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Ⅳ 狂気
「翠様、聞いておられますか」
落ち着いた声に、それでもわずかに苛立ちを感じて、翠は目を開けて相手を見た。
「聞いているよ、練」
やっぱり。
練の眉間にわずかに皴が寄っている。他の人間では、それがいつもと違うのか見分けがつかないだろう。
この男は怒りや苛立ちを顔に出すことがほとんどない。常に心が平静なのだろうと、館の人間などは言っている。もっとも、笑った顔も見たことがないが、と注釈が付くのだが。
彼の心が穏やかなわけではないことを、彼の主人である翠は知っていた。ただ、感情が表に出ないだけだ。全く、何を考えているのか分からない。
しかしこの家に、翠の味方と言えるのは、練だけだった。彼だけが、允家当主である翠の父に、翠の行動の端から端までのいちいちを、吹き込むようなことはしないからだ。
練は再び感情の乗らない声で報告を続けた。
「氏族会議では公国でカエルムが流通しているとの話が出たそうです。当主様は当然、当家の関与を否定されておられます。陛下は四氏族長に全貌の解明を指示されました」
白い顔に青筋を立て、怒りのままに抗弁する父の姿が、容易に想像がついた。あまり考えを巡らせることなく、感情のままに口に出してしまう。よくそれで氏族長が務まるものだ。
だが、今回の場合は彼の姿には真実味があっただろう。実際、父はカエルムのことは何も知らないのだから。
「それで?」
先を促すと、練は顔色も変えず、翠の意図通りに話を進めた。
「西の方から送っています。痕跡はうまく消されているはずです。あと、遜が興味を示しているという話が出ています。末端ですが」
「それは、会議の後?」
「前です」
「……そう」
遜は、全の王族は別として、四大氏族の中で一番公国に深く食い込んでいる。情報が早くても不思議はない。
そしてもちろん、あの爺さんは氏族会議では、しらを切りとおしたということだ。
手を出す気があるということか。
目論見通りだと翠はそっと拳を握る。
「あと、サボン殿のところに、針森の薬師から『神の薬』たるものの売り込みがあったとか。それがどういったものかは、まだ調査中ですが」
「ああ」
翠は少し笑って頷いた。
「あれは嘘だよ」
一人の少女の姿を思い出す。警戒しながらも、自分をしっかりと見つめてきた目。普段なら、意志の強い娘なのだろう。だが、やはりあれはショックだったようだ。
「確かですか?」
練の口元が微かに引きつった。これも、翠にしか分からない程度だ。
「ああ」
請け合ってから、なぜか気持ち悪さを感じた。直感とまではいかないが、どこか座りが悪い。
本当に?
自問自答する。
公女を助ける為に、ラウル・サボンを引きつける口実だと思っていた。
だが……
「調査を続けてくれ」
言葉を翻した主に、練は「かしこまりました」と頭を下げ、部屋を出て行った。
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