112人が本棚に入れています
本棚に追加
/35ページ
「真白」
声をかけると真白はちらりと視線をなげて、すぐにスマホに戻してしまった。そのまま緋色は真白に近づいた。
「あのさ、本のことなんだけど」
「うん」
「好評みたいで」
「らしいね」
「真白のおかげだよ、ありがとう」
「どういたしまして」
スマホを見つめたまま、真白は相槌だけを返してくる。久しぶりに二人だというのに、何を話していいかわからない。
「撮影どうだった? 疑似セックスしたんでしょ」
「え?」
「この女の人を抱いてるみたいにみえる。こんな顔できるんだね、緋色」
「いや、それは……」
「僕は、喘いでる緋色しか知らないからね」
「や、やめろよ」
「……嫉妬した」
「へ?」
「こんな顔できるんじゃんって」
真白が初めて緋色の顔を見た。その顔は表情ひとつ崩れていなかった。
「まぁ、童貞でもこの分なら女も抱けるよ、きっと」
「お、おい真白」
「蒼待ってるから行こう」
「あれ、真白なんだ」
思わず口に出ていた。
「は?」
「だから、あの撮影のときイメージしたのは俺を抱いてるときの真白で……」
「僕?」
「だ、抱かれながら真白のことずっと見てて、こうなりたいっていうか」
「……」
撮影の間、真白のことを考えていた。真白が自分を抱くように、自分も相手の女性を抱いてみた。女性が恍惚な表情を見せたときも、きっと自分もこんな顔をしていたんだろうと。そして自分のように満たされた気持ちになっているのだろうと。
「別に誰かを抱きたいなんて、思わねーよ。俺」
「一生、童貞でいるつもり?」
「いや、それはわかんないけど。あの、真白がよければ」
「は?」
「まだ足らねぇっていうか、終わりにしたくないんだ!」
はっきりと口に出した声が思ったより大きくて、緋色は慌てて自分の口をおさえる。真白はぽかんとしていたが、すぐに吹き出した。
「なにそれ、勉強熱心なんだね、緋色って」
「ごめん、メーワクならいい」
「ひとつ、いいことを教えようか」
「何?」
「あの女より、緋色のほうが色っぽい」
「は、はぁっ?」
「ちなみに僕は演技指導してたつもりも、練習に付き合ってあげたつもりもないよ」
「は、何言って……」
「緋色を抱いてみたかったから、利用した。それだけ」
「へ?」
きっと自分は最高にマヌケな顔をしていたと思う。
「だから、これから先、練習相手になるつもりはないから」
「あ、えっと……」
「緋色が僕に抱かれたいっていうなら、続けてもいいけど。どうする?」
言葉が出なかった。いろんな事実が一気に流れ込んでパニックしている。抱いてみたかった、というのは、どういう風に受け止めればいいのだろうか。けれど、緋色の中で答えは出ていた。
「……抱かれたいです」
そうだった。真白はこうやって言わないとしてくれないんだ。
「いいこだね、緋色」
真白の優しい手が緋色の頭を撫でる。ぞくぞくとする。久しぶりに真白と触れて、体中に電流が走ったみたいに甘くしびれる。
「三人でいるときはちゃんとトリコロールしよう」
「お、おう」
「二人のときは、ね。僕、緋色にしたいこと、まだたくさんあるんだ」
そう呟いた真白の顔は、自分を組み敷いたときの獣の顔で、緋色しか知らない真白の顔。きっと自分もそうなのだろう。真白しか知らない自分の顔。
この気持ちを何と呼んでいいのか、わからないけど、これからも真白に触れて、触れられるなら、それでいい。
北風は力まかせに旅人のコートを脱がそうとした。太陽はただその陽射しを輝かせて、旅人は自らコートを脱がせた。
あきらかに有利と思われたその勝負。北風は太陽に敵わなかった。
太陽に惹かれたのは北風。けれど太陽はそれを知らないまま、今日も燦々と照らしている。
『知らなくたっていい』
冷たい風を吹かせることしか知らなかった北風は、太陽のおかげで優しくなれたのでした。
二人のエチュードは始まったばかり。
<北風と太陽のアンサンブルへ続く>
最初のコメントを投稿しよう!