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 年が明けてしばらく経った頃、塔矢の退職が正式に発表された。  それまで憶測ばかり噂され、当の本人も「考えている最中だから」とハッキリしなかったことが明るみになり、成瀬はやはりと思うと同時に落胆した。  最後まで彼から相談を受けなかったばかりか、退職することも告げられなかった。友人だと思っていたのに、それが独り合点だったことが悔しくて切なくて、やはり彼の想いを無下にしたことが尾を引いているのかと考えると、自分の態度は棚に上げて憤りすら感じた成瀬は、仕事以外の会話を避け、目すら合わせなくなった。  そんな成瀬の態度に気づいた塔矢は、廊下ですれ違った際に呼び止めて人気のない所へ連れていき、神妙な面持で話しかけた。 「今まで黙っていて悪かった。おれ、3月いっぱいで退職することになった。短い間だったけど、成瀬さんにはお世話になりました」  今更そんなことを言われても……と、燻り続けていた怒りに炎がついた成瀬は思わず愚痴を零してしまった。 「ほんと水臭いよ。相談まではいかなくても一言があって良かったんじゃない?」 「ゴメン、人の意見を聞いたら悩みそうだったから一人で決めたんだ」 「4月から開業する○○区の整形外科へ行くんだって?」 「誰から聞いた?」 「もうみんな知ってる。矢野先生から誘われたんだろ? 今後の活躍に期待するよ」  そんな心の籠っていない餞の言葉に、塔矢が縋りつくように言った。 「今度、飲みに行こう。だから、都合のいい日を教えてほしい」 「送別会があるだろう?」と意地悪な返事をすると「あんなところじゃゆっくり話せない」と真顔で言われ、空いている日を教える。そして、廊下を降りていく後ろ姿を目で追いながら『なにを話すんだろう』と、僅かな期待を寄せていた。  そして当日―――  塔矢が指定した店に着いた成瀬は、彼の到着を待っていた。そこは、去年自分の歓迎会が行われた居酒屋で、塔矢が予約してくれたカウンター席に座ると、目まぐるしく過ぎ去った一年間を思い返していた。就職したての頃、彼から無能扱いされて辛かったな⋅⋅⋅⋅⋅⋅ と、蕁麻疹が出た左腕を擦っていたら、「ごめん、遅くなって」と、顔を上気させた塔矢が目の前に立っていた。 「受け持ち患者さんの引継ぎで遅くなった。『今日は飲みに行くから早く終わらせて欲しい』なんて言えなくて。かなり待っただろう?」  と、腕時計に目をやる塔矢に「大丈夫、俺も遅刻したから」と嘘をついた成瀬は、椅子を引いて座るよう促す。  仕事帰りのサラリーマンで賑わう中、二人も負けじと料理をつまみながら今日あった出来事、二人が過ごした一年間の想い出、そして4月から就職する病院について語り合った。  噂通り、塔矢は転職する病院のリハビリテーション科の主任として招かれていた。打診があった際に見せられた病院の設計図、特にリハビリテーション室の広さに度肝を抜かれ、見学に行った時に目にした最新設備に魅了され、病院理念に共感し、自分への期待の大きさに胸を打たれて転職を決意したという。  そのことを熱く語る塔矢に、彼の選択はもっともだと納得する一方、それでも相談がなかったことが引っ掛かり、くどいという自覚がありながら恨み節を零してしまった。 「でも、一言言って欲しかったな。そういう機会、いくらでもあったんだから」 「ごめん」と、こうべを垂れる塔矢を見て、蕁麻疹の元凶に謝らせた…… と可笑しさが込み上げてきたけれど、こちらを見つめる眼差しが真剣だったので「しつこく言って悪かった。もう二度と言わない」と謝った。が、塔矢は眉をしかめたまんま。こりゃあ本気で怒らせちまったと血の気が引く思いがしたのだが、よくよく見ると、それは辛くて悲しい表情をしていて……。すると、塔矢が腕時計に視線を移して時間を確認しながら「あと一件だけ付き合ってもらえる?」と、行きつけのバーへ行くことを提案したのだった。
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