98.そんなに酷いのか――辺境伯

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98.そんなに酷いのか――辺境伯

 妖精姫ロヴィーサは元公爵家のご令嬢だ。料理経験があるわけもない。にも関わらず、「止まらないだろうけれど止めてほしい」と侍女に懇願の眼差しを向けられた。  それほど酷い料理を作るのか。万が一にもあの細く白い指に切り傷でも作ったら……心配でうろうろしたが、執務室へ戻されてしまった。侍女エレンが監視についたので、何かあれば報告が入るはず。料理長にも、ヴィーの安全を念押しした。  途中経過の報告を聞く限り、ヴィーは包丁を手に取っていない。切るのも皮剥きも任せ、調味料を混ぜてご機嫌のようだ。味だけなら実害はないと放置したのが悪かったのか。こっそり調理場を覗いたアントンは、顔から血の気が失せていた。 「奥様を止めてください。死人が出ます」 「そ、そんなに酷いのか」 「はい。具や材料は一般的な食材なのに、火を止めてもぐつぐつ沸いています。その上シチューの色はピンクでした。立ち上る湯気か煙が青く……」 「ピンクに青? どうしてそうなった?」 「私が聞きたいくらいでございます」  あれは食べたら死ぬと断言するアントンを落ち着かせ、今日は寝るように伝えた。悪い夢を見たのだと言い聞かせ、暗示をかけて送り出す。一時間も経てば、侍女のエレンが報告に訪れた。  料理を終えたヴィーを風呂に入れ、髪を乾かして寝かしつけた後なのだろう。袖が少し濡れていた。疲れた表情を隠しきれないエレンは、料理中ヴィーにケガはなかったと口にする。アントンの報告と一致していた。ならば、次の問題は料理だ。 「青くてピンクだと聞いたが」 「間違っておりませんが、明日はまた色が違うかと」 「違うのか!?」  ヴィーは何を作ったのだ。恐ろしくなる俺に、エレンは思わぬ言葉を発した。 「心配でしたら、明日食べてみたらよろしいかと。稀に振る舞っていただくのですが、癖になります」 「劇物指定だな」  嫌味のつもりだったが、ぽんと手を叩いたエレンは「言い得て妙です」と納得する。劇薬指定を作る妻の侍女は、それを主人である俺に勧めるのか。いや、ヴィーの手料理と考えれば、夫たる俺が先陣を切るべきだろう。たとえ、それが死地へ向かう旅路だとしても。  いざとなれば、妖精王様の加護が働くかもしれん。加護の内容を把握していないので、ヴィーに関する事項が無効でないことを祈るばかりだった。  料理で疲れたのか、寝室へ入るとヴィーは眠っていた。新しいベッドは「とにかく大きく」と命じたせいか、部屋の半分がベッドだ。さすがに、これはやりすぎだろう。いそいそと近くに寄り、作り付けの家具と化した巨大ベッドの中央で、妻の隣に潜り込んだ。  眠る彼女を起こす気はない。だが今夜こそと思っていただけに、聖剣は抜き身で待機していた。明日まで待つよう宥めながら、俺は柔らかな彼女を抱きしめる。鼻腔をくすぐる花の香りが切なかった。  明日、騎士団が全滅しても……俺はヴィーを叱れないだろうな。そんな考えが浮かび、おかしくなる。僅か一年前は、一生嫁など来ないと諦めていたのに。今では妖精姫に骨抜きだ。ドラゴンより手強い妻の額にキスをして、俺は今夜のスキンシップを終えた。
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