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中から何かが飛び出してきた。
何かではない。巌だ。
だが、その様相は動物じみていた。頭を激しく振って、キョロキョロと周りを窺っている。
「巌!」
瑠は走り出した。譲も気が付き、瑠の後に続く。
巌も気が付いたのか、こちらに向かって来た。
いや、飛びかかってきた。
「巌!」
悲鳴のように叫んだ瑠に、巌は体当たりのように飛びついた。巌の骨ばった身体が当たり、瑠は呻いた。
「瑠!どこに行っていたの!目が覚めたら、いないから、捨てられたかと思った」
痛そうに顔を歪める瑠に構わず、巌は瑠を押し倒すように抱き絞めてくる。
よろけた瑠を、譲が支えてくれた。
「巌、落ち着け」
譲がやんわりと巌を瑠から離そうとすると、巌ははじめて譲に気が付いたように、譲に目を向けた。
「譲さん、なんであんたがここにいるんだ。瑠を連れ出したのはあんたか!」
瑠は信じられない気持ちで、巌の顔を見た。
瑠の夫は、人に気を使いすぎる男だ。間違っても、こんなふうに、根拠なく人に噛みつくなんてことはしたことがなかった。
そもそも、人を怒鳴りつける姿など、みたことがない。
それは譲も同じはずだが、譲は驚いていないようだった。
「……俺のことはまだ分かるのか」
そう呟くと、瑠と巌を抱えるように、二人の家に歩き出した。
「今日はゆっくり休め」
「じゃあ、煙草くれよ」
媚びるような巌の物言いに、瑠はまた驚く。
譲が黙って歩いていると、今度はめそめそと泣き始めた。
「不安なんだよー。一本でいいからくれよー。そしたら明日から頑張るからさぁ。これで最後にするから」
「あれは、もうない。町を出る時に、そう言っただろう」
譲がそう窘めると、巌はまだ涙を流したまま、怒りを露わに大声で怒鳴った。
「じゃあ、もう、町へ戻ろう!」
「巌、もうやめて」
見かねて、瑠が止めようとすると、巌は瑠を突き飛ばした。
「うるせぇ!殺すぞ」
瑠は尻餅をつき、座り込んでしまったが、お尻の痛みより、心に受けた衝撃で、立ち上がることすらできなかった。
あれは誰だ?巌の顔を被った、何か違うものじゃないだろうか。目は吊り上がり、歯をむき出しにして怒鳴っている。
瑠はそれ以上、恐ろしくて巌に声がかけられなかった。ただ座り込んだまま、ブルブルと震えていた。
「よせ、巌」
喚く巌の腕を押さえつけて、譲は低い声で叱った。
「…瑠が怖がってる」
途端に、巌の顔が歪んで、元の情けない顔に戻った。そのままうなだれ、脱力してしまった。
譲に捉まれたまま、引きずられるように家に戻された。家に入ると、巌は毛布にすっぽり潜り込んでしまった。
瑠はその間ずっと、為す術もなく、目の前の光景を見ていることしかできなかった。
あんなに、事実を暴き、なんとかしようと意気込んでいたのが嘘のように、ただ身を縮こまらせて、呆然としていた。
譲は瑠に、家の外に出るように目配せした。
「村には煙草がないから、そのうち正気に戻るだろう」
「煙草?」
瑠は我に返って、眉を顰めた。
「違うわよね。あれは煙草じゃない」
譲はため息をついて、あきらめたように頷いた。
「そうだ。あれは恐らくカエルムだ」
カエルム…現国王が全面禁止した、悪魔の薬。
「なんでそんなものが…」
「隣から入って来るらしい」
「隣?」
「公国からだよ」
「は?」
怒りに目が眩む。つい最近、公国の大公とやらが、出迎えたガザの兵たちを騙し討ちしたと聞いた。今度はカエルムを煙草と偽って、ガザで売る。帝国を混乱させたいのか知らないが、こういう時、一番に被害が出るのはうちみたいな貧しい村だ。
正気を失いかけている巌に、一瞬でも怯えてしり込みしてしまった自分。たとえ回復しても、その傷は一生残るだろう。
「瑠、俺の家に行って、革のベルトと鎖を貰ってこい。雀に言ったら、すぐに分かる」
雀は譲の妻である。もちろん雀も瑠が幼いころから可愛がってくれた。太く温かい手で、わしゃわしゃと瑠の頭を撫でてくれる。それが瑠の雀に対する印象だった。
「皮ベルトと鎖?」
瑠が繰り返すと、譲は頷いた。
「禁断症状で暴れたり、逃げ出そうとしたりするからな。縛っておかないといけない」
「そんな……」
「……これから、つらいぞ」
独り言のように呟いた譲を見ないようにして、瑠は譲の家に急いだ。
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