Ⅲ 激流

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 最初に異変に気が付いたのはナルだった。壁と床を手で触れ、何かを感じようと神経を集中させる。  それから姿勢を低くして窓に近づき、目を凝らした。二階にあるこの部屋からは、宿の入り口にあたる通りが見下ろせる。といっても、裏通りの細い小路だ。未明のこの時間、通りは闇に沈んでいる。闇がわずかに動いたのを、よく見えるナルの目は逃さなかった。  次いで陽は椅子に座っていたターシャを引っ張り、床に降ろした。自分は屈んだまま、部屋に一つある扉に近寄り、右耳をピタリと扉にくっつけた。  三人は昨日から、オロたちが泊っている「フォルトナ」に移っていた。ラウルと陽の交渉が成立したので、こちらに移ってきたのだ。警備面でも情報面でも、盗賊たちと一緒の宿の方が、利があるからだ。  盗賊捕縛を任務とする官吏かと思ったが、それにしては情報が来ない。役人たちなら、来る前から情報が洩れている。  思い出したのは、マルゴの町を出た後、襲われた時だ。声一つ聞こえることなく急襲された。あの動きは恐らく(プロ)の者だろう。  ターシャの身元がばれたのか。オロたちか、宿の者かが、通報したのかもしれない。  逃げないと。  陽に伝えようと、ターシャが立ち上がろうとした時、陽が扉から頭を離した。  扉からつんのめるように三回叩かれた音がして、小さな影が転がり込んできた。 「ガコ!」  抑えた声で叫び、身構える。  追手を手引きしてきたのか。 「しっ」とガコは鋭くターシャたちを制した。 「あんたたちを逃がす。ついてきて」  それでもターシャたちが動かないのを見ると、ガコは「チッ」と舌打ちした。 「忘れたの?オロを襲ったのもあいつらだよ」  階下が騒がしくなってきた。男たちの怒声が聞こえる。 「分かった」答えたのは陽だった。「頼む」  それからは素早かった。  陽はターシャを立たせ、いつも肩にかけている荷物を掴むと、灯りを取っていた蠟燭を吹き消した。その間に、ナルもターシャの横にいた。  ターシャはナルの手を握った。いくら暗くても目がよく見えると言っても、暗闇で耳が聞こえないと不安だろう。唇も手も見えないので、言葉を伝えられない。  ナルの手は一瞬躊躇(ためら)ったが、ターシャの手を握り返してきた。 「向かいの部屋から、屋根に出るよ」  ガコは小声で言うが早いか、廊下へ飛び出し、向かいの部屋へ入る。ここにも仲間が泊まっていたが、今は応戦に階下へ行っているのか、誰もいなかった。  ガコはそっと扉を閉め、窓に近寄った。隣の建物と近い割に、月の光が差し込んでいて、ターシャたちがいた部屋よりは、少し明るかった。  ガコが窓を開けると、風が入り込んできて、ターシャの髪をさらった。  ガコは窓から身を乗り出すと、ひょいっと上に上がった。  彼は当たり前のように軽々と上がったが、自分はそうはいかないだろう。  ターシャがそんなことを思っていると、窓から逆さに頭が覗いた。 「アンから来て」  一瞬遅れて、自分が(あん)だったことを思い出す。慌てて窓に近寄ると、考えることなく、窓枠に足を掛けた。こういうのは躊躇していたら、怖くなる。  身を乗り出すと、風に煽られて、髪が舞い上がった。その隙間から、ガコが伸ばした手が見えた。  いくらターシャが一番軽いからと言って、ガコ一人では支えきれないだろう。自力で上がろうと、窓枠の上部に手をかけ、自分の身を持ち上げる。屋根は窓枠から腕一本分くらいの高さで、反対の手がかけられれば、何とか上がれそうだった。  ガコの手がほんの少し迷って、反対側の腕に伸ばされる。 「ガコ、大丈……」  手助けを断ろうとした時、強い風が吹き上げた。 「わ」  バランスを崩しかけたターシャの身体を、誰かが下から抱きかかえた。  止まっていた息を吐き、ターシャが目をやると、強い光を放つナルの瞳と目が合った。  ナルだとは思わなかった。 「……大きくなったね」  ターシャはお礼も言わず、そう呟いてしまった。ナルはターシャと恐らく同じくらいの歳だが、ターシャはナルが自分より小さい存在だと思っていた。ターシャが成長したように、ナルも成長しているはずなのに、ターシャは今初めて、ナルが自分と同じ年ごろの男なのだと実感した。  ナルはそのままターシャを持ち上げ、ガコに手を掴ませると、自分の身体ごと一緒に上がってきた。  陽もその後続いてすぐに上がってくると、ナルに「傷開かなかったか?」などと訊いていた。聞こえないナルは当然答えず、ターシャの手を握って、先を見つめていた。  こんな時なのに、ターシャはナルに急に男を感じて、ドキドキしていた。  同じ手を繋いているにしても、さっきとは全く意味が違っているような気がした。  暗闇の中で、果たして手を繋いでいるのは本当にナルなのか、と混乱した頭で、そんなことを思ったりした。 「あそこから、降りられる」  ガコは三軒先の屋根を指さした。 「静かにね。なんならアンは、這ってくればいい」  そうはならなかった。ナルが手をしっかりつないで誘導してくれたおかげで、危なげなく、怖くもなかった。  壁に這うように付けられた階段を使って、地上に降りることができた。  オロと軍との小競り合いは、すぐ近くで聞こえたが、幸いこちらの通りに見張りはおらず、ターシャたちは闇に紛れ、宿から離れた。
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