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逆さまの男の話
閉鎖されたコミュニティ内部で秘匿された概念というものは大抵、コミュニティの中で重要な役割を担う存在とされる。
M県の森林地帯にある集落に、秘密裏に奉られている『逆さまの男』の話を持ってきたのは、村から上京してきたという青年だった。秘匿され続けたその男について、取材料欲しさに提供することを決めたのだと言う。明け透けにそう語る彼の服装は確かに、見窄らしさを感じさせる。誠実さを感じられないというのは正直な感想だった。
ともあれ、二流ゴシップ誌の記者である私の元へとこんな話が舞い込む程度に、彼の話は眉唾だった。
青年曰く、男の生い立ちについては詳しくは知らないが、とにかく『逆さ』であるらしく、やたらとその言葉を強調した。どういうことですか、と私が尋ねても、語彙の乏しい彼の言葉では要領を得ない。どうやら奇妙な家の造形も関係しているようだが、逆立ちをして生活をしているとか、蝙蝠みたいに足を引っ掛けて逆さまになっているとか、そういう話でもないらしい。
写真は無いのかと問うと、昔隠し撮りをした一枚だけがあると言われた。フィルムカメラで撮影されたという封筒の中のそれを見ると、夜、暗い背景に建つ家の窓の向こうに、どうやら逆さに立っているらしい、と思われる男が写っていた。だが、それだけだ。何の証拠にもならない。しかも窓には格子があるようで、全身どころか半身の半分も写っていない。
残念ながらお帰りいただくことにしたが、金をもらうまでは頑として動かない、と泣き喚く女々しい男に同情し、私が自腹を切って僅かな報奨金を与えた。そんな金でも彼は感謝し、会社を去っていく。青年の境遇に少し同情し、私は渡された写真をじっと見た。
ピントがボケているので、何とも判別し難い。が、語彙が少ないとは言え、あそこまで熱弁してその存在を説明しようとする青年の姿が妙に印象に残った。
折角の休日を潰してまで、何を酔狂なことをしているのだろうと呆れつつ、私は車を朝からM県まで走らせ、男の話に出た村へと進んでいく。
国道から未舗装の道へと逸れてから、一時間以上進む。途中、山沿いの崖や森を幾つか抜けるという冗談のような秘境の場所を通り、ようやく件の村に到着した頃には、午後一時を回っていた。
山に囲まれた集落である。今、日本から日々消えていこうとしている有象無象の村々の、その中の一つ。年代物の車やバイク、耕運機などの機械は各家庭にあるらしいが、現代の雰囲気を感じられる機械といえばその程度だ。家屋の多くは昔ながらの日本建築であり、文化住宅さえも現代的と感じられてしまう程度に、そこは時間が止まっていた。
村の入り口に車を停めて、しかし村に足を踏み入れることを躊躇する。『逆さまの男』は村で秘匿扱いされた存在だということで、そんな村に突然部外者の男が取材にやってきたとしても、追い出されるのがオチではなかろうか。
どうしたものか、と車内で頭を悩ませていると、ふと稜線の向こうに、奇妙なシルエットが見えることに気付く。
生い茂る木々のてっぺんから突き出すように見えたそれに、見覚えがあった。鞄から写真を取り出し、写り込んでいる家の屋根を比較する。間違い無い、あの家だ。私は鞄を担いで車を降り、森の中を隠れるように移動した。遠回りしながら村を避け、家へと近付いていく。
三十分ばかり歩いて到着したのは、青年が言った通り、奇妙な家だった。
家は木造の平家である。だが、屋根を除いた家の高さは二メートルも無い。精々、百八十センチというところだろうか。人が快適に居住する為の高さではなかった。窓ははめ殺しらしく、その全てに格子が設けられている。また、写真を見た時は気にしていなかったが、窓は全て天井側ではなく、床に近い位置に設けられていた。まるで、天井から吊り下がった体勢になればそこに丁度窓が来るだろう、というような。
軒先には八方に注連縄が結ばれ、正面玄関と思われる大きな引き戸が設けられている場所には、一際太い注連縄が結ばれている。玄関へ続く道には、何故か鳥居があった。
家の裏手から、離れへと続く廊下がある。壁も床も全てしっかりと塞がれている他、これもまた人一人が中を歩くのがやっとだろうという細さで造られていた。
この通路が行き着く先の離れは、母家よりもだいぶ新しい時期に造られたようで、壁面の漆喰の劣化が少ない。こちらもまた、一階あたりの高さが妙に低い作りとなっていた。こちらは平家ではなく、五メートルほどの高さがある塔のような建造物だった。上に行くほど先は窄み、円錐状になっている。
写真は、私が立っている木陰から少し離れた場所から撮影されたらしい。その辺りへと歩いていくと、その瞬間、写真の窓の場所に人影が見えた。
立っているのは、男が一人。
しかも彼は、逆さだった。逆さまになった頭が、窓からこちらを見て目を丸くしていた。
私も唖然としていると、男は自分の口元に人差し指を立てながら、玄関の方を指差し、姿を消した。私は周囲を確認し、誰にも見られていないことを確かめてから、急いで家へと入る。
「驚いた。どうぞ、いらっしゃい」
玄関の扉を開けると、男は笑顔で私を出迎える。
彼の頭は、私の足元にある。天井に足を付け、頭を下に向け『立って』いた。
まるで天井が地面であるかのように。
五十半ばらしい年齢の男は名前を名乗らなかったが、それが生まれついてのことだと彼は語る。この世に生を受けた時、名前を与えられなかった。その生い立ち故に村の共有財産と見做された彼は、逆神様と呼ばれるようになったというので、私もそれに準じて彼をそう呼ぶことにした。
家の中は、天井の低さ故にとても窮屈な印象を受けた。部屋数自体は多く、面積も広い。しかし窓が小さく採光量が少ない為、電気の無いこの家は何処か辛気臭かった。
特に目を引くのは、本の山だった。平積みにされた本が、文字通り床から天井まで積み上がっている。部屋の殆どはこうした本に占拠されており、まるで本の森の中を歩くようにして、私は客間に通される。
その際、食いかけらしい握り飯が乗った皿が床に直置きされているのに気付いた。さっさと片付けようとしたのだろう、逆神様は作務衣から伸びた腕をひょいと伸ばしてそれを口に放り込む。成る程、重力に逆らっているのは彼の肉体だけらしい。普通の家屋ほどに天井が高いと、床に落ちたものが拾えない。だからこの家は、こんなにも天井が低いのだ。
家の造りは純和風なのだが、畳が無いので生活感が無い。それどころか、本以外の荷物が家の中に殆ど存在しなかった。それについて、逆神様はシニカルな笑みを浮かべて答える。
「私は何でも手に入れられるんです。村から与えられる物なら、何でも。それだけです」
畳の無い客間にお互い腰を下ろすと、相手の顔がほぼ同じ高さに並ぶ。彼の作務衣は床に向かって落ちようとしているのに、彼自身と彼の髪の毛は天井に向かい、老いてなお整った顔立ちのイメージを壊さない。彼は訥々と、生い立ちを話し始めた。
彼が産まれた当時、村ではいまだに産婆が赤子を取り上げていた。半世紀以上前の話である。
産婆が彼を産湯に入れようと、彼の臍の緒を切った時、彼の体から重力が消え、産婆の腕から上へと抜け出ようとした。慌てて産婆が産湯の張られたタライに体を押し付けても、赤子の体は彼女を跳ね除けようとする。やがて、万物を支配する重力が彼にだけ逆向きに作用していることが分かると、村人はそれを祟りや呪いの類と騒ぎ始めた。
死産したことにしようと話し合いがもたれ始めた時、村長らが声を上げた。これは福である、と。逆神様は言う。
「中国に、倒福というものがあるじゃないですか。長達は何処で聞いたか、その話をいたく気に入っていたそうです。逆さまの重力を持つ私が、村に福を授ける現人神だと言ったそうです。失笑物ですよね。ここは日本なのに」
ともあれ、村を豊かにする現人神への祈りを捧げる為、そして何より子供を殺されることを恐れた母により、彼は守られることとなった。それが、この家だった。
「守護という名の幽閉ですけどね」
大地に足を付けられない神を、村女の普通の家に住まわせるわけにはいかない。彼は母親から引き離され、村中の人間が一丸となり、彼と彼を世話する乳母が住む為の小さな家が建てられた。彼の世話は困難を極めたが、彼の為に特別に設けられたこの家が、その困難を解消させ、彼を育てていくこととなる。
「おしめは、床に固定された拘束具を使うことで交換させられたそうです。乳も、そのままでは逆流してしまうので、横に寝かせながら飲ませなければならなかったそうで」
寝床が大変でした、と言いながら、逆神様は天井を歩いて隣室へ向かう。天井に、天袋のような引き戸がある。中は細長い洞のようになっており、寝袋が押し込まれていた。鰻の寝所という形容がしっくりと来る。
「今でこそ寝袋ですが、昔は布団でした。こうでもしないと、掛け布団が『天井』へ落ちてしまうので」
言いながら、彼は床を指差す。「便所と湯浴みも大変です。特に便所は『逆立ち』しなければなりません。五十年も続けていれば慣れましたが、流石に体力が厳しいですね」
廁を覗くと、和式便座の床に二つ、足を置く場所に革のベルトが固定されていた。一度逆立ちした状態でそこに足を引っ掛けて立たなければ、用を足せないとのことだ。湯浴みは、温めた湯を村の者に運ばせ、手拭いで体を拭くしかないらしい。
食事も、服も、生活に必要なものは全て村から与えられる。自分はただ、存在しているだけでよかった。逆神様はそう語り、悲しそうな顔をする。
「けれど、外の世界と繋がることは許されませんでした。村の外へ出たがるような、外界との接触を一切絶たれた世界で生きていかざるを得ませんでしたが、十七の頃だったかな、私が発狂して暴れたんですよ。閉塞感に殺されてしまいそうで。家を怖さんばかりに暴れたので村が唯一、読書を許してくれました。それ以来、これが私と世界を結ぶ唯一でした」
家に溢れる、山のように積まれた本を指し示す。
これが、この家に半世紀もの間囚われ続けた男の見ている世界か。私はその孤独と閉塞感を想像し、眩暈を覚える。でもね、と逆神様は続けた。
「心を豊かにしてくれる膨大な本でも、あの開放感は味わえなかった」
言って、彼は私をあの離れに案内してくれた。
円錐形の塔の内部には、何も無かった。漆喰で固められた外壁だけで、その空間は成立している。天井を歩く逆神様から見れば、この建物は擂り鉢状の舞台に見えているのだろうか。
塔の天辺、或いは擂り鉢の底には、ガラスがあった。
一辺が約二メートルはあるだろうかという、大きな天窓ガラス。やはりそこには格子がある。だが、晴れ渡った青い空が美しく澄み、何処までも抜けるように輝いていた。
首を真上に向けて見上げていると、擂り鉢の底へ続く階段を降り、逆神様は天窓の傍にしゃがみ込み、じっと『真下』を眺める。
「想像出来ますか? 物語の主人公達はいつも、空を見上げ無限に広がる世界に想像を膨らませ、希望に満ちた顔をするのです。けれど私にとっての空は『下』であって、どれだけ『上』を見ても茶と緑の大地しかない。産まれた時から、足元にあるのは空でした。私には大地を歩く為の脚があるのに、決してそこを自分の力で歩くことは出来ません。私にはね、空しかないんですよ。でも私を助けてくれそうな人は誰もこの村を知らない。誰も私を知らない。だから、貴方だけが救いなんです」
逆神様は私を『見上げ』て、目に涙を滲ませて嘆願する。
「お願いがあります」
街に向かい、必要な道具を揃えてから深夜、再び村に戻る。悪戦苦闘しながら塔の外壁を登り、ノミを使い、漆喰で固められた格子を外した。
玄関口でロープを手渡すと、涙を流しながら膝を突き、逆神様は感謝の言葉を繰り返し述べた。同時に渡されたのは、分厚い手帳が五冊。囚われの城の中で書き続けた物語と自伝的な手記だという。
「私も、世界に生きたという証が欲しかった」
何も言えずに私はそれを受け取ると、どうか明日の朝裏手の茂みで全てを見届けてほしいと新たに懇願される。乗りかかった船だと、私は一晩だけ、村の外れに停めた車の中で夜を明かす。
そして、翌朝。
塔が近くに見える茂みの中で、私はカメラを構えながらその時を待つ。
村の者が、逆神様の為に朝食を運んでくるその時間、それは起きた。
ぱりん、とガラスが割れる音がした。母家の方からざわめきが聞こえる。しばらくして人が集まり始める気配がすると、塔の天辺から彼が飛び出した。
体をロープに縛り付け、逆神様は『真っ逆さま』に空へと『落ち』る。
ビン、とロープが張ると大きな衝撃が走ったのか、逆神様の呻き声が私のところまで聞こえた。母家から、村から、悲鳴が聞こえる。塔の天辺からゆうに五メートルは伸びたピンと張ったロープの先端に、逆さまになった逆神様がしがみついている。私は夢中でカメラのシャッターを切った。手汗が滲む。汗が額を流れる。
ファインダーの向こうに、満面の笑みを浮かべた逆神様の顔が映った。
「俺は、俺は……!」
何かを言おうとした彼は、しかし言葉を続けられなかった。ロープの結びが緩かったのか、彼が切れ目を入れていたのか、ロープは塔との結びつきを失い、彼を完全に地上とのしがらみから解放させたのだ。逆神様は、歓喜とも絶望ともつかない悲鳴を上げながら、真っ直ぐ空へと上昇していく。
私と村人に見守られながら、彼の体はどんどん小さくなっていく。掠れて消えていく悲鳴と共に、彼の姿はやがて、無限に続く青と白のキャンバスの中へ吸い込まれ、見えなくなった。
彼の最期の言葉が何だったのか。それはもう分からない。
けれど、孤独と失意と、村へ隷属している境遇に対する絶望感に満ち溢れた彼の手記及び物語に目を通すと、彼は自分の名前を叫ぼうとしたのではなかろうかと思う。
誰にも与えられなかった名前。自分でそれを考え、自分の存在を誇示しようとしたのではないだろうか。その後はもう、きっと自分の生死など関係無かっただろう。だからあれは、彼による明確な自殺だった。
あの村が彼の死後、幸福を失い滅んだのかどうか。それも確認していない。けれど元々あの村に、そんな幸福など無かっただろう。それだけは分かる。
私は逆神様だった彼のせめてもの手向けに、彼の記事を掲載したかった。だが、取材した内容は編集長からボツを食らった。そもそも捏造記事など作るなと、こっぴどく叱られてしまった。むべなるかな、だ。
せめて彼の書いたこの手記を本にして、同人誌として販売してやることにする。それが、私に出来る精一杯だ。
尚、彼の手記には、彼を手放さざるを得なかった母親のことについても詳細が書かれていたが、それは私と彼だけの秘密にしておこうと思う。
(了)
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