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◆◆◆◆◆   塔矢とレストランで食事をして以後、成瀬は彼に対する苦手意識を完全に払拭した。塔矢は東京で初めてできた友人で、向こうもそう思っていると信じていた。が、一つ気になることがあった。最初、恋慕の気持ちで近づいてきた彼であったが、成瀬が異性愛者だと嘘をついてから一歩引いて接するようになったのである。  別段、余所余所しくなったわけでも避けられるようになったわけでもない。むしろ、以前より同僚として、患者を支えるパートナーとしての信頼感が高まっているのを肌で感じたが、こちらを意識する素振り――― 例えば、以前のように話す機会をうかがって目で追ったり、同郷会と嘘をついて飲みに誘ったり(本人いわく「他の奴らを誘わなかっただけで、あれも同郷会の一つ」)がなくなり、成瀬は少しだけ寂しい気持ちになった。この時、友情以外の感情が芽生えていたことに気づいたけれど『もう済んだことだ』とその想いに封をし、仕事に情熱を傾けていった。  しかし、塔矢の変化はそれだけではなかった。  以前のような勉強不足や やる気のない後輩を叱咤する態度が鳴りを潜め、一歩引いて接するようになったのである。そして、指導する機会があった時だけ物静かに諭すように話して、彼らの自主性を伸ばすような方法に変わったため、リハビリ部門だけでなく病棟全体が ざわつき始めた。「上から注意を受けたのではないか?」とか「患者からクレームがきたのでは?」といった憶測が流れたのだが確証は得られず、大半は彼の変化を歓迎したが、成瀬のように違和感を覚えるスタッフも若干数いた。そんな中、彼に対するある噂が真しやかに囁かれ始める。  その日、成瀬は夜勤に就いていた。リーダー業務を任され、夜の検温を回った後、ナースステーションに戻って記録をしていたら、患者の処置を終えたもう一人の夜勤看護師から【その話】を聞かされる。 「PTの池田さん、【引っこ抜き】にあってるんだって」 「引っこ抜き?」と、まるで大根でも収穫するような言い方に語尾を上げると 「最近の流行り言葉で…… そうそう【ヘットハンティング】っていうのかな? それをされてるんじゃないかって」 「うそだろ?」 「来年の春、○○区に整形外科に特化した病院が出来るでしょう?」 「どこかの企業が経営母体で病床数が200人くらいだとは聞いていたけど。確か、副院長の矢野先生が院長として招かれてるって」 「その矢野先生から誘われているらしいの。最近、池田さんが変わったでしょう? 前はすご~く怖かったけど物腰が柔らかくなったっていうか。恐らく、向こうで指導的な立場に就くことを意識して態度を改めたんじゃないかって思うんだけど…… どう思う?」  どう思う? と聞かれても、その話自体が寝耳に水だった成瀬は呆然とした。一昨日、久しぶりの同郷会で会った時、そんな話はしなかった。その後の二次会でも、一緒のタクシーに乗って帰った時も一言もなかった。ただ「最近、優しくなったよね」と からかったら「叱ってばっかりじゃ相手が委縮して患者さんに影響を及ぼすことが分かったから」と話したあと、こう付け加えた。 「成瀬さんの時に懲りたんだ。すっかり壁を作られて壊すのに半年以上かかったから。だから、もう同じ轍は踏まないと誓った」
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