Ⅰ 幻の村

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 ズルッと足を滑らせて、山肌を滑りかけた。慌てて伸ばした手が、何とか地面から飛び出た木の根を掴む。脛を擦ったのか、ジンジンと熱くなったが、確認する余裕もなかった。  気を散らせては駄目だ。  昨日の雨が、そこら中をぬかるみにしていた。足を取られては、滑落しかける。  下まで落ちて、骨でも折ったら、終わりだ。  しかも、今日も天気がいいとは言えない。どんよりした空から、今にも雨粒が落ちてきそうだった。  焦って落ちれば死んでしまうが、かといって時間をかけすぎ、雨に降られれば、身体を冷やして危険な状態になるだろう。  痛む足を木の根にひっかけ、懸命に身体を持ち上げる。  その時、目の前を不意に大きな動物が横切った。驚いてまた足がぬるりと滑ったのと、その動物が美しい鹿であることを認識したのが同時だった。  地面に投げ出され、嫌というほど身体を打ち付けた。ぬかるんでいるとはいえ、木の根や枝、石がごろごろしており、容赦なくそのやわ肌を傷つけた。  ……雨が降り出した。  冷えていく身体は痺れて動かない。彼女にはもう起き上がる力が残っていなかった。  ……お父様。お母様。  ぐったりと横たわった彼女の耳に、何者かの足音が聞こえてきた。目はもう瞑ってしまっていたから、それが何かも分からなかったが、不思議と怖いとは思わなかった。  迷いなく、力強い足音。まっすぐこちらに向かってくる。  わたしはあんなに苦労したのに、随分早く歩けるのね。  そんなことを思いながら、彼女の意識は完全に暗闇に落ちていった。
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