Ⅲ 激流

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 ターシャが翌朝目を覚ますと、見知らぬ男が部屋の中にいたので、危うく叫び声を上げるところだった。それをせずに済んだのは、その前に陽が侵入者の首を締めにかかっていたからだ。 「お前!ふざけんな。ターシャ驚かせたら殺すって言っただろうが!」  激高する陽に驚いて、出かけた悲鳴も引っ込んでしまった。 「ちょっ、ほんとに死ぬ!やめて!」  哀れな声を出して、侵入者は自分の首を絞め続ける腕を必死に叩いていた。  ターシャが助けを求めるようにナルに目を向けると、ナルはもう起き上がっており、不機嫌な顔で腕を組み、二人を見ていた。  ターシャの視線に気が付くと、首を横に振ってみせた。 『この男は大丈夫だよ』  そう手話を送ってターシャを安心させた後、すぐに付け加えた。 『役にはあまり立たないけど』  更に畳みかける。 『あまり知らないんだけどね』 「よく知らんのに、役に立たないって言うな!」  あ、この人、手話が分かるんだ。  ターシャは身体を起こし、男の顔を見た。  軽薄そうな顔、小柄だが身体はしっかりしている。歳は陽と同じくらいか。どうやら知り合いらしい。まさか初対面であれほどじゃれ合わないだろう。陽にがっちり抑えられて悲鳴を上げているが、どうして反撃しないのか、ターシャは不思議に思った。 「ガザの隠密の人?」  ターシャが訊ねると、男はにっと笑い、陽は腕を離した。 「さすが公女」  男は跪き、(こうべ)を垂れた。 「わたくしは…」 「確か…シュンね」  男は跳ねるように顔を上げた。今度こそ、目が驚いている。 「お目にかかったことは、なかったと思いますが」  隠密のくせに、驚きが素直に顔に出ている。ナルの『役に立たない』の言葉を思い出しながらも、ターシャはシュンに悪印象は持たなかった。 「ナルが知っているようだったからね。ガザの隠密でも、ナルと顔見知りなのはそういない。クウとその部下のシュンだけよ。わたしたちの周りを探っていたことがあったでしょう?姿を見なくても、そのくらいは知っている」 「ひゃあ」と、シュンは奇妙な声を上げ、恭しく再び頭を下げた。 「(しゅん)と申します。以後、お見知りおきを」 「(さん)王女のところに連れて行ってくれるって」  陽は痺れを切らしたように、話しに割り込んだ。 「王女のところに?」 「話が早いでしょ?」  隼は早々に畏まった態度を捨て、得意げに胸を張った。 「……ナナライに頼もうと思っていたの」  言葉を選ぶように、ターシャはゆっくり言った。 「燦王女に会いたいのでしょう?俺がお引き合わせしましょう。俺は燦様付きの隠密でしたから」 「……」  ナナライに頼もうと思ったのは、ナナライがガザ王家と繋がっているからだが、ナナライ自身が信用できる男だからだ。  だが、隼には悪い印象は受けなかったものの、まだ信用しているわけではない。  何より、この男の上にいるクウは、むしろターシャにとって信用できない男だった。 「どうして、わたしたちが王女に会おうとしていると思ったの」  ここにいることを突き止められたのは、ドムに潜入している時に見つけたからだと言われれば、そうだと思う。だが、燦に会おうとしていることは、ここにいる人間にしか言っていない。 「そうされるだろうと、思っておりましたので」 「誰が」 「どうして」と訊く前に、ターシャは間髪入れずにそう言い放った。 「あー」  ポンコツぶりを露わにして、隼は天を仰いだ。言いにくそうに口を歪める。それだけで、誰だか分かる。 「俺の上司が……」 「……」  口を噤んでしまったターシャを見かねた陽が、頭を掻きながら再び口を開いた。 「まぁ、目的は果たせるわけだし」 「……」 「気に喰わなくても、敵ではないはずだし」 「……」 「今は私情を……」 「分かってるわよ!」  分かっている。手段を選んでいる時間もないし、立場でもない。  ただ、あの男のいいようにされるのが、嫌なだけだ。 「じゃあ、ガコを起こして……」  言いかけて、ターシャは途中で言葉を切った。こんなに大きな声を出しても起きないなど、あり得ない。ガコに限っては、特に。 「この子に何かしたの?」  隼を睨みつけると、彼は「だから嫌だったんだよ」などと言いながら、肩をすくめた。 「この子は連れて行けません。公国の、しかも盗賊の町の子でしょう。王女に会わせるわけには行きません」 「な…」  遠慮のないもの言いに、ターシャはかっとなりかける。実際、隼の言ったことが分かったのか、ナルの目も吊り上がった。  だが、ターシャは一つため息を付き、頷いた。 「分かったわ」  ナルが吊り上がった目のまま、ターシャを見た。ターシャはナルに向かって、首を横に振った。  確かにガコをこのままガザ帝国に連れて行くわけには行かない。巻き込んでしまう。ガコはオロの善意なだけであって、今回のことに関係ないのだ。  事情を説明するのも避けた方がいい。頭のいいガコは察してしまうかもしれない。  そう、確かにこれが最善だ。薬を盛り、眠らせて、置き去りにする。  彼が何も知らないと、周りに知らしめることができる、最良の方法。  問題は単純に、こちらの良心との折り合いだ。 「彼を安全に帰すことを約束してくれるのなら、彼を残して、いますぐ発ちましょう」  隼はホッとしたように笑顔を向けた。 「もちろんです」
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