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兄妹の家出映画
「ねえ、お兄ちゃん。もう嫌だよ」
家出しよう、と。そう言い出したのは妹の方だった。それは彼女の口癖のひとつで、僕はその度にダメだよ、そんな事したらお母さんに怒られるじゃないか、と咎める。しかし僕の口頭注意は彼女の機嫌を更に損ねてしまった。いつもはちょっと窘めたらいいのに、今日のはかなり確固たる願いの元に出た発言らしかった。
「ちょっとだけ、ほんの少しだけでいいの。お家にいたくないよ」
僕は困ったな、と頬をかいた。僕達にはお父さんが居ない。片親でありながらもバリバリ働く母はと云うと、世間的には厳しい方の親みたいだった。門限も十七時と早すぎる。子育ての責任を一人で背負うからか、その分の苦悩のしわ寄せみたいなものが僕達に押し寄せて来てきた。
「そう言われても。何処に行くんだ」
続けるだけ、会話をする。どうせ行く宛てなんてないと思ったら、
「映画。映画見たいの。これ、今日学校でお友達に貰ったの」
彼女が出したのは、映画のフライヤー。最近ヒットしてる作品で、友達はみんな見ているらしい。みんなと話合わないんだ、と言いつつ目を伏せた妹に、僕はどうしたものかと思案する。
「ちょっと待ってな」
僕はスマホを取り出し、いちばん近くの駅前の映画館のサイトを出した。僕は中学生、妹は小学生。一人千円で事足りるようだ。それならちまちまと貯めたお小遣いで何とかなるかもしれない。問題は
「時間は?いつ見に行くの」
「今すぐ」
妹が、今にも家から飛び出しそうな趣で足をばたつかせる。今の時間は十六時。十九時にもなれば母は帰ってくるし、僕達は最低あと三時間はお家で良い子にしなければいけないのだ。それでも妹は映画が見たいとゴネた。上映スケジュールを念の為確認したら、案の定その空白の三時間に埋まるようにはお目当ての映画はやってなかった。僕は何とかしてこの妹を宥めんと、スケジュールの海に目を潜らせる。そしてこれ、という物を探り当てた。
「その映画は時間が難しいかな。でもこっちの映画ならいいよ」
お小遣いなんかとはまだ縁遠い妹。必然映画費を出すのは僕という状況、最終決定権は僕に当然ある訳で。妹が僕のスマホを覗きこんで、なあにこれ、と顔を顰めた。
「全然知らないガイコク映画じゃん!私が見たいのはアニメなの!」
「でも時間が……二十時も過ぎたらレイトショーって言って、そこからは大人の領域なんだよ。お前が見たいのは次にやるのは二十時半だし、終わるのも遅い。僕らみたいなのは締め出される」
「うぅ」
妹がじたばたするのを辞めた。プチ家出するのを諦めてくれたか?その方が僕としては安心安全なのでいいのだが。
「分かった。そっちに行く!後で友達に自慢するもん。大人な映画見たんだよ〜って」
どうやら妹の中では僕の勧めた字幕付きの映画は大人でないと見れないらしかった。僕の目論見は外れたが、まあこれなら十七時から始まるし、何より一時間半しか尺がない。帰ってくる時間を含めてもお母さんの帰宅には間に合う。
「じゃあ行こうか」
腹を括った後は早かった。お洒落をしたい妹が着替えて、僕はお小遣いを二千円分貯金箱から出して用意する。妹と手を繋いで玄関を出た。鍵を出して、穴に差し込もうとした。しかし先っぽが何度も穴を逸れて刺さった。
「お兄ちゃん?緊張してるの」
「そうかも」
かちり、と。やっと刺さった鍵穴に、僕は口角を無理やり上げた。妹はルンルン言いながらプチ家出を楽しんでいる。映画館に着いたらハイテンションであちこち見て回った。その時間の発生も見越して早めに家を出たのだ。嬉しそう彼女の姿に、連れてきて良かったと息をつく。自動券売機の前に立ち、電子パネルに指をとんとんと置いては操作する。二枚のチケットが排出された。うち一枚を妹に渡す。
「無くさないでな」
「うん」
上映十分前になり、開場する。もぎりの人にチケットを渡しては半券を受け取った。後方の目線とスクリーンが同じ位の目線に来る位置へと赴く。
「椅子ふかふか!」
些細な事できゃっきゃと喜ぶ妹。静かにしろと注意するのを忘れて、僕は頬を弛めた。ビーッと音が鳴って世界が暗転する。僕達二人の輪郭が宙に溶けてゆく。やがて架空の話が始まった。病院に入院した末期症状の患者二人が会話する。天国では、海の話をするんだぜ。そんな言葉が僕——いや、『俺』の脳裏に刻まれた。
映画を見終えた後、場内が明るくなっても俺の視線はスクリーンに釘付けだった。お兄ちゃん?と妹の声がした。
「泣いてる」
その言葉で、俺は頬に手を伸ばした。透明な雫が指先を濡らす。嗚呼、泣いていたのか。その事に気付くまで時間を要した。
「映画、良かったね」
「そうだな」
俺たち以外誰も居ない世界で、座席に座ったまま俺は身体を折って顔を膝に擦り付けた。うっ、うっと嗚咽が漏れる。涙が止まらない。いつもなら妹優先で真っ先に感想を聞くはずの俺の歯車は外れていた。妹が背中を摩る。
「また来ようね」
そう言った妹に、うん、と俺は答えた。
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