1.春に桜のなかりせば

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1.春に桜のなかりせば

「桜の花がなければ、人の心はざわつかなくていいのにな」みたいな歌詠んだの、誰だったっけ。  夏目すばるはそんなことを考えながら、今まさに桜の木の下で告白されていた。 「先輩が好きです。付き合ってください」  盛りを過ぎた桜の花びらが、夕方の川風に吹かれてはらはらと散る。 「だめ、ですか?」  制服姿の少女に潤んだ瞳で見上げられると、長めに伸ばした襟足の下で、うなじがちりっと痛んだ気がした。――いや、実際痛んだのかもしれない。 「駄目だし、こういうの困る」  すばるは眼鏡を押し上げた。  おそらく、単純に生徒会の仕事で目にする機会が多いからだろうが、新入生たちはすばるを勝手に「綺麗系」と持ち上げる。田舎ではそれが特別に思えるようで、去年、高二の春にもやたらと告白された。  だから三年になった今年、学校では隙を見せないよう気を付けていたのに、まさか病院帰りに待ち伏せされているとは。学校からはそこそこ距離があるのに、まさかずっと後をつけて来ていたのだろうか。  本当に、世の中の人間の恋愛にかける情熱にはびっくりさせられる。  おれには、無縁のものだから。  すばるは無意識のうちにうなじを押さえた。  病院通いをしていること自体、あまり知られたいことではない。発する声には、自然苛立ちが乗ってしまった。 「じゃ」 「あ、あ、待って……!」  踵を返したすばるの腕に、少女が追いすがる。とたん、うなじに激痛が走って、胃の底が不快にうねった。 「……気持ち悪い」 「え?」 「ごめん、吐きそうだから、早く離れ」 「――ひどい」  て、まで言い終わらないうちに、少女は声を詰まらせて走っていった。 さすがに胸が痛んだが、これでいい。  正直彼女のメンタルケアに割く余裕はない。  すばるの耳に「うっわ」と別の声が響いた。 「いくら好みじゃなくても〈吐く〉はないわ」  面を上げると、この春同じクラスになった男の顔がそこにあった。 「夏目ってそういう奴?」  辻流星。制服のブレザーを着崩して、ポケットに手を突っ込んでいる。 そのザ・陽キャのような金髪をひと睨みして、すばるはどうにか立ち上がった。 「そっちこそ、おせっかいが好きとは知らなかった」  同じクラスになったのは今年初めてだが、すばるは流星の存在を以前から知っていた。  この辺りでは一番の進学校とは言え、他にこれといって特徴のないこんな田舎の学校に、二年時からわざわざ編入してきたというだけでも目立つ。くわえて「あまりにも女遊びが激しくて、親が田舎に閉じ込めた」と噂されている生徒だからだ。  聞いたところによると、田圃の真ん中に突如できたマンションの最上階で一人暮らしをしているらしい。  もしも女遊び云々が本当ならば、目を離して野放しにするのは逆効果だ。だから根拠のない噂だと思うが、確かに流星は、下衆の勘ぐりを招くような、華やかな雰囲気をまとっていた。  やんちゃふうでありながら、目鼻立ちのくっきりした都会的な顔立ち。竹下通りを一往復しただけで二十件スカウトされたとかいう噂も聞いたことがある。そもそも、ツーブロックにしてトップは金色の緩いパーマなんて髪型、よっぽど自分の容姿やセンスに自信がなければしない。  女遊びが過ぎて云々が噂話に過ぎなかったとしても、きっと噂の半分くらいの人数とは、付き合ってきたに違いない。 「さっきの子、知り合い?」 「違うけど」   違うのにわざわざ首を突っ込んでくるとは。  やっぱり世界は恋愛礼賛でできている。――忌々しいことに。  立ち上がってもなお見上げることになる身長差に、男としてちょっとむっとする。「暇なんだな」と眼鏡を押し上げながら踵を返すと、流星は「なんだその言い方」と気色ばんだ。肩口を掴んで向き直らされる。すばるはうっとえずいた。 「ばか、――」  だから、駄目だって言ってるのに――  どうにか堪えていたものが、揺さぶられてこみ上げてくる。  すばるは、そのまま流星の胸に、盛大に吐いた。  高校三年生の春。  告白されて、断って、ヤンキーに絡まれて、吐く。  最悪のフルコースだ――  意識を朦朧とさせるすばるの頭上で、桜の花びらが、はらはらと舞っていた。
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