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 塔矢、退職当日―――  彼はナースステーションへやってくると、まず師長に挨拶し、大きな紙袋に入った菓子折りを渡した。塔矢と師長は仲が良く信頼も厚かったため、彼女はその目に涙を浮かべながら餞の言葉を送った。  その後、塔矢は詰所にいるスタッフ一人一人の元へ赴き、これまでの不遜な態度を詫びて感謝の意を伝えた。それは、成瀬に対しても同じで、彼は はにかんだ表情をしながら別れの挨拶をした。 「成瀬さんには色々キツイことを言ってすみませんでした」そう言って頭を下げると、「池田さんのおかげで整形外科病棟の看護師として頑張ることができました」と、礼を述べる。この他人行儀な やり取りは一線を越えた二人には滑稽だったが、成瀬は仕事での出来事を走馬灯のように蘇らせて目頭を熱くした。 ――― 彼から厳しくされたから仕事への意欲が高まり、松岡先生への執着に悩まされずに済んだんだ  そんな彼とは今後一緒に仕事をする機会はないだろうし、私生活でもどうなるかわからない――― そう思ったら遣る瀬無い気持ちになってきて、『君の気持ちが熟すのを待つ』と言ってくれた言葉を信じるしかないと念じるように言い聞かせていたら、他の看護師から冷やかされた。 「やだ! 成瀬さんったら泣いてる」  すると、ほかの看護師からも 「マジで?」「ウソでしょ!」「ほんとだ!」  そして、最後に「もしかして【嬉し涙】だったりして」と、からかわれた時、成瀬は笑い泣きしながらこう弁解した。 「池田さんには厳しくされた分、教えてもらったことが多くて感謝してるんだ。それに、ホームシックにかかった俺を心配して同郷会にも誘ってくれたりして。本当に寂しくなるけど、向こうで頑張ってください」  そこまで言うと、とうとう涙を零してしまった。  公衆の面前で臆面もなく泣いた成瀬に塔矢は驚いた。そして、そっと手を差し伸べると労わる様に肩を叩いて慰めたのだった。  その晩の送別会―――   図らずも泣いてしまったことが あちこちの座で話題となり、成瀬は恥ずかしさのあまり自席から動けずにいた。そして、主賓の塔矢はその隣に席を移動させられ、成瀬を慰めるよう言いつかわされる始末。塔矢を差し置いて脚光を浴びた成瀬は恐縮し、彼と差しさわりのない会話をした後、逃げるようにその場を離れて、隅の方でチビチビ飲み始めた。  ほとぼりが冷めた頃に顔を上げると、塔矢はビールピッチャー片手にあちこち動き回って最後の挨拶をしている。どちらかといえば社交的ではないのに、自分のために催された酒席で情理を尽くす姿に『新しく開業した病院に主任として招かれただけある』と感心していたら――― 「なんでこんな隅っこで飲んでるの?」  耳障りのいいテノールの方へ振り向くと、若い男がピッチャーを持って立っていた。  彼は先日、受け持ち患者が造影剤によるアナフィラキシーショックを起こして一緒に処置をしたドクターで、成瀬の首元のキスマークをガン見していた男である。彼はグラスに残ったビールを飲み干すように促すと、空になったそれに注いだ。そして、飲んでいる間、塔矢の方へ視線を向けると 「彼がいなくなると寂しくなるねぇ」 「…… ええ」 「厳しい人だったけど、うちのリハビリ部を牽引する存在だったから結構痛手だな」 「そうですね」 「偏屈おやじのリハ部長に面と向かって物を言えた唯一の存在だったから、彼がいなくなったあとが大変だ」 「そうなんですか……」 「成瀬さん、彼から随分可愛がられていたよね」 「同い年の同郷のよしみで仲良くして頂きました」 「君が来てから、病棟へ来るのが楽しそうだったよ」 「からかう相手が出来て面白かったんじゃないですか?」 「君が休みの時は『成瀬さんは?』って尋ねる姿を何度も目撃したし、『欠席する』とフェイントをかけて飲み会に来たこともあったよね。あの頃、君に避けられていたから、傍から見ていて滑稽だった。ほんと必死なんだなぁ……って」  よく観察していないと分からないことを言われた成瀬が総毛立つ。そして、その裏に隠された真実がわかり始めて…… ――― こいつ、もしかして塔矢の昔の男なんじゃないのか!?
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