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プロローグ
「真白さん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
ドルメイトでの握手会を終え、控室でミネラルウォーターを飲んでいた雪野真白に若い男性スタッフが声をかけてきた。真白は、スタッフに向き直って、笑顔で答える。
「プレゼントと花はいつものように事務所へ届けておきますので」
「いつもありがとうございます。今日はすみません、無理に時間を延長していただいて」
真白はスタッフに深々と頭を下げた。
「いえいえ、こちらは大丈夫ですよ。真白さんのほうが、お疲れでしょうに、ファンの方のための気遣い。さすがです」
「いえ、皆さまが協力してくれたおかげですから」
あとは、こうして照れくさそうに頭を掻いてみせれば、謙虚なアイドルらしさが伝わる。我ながら完璧だ。
「こちらこそ、雪野さんが我々の店舗で握手会を快く引き受けてくださったおかげです。またお願いします」
「いえ、僕なんて、呼んでいただけるだけでもありがたいです」
「うちはいつでも歓迎なので、また企画させてください」
「もちろんです。今日は本当にありがとうございました」
男性スタッフは真白に向かって丁寧に頭を下げて、控室を出ていった。扉が閉まり、走り去っていく足音を聞いていると、再びドアが開く音がした。
「なーにが、呼んでいただけるだけでもありがたい、だよ」
ドアから入ってきたマスク姿の男は、相方の榊緋色だ。パーカーにデニムというラフな出で立ちだが、いくらマスクをしていてもトレードマークの赤い髪が隠せていない。帽子をかぶれといつも言っているのに、頑なに拒否されたあげく「帽子被ったら俺だってわかんなくなるだろ」と抗議されたので、もう彼に変装のアドバイスはしないと心に誓った。
「それは本当の気持ちだよ。こうしてイベントに呼んでもらえたのは嬉しいよ」
「うそつけ、ここの店舗は立地が悪いだの、客層が悪いだの、言ってたくせに」
「それは冷静な分析結果だよ」
「ま、いいや。ずいぶん遅かったな、握手会」
「整理番号1番の子が遅れてね。待ってあげたんだ」
その言葉に、緋色は目を丸くする。
「待ってあげた? まじかよ。明日、空からなんか降ってくるんじゃね?」
「緋色、そういうときは槍って言わないと。雨だったら普通だろ?」
「う、うるせえな。それくらい珍しいってことだよ。わかってんだろ」
ちょっと、頭の中身の不自由な相方に、時々こうして日本語を教えるのだが、まったく上達する気配がない。彼の生まれ育った街の母国語は本当に日本語なのか。
「よく考えてごらんよ、整理番号1番って言ったら、僕らにとっては金ヅルだよ」
「おいおい、言い方、どうにかなんねーのか」
「だから、待ってあげる価値はあるってこと」
「おまえ、ぜってー、それ外で言うなよ。ほら、外で車を待たせてるんだから行くぞ」
緋色は、置いてあった真白のリュックをひょいと持ち上げ控室を出る。真白もそのあとを続いた。
***
真白は歩きながら、いつも自分のイベントに整理番号1番を取って、応援してくれる彼との会話を思い出していた。
『約束しようか。僕はこれからずっとスターの頂点であり続ける。君は大切な人と一緒に応援してほしい。僕は、それで十分頑張れるよ』
彼に言った言葉は、本当だ。アイドルのファンなんて長続きしない。現実世界に恋人ができれば、とたんに興味はそちらへ奪われてしまう。さきほどの颯太もきっと、この先、自分への興味が薄れていくだろう。
金ヅルなんて言い方をしたけれど、いつも最前列で応援してくれた顔がいなくなるのは、正直寂しいと思う。ファンというのはどれだけ自分を好きだと言ってくれても、離れていってしまうものだと実感する。いくら、腹黒い自分でもその虚無感は消せやしない。口にしないだけで簡単には割り切れないのだ。
「ねぇ、緋色」
「あー?」
スタッフ通用階段を降りながら前を歩く緋色の背に声をかける。
「君にとって大切な人って誰?」
「は?」
緋色が急に立ち止まって、振り返るので、真白はその胸元に勢い良くぶつかった。
「ちょっ……! 急に止まんないでよ」
「おまえが変なこと聞くからだろ」
「仮に、君の大切な人が僕だとして」
「おい、勝手に決めるな」
「相方の僕と、大切な人である僕、どちらが大切?」
真白の言葉を聞いて緋色は、ぽかんとしていた。
ふと聞いてみたくなっただけで、この質問に深い意味はない。緋色とは、 Tricoloreの相棒でありながら、恋人同士でもある。緋色の中で自分の存在が、どういう線引きをされているか、ということに興味があっただけだ。
「そんなの、どっちもおまえだろ」
「……まぁ、そうだけど」
「どっちも俺のもんだ」
「へ?」
「つーか、それ以外もおまえの全部は俺のものだよ。安心しろ、大切にしてやっから」
「それはどうも」
「ほら行くぞ」
緋色の手が、ぎゅっと真白の手を掴む。
『大切にしてやっから』
なんだそれは、生意気なやつだな。そもそも、僕がいないと何もできないのはおまえじゃないか。と、喉元まで出かけたが、真白はぐっと飲み込んだ。何か、抗議して緋色が振り向いたら、自分の顔が赤いことがバレてしまう。
アイドルの舞台ならまだしも、プライベートで緋色が優位に立つなんて、真白の中では絶対に許されない。
――でも、こいつのこういう芯の強いところを、いつのまにか好きになってたんだっけ。
ふと、蒼がいた頃のことを思い出していた。Tricoloreが三人で、まだ駆け出しのアイドルだった頃、真白と緋色は友達以上の関係になった。二人になった今でも、その関係は続いている。
あの頃、他人に心を許すことのなかった自分は、緋色の存在で変わったのだ。
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