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4 秘
女には男に対する未練がないと言う。ある場合でも薄いと言う。それが一般常識なのか、違うのか、わたしにはわからないが、わたしは違う。それが恋の数が少ないことに由来するのか、そうではないのか、それさえ不明だ。
結局どちらからも告白をせずに友だち関係を続けた友人がいる。同窓会などで会えば今でも友人だが、もう半分恋人には戻れないだろう。彼が未だに独身だったら可能性はあるが、結婚して子供までいるのではどうしようもない。更に彼の妻が双方の知り合いと来ては付け入る隙がないだろう。
今更残念だったなとは思わない。単に心が疼くだけだ。心が疼けば種々の思い出が目の裏を過ぎる。夜、公園、電車、彼の部屋、文化祭、握った手。キスくらいはしておけば良かったとは思うがハグはしたんだ。
吃驚したように思い出す。
当時二人が受けたのは違う大学だったが、合格発表の日時がずれていたので、それぞれの発表を一緒に見に行く。彼の方が先に合格が決まり、次にわたしの番が来て確認すると嬉しいことに受かっていてハグされる。いや、わたしの方からハグをしたんだ。後にも先にも、アレだけ自然だったハグはない。
だが、その後すぐに気まずくなって帰りの電車に乗り、ターミナル駅で別れている。それで縁が切れたわけではないが、今生の別れに近かったようだ。
彼と、後に彼の妻となったクラスメートとの再会については聞いていない。噂は流れるが、それは噂だ。高校生だった頃、彼がわたしに気があったのは事実だと思う。けれども同時に彼が彼女にも気があったというだけのこと。わたしだって当時何人もの相手に恋をしている。正確には憧れていただけだが、お互い様だ。だから、わたしに彼を責める気は毛頭ない。ただ時折、ああ、惜しかったな、と懐かしく思い出すだけだ。
晩生で、ついでに臆病なのでセックスを知ったのは二十歳を半分も過ぎてからだ。一浪して入った大学時代にはついに出来なくて焦りもあったが諦めも早い。進む大学を間違えたようで後に残る友人もなく、大学を嫌ったことから殆ど意地でレベルが上の国立大学院に進むが、やはり肌が合わずに修士課程で勉学を終え、就職する。
当時は頭が良かったのだろう。
大手ではないが理系のメーカーにすぐに就職が決まり、以来そこに居続ける。運命の――ただしカラダのだが――相手は会社にいて、しかも妻子持ちで、誘いもしないのにわたしのアパートまで付いてきて結局抱かれる。相手にわたしと別れる気が毛頭なく、更にわたしも他に相手がいなかったから、擬似恋愛みたいな関係が続く。色々と考えなければわたしはそれなりに幸せで、相手から転勤を告げられた日には泣いたものだ。もっとも二人の関係はそれで終わらず、子供の教育関連で単身赴任だったため、月に一回か二回のわたしとの付き合いに支障が生じず、笑ってしまう。相手との社内不倫については誰からも注意されたことはないが、何人かの人間にはバレていたはずだ。相手の妻が気づいていないようなので、それだけはありがたかったが、それでもキリキリという胸の痛みはずっと消えない。相手の妻とも子供とも現在に至るまで会ったこともなければ写真を見たこともないが、それだけに夢に出て来るときが怖くて、例えばデパートの買い物客がいきなり振り向き、
「ねえ、あなた」
と問うのだから堪ったものではない。子供は性別も何人いるのかも知らないので入れ代わり立ち代りに目の前で泣かれて辟易する。
「だって初めに誘ったのはアンタたちのパパなのよ」
と叫んだところで意味はない。
「だって、だって、だって」
と子供が泣き続けるばかりだ。
もちろんわたしが目を覚ましさえすれば彼と彼女たちは音さえ立てずに姿を消す。けれども後味の悪い記憶は何時までも残る。もっとも、そうはいってもわたしは不倫相手と結婚したいと思ったことが一度もない。この恋は擬似の恋でわたしのカラダのためだけなのだ、と妙に醒めた自分がいたからだ。実際相手に妻と別れてわたしと結婚したいと切り出されても、わたしは拒絶したはずだ。
それでただ関係だけがズルズルと続く。
親と姉妹を除けば、その時点でわたしの裸体を知っていたのは不倫相手だけ。そんな気恥ずかしさと共存する安心感が、わたしに別れの言葉を言わせなかったと今ならわかる。
だから別れも相手都合だ。
不倫相手が会社を変え、新しく入った先が海外展開を進めていて、国外転勤が決まったとき。けれどもわたしは、それが相手との別れに繋がるとは考えもしない。会う機会が極端に減るだけだろう、と思っただけだ。それで色々と大変になるね、と相手に言うと、いい機会だから松原さんとは終わりにしよう、と切り出される。はあ、と意味がわからずわたしがポカンとした顔をすると、きみの五年を奪って悪かったよ、と不倫相手が真剣に言う。それで、そうか、わたしは三十歳になったのか、三十女が何時までも分別を知らなくては仕方がないな、と感じてしまう。だから、わかりました、お別れしましょう、とわたしが応えてすべてが終わる。
ドラマではないので最後のセックスが特に良かったという事実もない。そもそもわたしと相手とのカラダの相性がとりわけ良かったわけではないのだ。
後に会社の知り合いから聞いたところでは、それからちょっとした修羅場があったらしい。わたしとは上手く別れた相手だが、彼にはわたしと同時期に付き合っていた他の不倫女性が何人もいて、そのうちの一人が妻にバレてしまったのだ。結局離婚という事態には至らなかったが、おそらく彼はこの先も似たような問題を起こすだろうとわたしは感じる。
それはさておき、いつか泥臭い空気を互いに感じなくなる時が来たら、わたしは自分の処女の簒奪者に訊ねてみたい。彼の好みとも思えない地味なわたしを何故選んだのかという、その理由を。
わたしには相手の答の予想があるが、それが正しいかどうか確認してみたいのだ。
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