1.喰う女

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1.喰う女

 嗜好が変わってきたのは年齢のせいなのか、どうか?  目の前にサーブされた血の滴る肉厚のステーキを眺めつつ癸卯諒子(きぼう・りょうこ)は思う。  よし、がっつり喰うか!  年齢のせい……といっても、まだ三十歳を越えたばかり。  さすがに昔の院生時代のように三日間の完徹など楽に望めぬ身になったとはいえ、気力が衰えたわけではなく、体調も頗る良好だ。  嗜好といえば、二十五歳を過ぎた辺りから急に襲いかかってきた、何処までも満足感がなく苛々するような身体の火照りも去っている。  別にセックスが嫌いになったわけではないが、ただひたすら『あの鎖骨に触りたい』だの、あるいは単に『あの腹筋を味わってみたい』だのといった目的で何人もの男たちを漁らずにはいられなかった感触が消える。  摂食と同じで少量の美味しいものを食べられれば満足できる、そんな感覚。  だが――  今、口中に程良い味わいを与えてくれているのはレアに近い肉だ。  もとより肉が嫌いなわけではない。  だが以前だったら、より美味なるものは魚か野菜。  そんな嗜好が最近、急に変わる。  本日/今夕/日曜=休日の夕食に連れはいない。  別段、誰に憚ることもないが、いつも昼食を一緒し、たまには連れ立って食事に出かける同僚の女性たちや、付かず離れずの付き合いを継続している複数の男たちから奇異な視線を向けられるのを避けるためだ。  それで独りで食事に出る。  自宅の私鉄K駅近傍でも良かったが、少し遠出し、ターミナルのS駅まで足を延ばす。  テレビや雑誌で紹介されたこともある、完全予約をしなくても入店できるオーナーシェフの店に出向き、悩むことなくポンド数の多いステーキを注文。  レアっぽくてガーリックは少なめに、と付け加える。  大蒜の匂いが穿ち過ぎる料理は子供の頃から苦手なのだ。  その点は不思議と今でも変わっていない。  もっとも野菜スープの具として、じっくり丸ごと煮込んだ大蒜のジャガイモのようなほっくり感が長じてから好みとなるが、今それを味わいたいとは思わない。  料理をオーダーしようと店内にウエイターを捜したとき、昔はさぞ美人だったと思われる老婆とその隣にちょこんと腰掛ける孫らしい若い娘の姿が目に止まる。  その場の雰囲気とその日集まった客層とは若干違ったムードを醸していたからだろうか。  そういえば料理を頼んだとき、オーダーを取りに来た若いウエイターが少しだけ驚いた顔を見せる。  注文内容に僅かだが、「えっ」と違和感を覚えたようだ。  諒子は身長が一七〇センチメートルを優に越えていたので明らかに小柄ではないし、また色も白い方だが、顔つき……というか骨格は明らかに北方モンゴロイド系だったので、その嗜好を意外に感じたのかもしれない。  もっとも両親によれば、何十分の一かは北欧コーカサス系も混じっているということだ。  あるいは、これは本人にも自覚があったが、子供の頃から現在に至るまで判定者の性別を問わず普通に美人と分類されてきたそんな彼女とレア・ステーキとの組み合わせが、幼く可愛い顔立ちをした男性ウエイターには意外と感じられたのかもしれない。  しかしそれも今、はっきり言えばどうでも良い。  今の自分に必要なのは男の顔つきの好みを云々することではない。  肉を切り、齧りつき、味わい、嚥下する。  肉を切り、齧りつき、味わい、嚥下する。  その行為の繰り返しが、純粋な至福を誘う。  ナイフが鉄板に触れる僅かな音だけが、彼女の耳に聞こえている。
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