引っ掛からず、父は遺産を残していなくなった。  今では何をする気にもなれず、父の残した金で酒を飲んでいる。  金が底をついて、僕が野垂れ死ぬのも、時間の問題だ。 「なぁ、それより賢次郎がこの店に来るなんて珍しいな。いつも金は吉原で酒を飲むのに使ってんだろ」  僕があからさまに話をそらすと、賢次郎は少し眉間にシワを寄せた。  賢次郎がこの店に来た理由を気になったのも事実だ。  僕は数ヶ月からこの店に通っているが、Bを店で見たのは初めてだった。 「いや、もう吉原にはいかない」  会うたびに、詩乃さんは美しいとか詩乃さんは賢いといった話ばかりしていた賢次郎が吉原にもう行かないなんて信じられない。 「昨日の帰りに、詩乃さんにまたこれを貰っちまってな」  賢次郎は懐から鶏の卵を取り出した。
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