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中学から大学までラグビー部に所属していた雪の身体は、意外にもしっかりとした肉付きだ。
雪を支えたり抱えたりする度にずっしりと感じる左腕の重みを、俺の首に回す。
そして、なかなかに味のある「美鳥」の暖簾を潜ろうと大きな一歩を踏み出し、二歩目で完全に店の敷居を抜けられる。
そんな時だった。
「あ、そうだ。お兄さんたち、この人、俺の彼氏の哲ちゃん。めちゃくちゃ愛しちゃってるから、絶対手出さないでよ?」
「へ?ああ、そういう感じなんだ?」
瞬間、足も頭も呼吸さえも、ありとあらゆる俺の機能が時を止めていた。
何故かって?そんなのは明白だ。
つい数秒前に耳に鋭く突き刺さったセリフの主が、他の誰でもない、俺の愛しい恋人。
南沢 雪だからだ。
雪と恋人になって長らくが経とうとしているが、この展開が予想できなかったのは俺が未熟なせいの一言に尽きるし、ぐうの音も出ない。
だが、一つだけ言い訳をさせてくれるなら。
フリーズした頭の隅で、小高い丘に向かって全力で走り叫ぶ姿が見えた。
「だってさ、あと一歩だったんだぞ?店の外まで!しかも、会計にかかる時間なんて数分のことだろ?なのに!どうして、どうしてなんだー‼︎」
盛大に溜め息を吐きたい気持ちをどうにか押し殺し、お兄さんたちの引き攣ったような戸惑ったような、なんとも言い難い表情を目にして、重い口を開く。
「雪!そういうのはいいから、早く行くぞ!お兄さんたちもすみません、ご迷惑をおかけして。」
最早、何に対する謝罪なのか自分でも理解していなかったが、口から自然と漏れ出たその言葉に身を任せ、素早く計画を練り直すことにした。
ぼーっとしたり心配したりで、皮と砂肝と一杯のサワーのみの夕飯ではさすがに足りないだろうと騒ぐ腹の虫を落ち着かせたいのは山々だ。
今すぐ、店を出てコンビニに寄って好物のお茶漬けを買いたい。
だが、きっとその選択肢はまずい、と本能で悟った俺は雪の腰に回していた右手を背中に滑らせ、やや強引に押すことにした。
もちろん、一刻も早く、俺のアパートに帰るためだ。
雪、お願いだからこれ以上、口を開くな!お願いだ!
冷や汗が出るほどに願った、はずだった。
それでも、思った通りにいかないのは、日頃の行いの悪さなのか。
「そうそう!哲ちゃんも俺のこと、めちゃくちゃ愛してるはずだから!ね?哲ちゃん。」
雪がぐるりと首を回し、誰もが惚れる可愛い笑顔を振り撒いてそう、言ったのだ。
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