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いつも一人で眠っている寝台に、夫が寝ている。嬉しくて仕方がないはずなのに、瑠は痛々しいものでも見るように、夫の寝顔を見ていた。少し鼾をかいている。
村に帰ってきた夜は、どんなに疲れていても、一度は瑠を抱いてくれた。一通り外で再会を喜び、夫婦の家に入ると、巌も待ちきれないようにソワソワしてくるのが、可愛らしく愛おしかった。
だが、今回は、瑠がほんの少し、家の用事と自分の身繕いを終えてから寝台に行くと、巌はもう寝入ってしまっていた。
こんなことは初めてだった。
だが瑠は、身体の熱が冷めてくると、今夜巌と寝なくて済んだことに、安堵している自分に気が付いた。
きっと抱き合ったら、彼の身体の変化を決定的に体感してしまう。
怖かったのだ。
瑠は厚手の上着を羽織ると、そっと家を出た。
春先と言えど、夜はまだまだ冷え込む。
瑠は上着の前をしっかりと抑えて、真っすぐ村長の家に向かった。村長はもう高齢で、村の外には出ておらず、村の精神的支柱のような存在であるが、代わりにその息子が、村の外に働きに向かう男たちの、頭のような役目を担っていた。
こんな時間に、しかも外から帰ってきたばかりの家を訪ねることは、とんでもない非礼だと分かっているが、瑠は一刻も早く頭を問い詰めたかった。
村長の家には明かりが灯っていた。家の中から、賑やかな声が聞こえてくる。無事の帰還のお祝いをしているのだろう。
ますます訪ねにくい。
さすがに正面から乗り込む勇気はなく、家の裏口に回り、何か足掛かりとなるものがないか、侵入者よろしく物陰から伺っていた。
期待していた通り、裏の引き戸が開く音が聞こえて、中から男が出てきた。男は手に持っていた煙草を口にくわえた。それから、ふーっと長く煙を吐いた。
体格がよく、顔が強面のその男は、見た目ほど怖くはなく、面倒見がいい。
父と同じ歳のこの男に、瑠は子どもの頃から可愛がられていた。
「譲おじさん」
瑠が声を潜めて呼びかけると、譲と呼ばれた村長の息子は、ハッとしたように目を見開き、そのまま瑠に目を向けた。瑠と目が合った途端、張りつめた肩の力が少し緩んだ。
「瑠……」
ため息を付くような応えに、彼は瑠が来ることを予想していたのだと、瑠には分かった。
「あっちで何があったの」
瑠は大股で譲の傍まで近づくと、彼の服を引っ張り、説明もすべて省いて、そう詰め寄った。背がもう少しあれば、胸ぐらをつかみたいところだ。だが小柄な瑠は、譲を引きずり下ろすように、彼の服を引っ張るしかなかった。
譲の目は一瞬揺れたが、彼は自分の服を掴んでいる瑠の手を引き剥がした。
「何のことだ」
彼の顔が幕を張るように、一瞬で頭の顔になった。
瑠は心の中で舌打ちする。何のことか分からないはずはない。
「巌よ。あんなに一目瞭然なのに、何もなかったなんて言わせない。巌の身に何が起ったの」
「……巌が何か言ったのか」
見下ろす譲の顔に、隙はないように見えた。
「なんでもないって」
言いながら、瑠は唇を噛んだ。そう言えば、譲がどう返してくるか、安易に予想できる。
「では何でもないのだろう。心配するな」
この村の男たちはいつもそうだ。家族を、妻や恋人や子どもを、ただ守っていけばいいと思っている。心配をかけないようにだけ、心を砕く。
「譲おじさん」
瑠はわざともう一度、そう呼んだ。
「おじさんには、どう見えた?巌は何でもないように見える?」
痩せこけた身体。眼窩の窪んだ顔。気力体力の後退。
「何なら、今から巌をたたき起こして、ここに連れてくるわ」
「……」
「お願いよ。わたしは気付かない振りなんてできない。絶対に、しない」
村の女は、よく気が付かない振りをする。長く家を空ける、男たちの浮気心や体の不調。
それにいちいち心を動かされていれば、女たちも持たないからだ。短い間の、村にいる時の夫だけに心を向ける。
だが、瑠は昔からそれが出来なかった。余計なことまで気が付く。皆が言わないでいることを、口に出す。
余計なことを言うんじゃない。おせっかいもほどほどにしろ。大人たちはそう言って、瑠を窘(たしな)めた。
父だけが、「瑠は俺に似て目端が利くんだな」と頭を撫でてくれた。
瑠が年頃になると、その父も滅多に家に帰ってこなくなった。金だけは届くので、生きてはいるのだろう。
代わって瑠を褒めてくれたのが、幼馴染の巌だ。
「瑠は怖いもの知らずだよね」
そう言って、目尻と眉を下げ、困ったように笑うけど、絶対に瑠を宥めたりはしなかった。
巌の痩せた胸を思い出して、瑠は涙が出そうになった。
何も分からないうちに、巌が死んだらどうしよう。
「教えて。わたしの家族よ。あの人を助けなきゃ」
縋りつく瑠の声が、だんだん大きくなっていくのを気にしたのか、譲は辺りに目をやり、「分かったから」と小声で瑠を宥めた。
「送っていくよ。歩きながら話そう」
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