Ⅲ 激流

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 そこは簡素な執務室だった。執務机は重厚であったが、決して華美ではなく、机の前にあるテーブルと寝椅子(カウチ)は、洗練されたものだが、実用の域を出ないものだった。 「久しぶりね、ターシャ」  隼が扉を閉めるのを確認すると、王女らしき人は待ちかねたようにそう言って、ターシャを抱きしめた。  そうされて、ターシャはようやく、この人はやはり燦王女だったのだと、確信を持つことができた。 「王女様もお元気そうで」  燦の腕の中でターシャがそう言うと、燦は笑いながら腕をほどいた。 「六年前と変わっちゃって、驚いたでしょう」  もちろん驚いた。しばらく本当に燦なのか、信じられなかったくらいだ。  だがターシャは首を振った。 「わたしだって変わりましたわ」  公女として公舎に守られていた頃とは全く違う、粗末な服を着た胸を勢いよく張って、そう応えた。  燦の目に一瞬だけ影がよぎったが、すぐにその目は細められ、愛しむような笑顔になった。 「そうね、大人になったわ」  それからターシャの少し後ろに立つナルに目を向けた。 「あなたもね」  燦の言ったことが分かったのだろう。驚いて目を見張ったが、その意味を理解して、目を伏せて後ろに下がった。  ナルが覚えていない六年前の惨事で、燦はその渦中にいた。事の中心であったナルの顔を、燦が忘れるわけはないだろう。成長期を経て、外見が変わったとしても、燦には分かったということだ。 「(こう)は?」  出し抜けに陽が声を出したので、ターシャも燦も揃って驚いた顔で、陽を振り返った。隼だけが面白そうにニヤニヤしている。 「隼、何ボヤっとしているの、皆さまにお茶をお持ちして」  そう言って、不満顔の隼を部屋から追い出すと、燦は改めて陽の顔を見た。 「あなたが、陽?」 「そうだよ。俺のこと知ってんの?」 「ええ。昂がよく話してくれたわ」  燦はターシャたちに寝椅子に座るよう、促した。  ターシャは言われた通り腰掛けながら、陽の態度に驚いていた。いつも大人びていて冷静な陽が、子どものように不機嫌な態度を隠そうとしない。そもそも、王女とは初対面のはずだが、どうしていきなりこんな失礼な態度なのだろうか。  昂という名前には覚えがある。六年前も燦と共に公国を訪れていた。ナルを探していて、その行方をターシャが教えたことがある。確か金髪で短髪の男だった。  そう言えば、陽がマルゴで昂という兄がいる話をしていた。  やっと昂という人物の話がターシャの中でつながった。陽の兄ということは蘭の息子か。金髪の…… 「昂がどこにいるかは知らないわ」  燦の声で、ターシャは我に返った。 「はっ」と陽は笑い声を上げた。 「ついに別れたか」 「別れてはいないわ」 「じゃあ、なんでどこにいるか知らないんだよ」 「彼は行商人で、わたしは蒼碇の長官よ。彼の行動の全ては把握できないわ」 「あいつもいるのに?」  陽は隼が出て行った扉を指さした。 「昂にそんな監視を付けるみたいなこと、したくない」 「どっちかにしろよ!」  陽が声を荒げて、立ち上がった。 「あんたは昂の気持ちの上に胡坐をかいているだけだ。一緒にいられないのなら、突き放せ。優しいふりをして、エサをちらつかせるな」 「そんなんじゃないわ。一緒にいるのは難しいけど、会えば……」 「それで、飼い殺しか!」  陽は吐き捨てるように言った。  その剣幕に、ターシャはただただ陽を見つめることしかできなかった。  陽が息をついて、ターシャに目を向けた時、その目は情けなく歪んでいた。 「ごめん、ターシャ。冷静にここにいられないみたいだ。ちょっと出てるよ。ターシャは自分の話をして」  陽はそう言って、部屋を出て行った。  少ししてナルも立ち上がると、『二人きりの方がいいんじゃない』と手話で示し、陽を追うように出て行ってしまった。
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