19人が本棚に入れています
本棚に追加
殻を破る
喜美が、黄身の溶かれた皿を持ち上げ、口へと運ぶ。私はその動作が如何に背徳的な行為であることを理解し、思わず声を上げてしまった。
「あっ……!」
喜色に塗れた表情で、喜美は皿の中身を恥ずかしげもなく、音を立ててすすり込んだ。じゅるりと。美味そうに。
「あり得ない……直接飲んじゃうなんて……」
「んふふふ。美味しいよぉ。裕子もやればいいじゃん」
うまうまとした幸せの余韻に浸る喜美に対して、私は嫉妬と同時に躊躇なくそれができる神経の図太さに憧れを感じていた。はしたないと思う反面、ダイレクトに口内へ放り込むことで鶏肉とタレと卵黄が織りなす整然かつカオスな三重奏を味わい尽くすことができる。理にかなっているが、私には到底できそうもないこと。
「つくね、追加で頼もっか? ライスつきで」
注文の追加を訊いた。案の定、喜美が笑顔で応じる。
「うん! これ一本だけでナカおかわり四回は行けるわ」
「ちょっとペース早いんじゃない?」
「ふふん、まだ大丈夫」
呼び鈴を鳴らすと店員が飛んで来る。いい反応だ。すかさずホッピー用の焼酎ナカおかわり二つと、つくね(タレ)串を四本、鶏皮串(塩)を二本、そして小ライスを二つ頼んだ。
「ちょっとお手洗い行って来る」
そういって私は席を立った。寒の戻りで外は冷え切っていたが、やきとり屋の中は香ばしい燻煙が漂い、ある種の熱気を帯びていた。
お手洗いから戻って来る際に、私は何気なく厨房の様子に目を向けた。店主が恐らく私たちに供するための『たまご』を割っていた。慣れた手つきで卵黄だけを殻に残し、皿に載せる。流石だ……と感心していると次の瞬間、私は驚愕で固唾を飲んだ。
店主の手にはあの有名な、サトウキビから作られる旨味調味料、その赤いキャップの小瓶が握られていた。別の皿に大さじ一杯ほどの水を入れ、その上から赤いキャップの小瓶を三〜四回振る。次いで菜箸で軽く撹拌したあと、どこからか取り出したスポイトで中身を吸い取り、『たまご』の卵黄に数滴落とす。顔を上げた店主と目が合うと店主はにっこり笑い、悪びれる様子もなくいった。
「もうすぐ焼き上がりますからね」
「はぁ……ありがとう、ございます」
気のない返事をして席に戻った私は、喜美に切り出す。
「ね、喜美。あの『たまご』のヒミツ、わかっちゃった!」
「グルタミン酸ナトリウムでしょ」
「えっ……」
「まったく、あんた味オンチなの? フツーならすぐ気づくと思うけど」
「でも、アレを使うなんて……」
「まあ、摂り過ぎはよくないけど、手っ取り早く旨味を出すにはもってこいだよね」
納得のいっていない顔をしていたのだろう。私の顔をまじまじと見つめたあと、急に真顔になって喜美が話し始めた。
「裕子の趣味の小説ってさ。あらすじをただ並べて、なぞってるだけの感じがするのね。情熱的じゃないっていうか、パッションを感じられないっていうか……スパイス的な刺激や風味もないし、深みのある旨味もコクもない。野菜や肉を味つけなしで食べてる感じかな。普通以下。当たり前の味気なさ、ね」
喜美の酷評は普段から散々されているからよくわかっているし、的確だと思う。それに私も、出来不出来はともかく、起伏のある筋立てや驚くようなギミック、表現にはまったく持って自信がない。ブレイクスルー的な発想力など一欠片も持ち合わせていない。
喜美は続ける。
「向き不向きもあると思うけどさ。料理だってそういうものだと思う。どんなに美味しくても平坦な味だと食べ続けてると飽きるし、たまには辛かったり甘かったり苦味や渋味、エグ味がほしくなるもんだよ」
「そうだね。喜美のいうことはもっともだと私もそう思ってる。あんたのイラストは刺激的を超えた毒々しさに溢れてるけど、なんとも形容し難い独創的な雑味やエグ味はあるもんね」
「それ、ホメてね〜しな。あんたはキャラの見た目や描写少な過ぎ。そこからどんな人物像かを想像できない」
「う〜ん。一応外見は決めてるけどそれを挟む場所がないっていうか、その描写が必要なときにしか書かないというのは確かにあるかも。基本的にものぐさだし」
店員がナカおかわりとつくね(タレ)、鶏皮(塩)、そして小ライスを運んで来た。うれしそうにナカのジョッキを受け取り、ホッピーを注ぎながら喜美がいう。
「凝り固まった殻を破るのはそう簡単なことじゃないってことかな。歳取って、仕事をソツなくこなす手練手管は培っても、自分らしさの追求はまだまだ、だねぇ……」
「仕事に自分らしさなんか要らないもん」
「あ〜。そういやアレ、ポシャったんだって?」
「そうなのよ。大手が持ってた版権が某社へ売られちゃったから、なし崩し的にプロジェクトがなくなっちゃったんだよね。結構下準備してたんだけどなぁ……ま、おかげで、いい意味でヘンなプロジェクトに突っ込まれたけどさ。使った時間は返って来ないし、あのときは路頭に迷うんじゃないかって内心ヒヤヒヤだったよ」
わざと肩をすくめて見せる。
「災い転じて福となす。文字通りじゃない?」
ジョッキを掲げて喜美が笑った。私もジョッキを手にし、喜美のジョッキに合わせる。ごつんと少し重い手応えのあと、二人で一気に中身を空にした。
「すんませぇ〜ん! ナカおかわり二つ、お願いしますぅ!」
酔いが回り、少々呂律は怪しいけど、楽しそうな喜美の声が店内に響いた。
人づき合いが希薄な私だが、それでも喜美は友としてたまにこうして飲みにつき合ってくれる。辛辣な言葉は人を選ぶかも知れないが、忌憚なく、忖度なく、そして客観的ではっきりいってくれるのは、こちらもあれこれ考える必要がないので正直助かっていた。
今までもらい手がなかったのは本人の性格に致命的な問題がある一方で、あえてそれを望まず、お一人様での生活を楽しんでいるようにも見える。その生き方が羨ましいとは思わないが、こうしてつかず離れずのつき合いをさせてもらえてるということは、少なくとも嫌われてはいないのだと思う。
「ん? わたしの顔になにかついてる?」
「ううん、別に。強いていえば、あんたの毒気に当てられてる」
「外見てみ。桜がキレイだよ。毒気が抜けるかもね」
喜美に促されるように窓の外を見る。打ちつけるように降っていた雨は上がり、桜が街灯に照らされ、しっとりと艶やかに、その花を散らし始めていた。
最初のコメントを投稿しよう!