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王子のその後
―王都・時計塔―
王都まで護送された王子は、すぐさま時計塔に幽閉された。子爵の襲撃によって、多少のけがを負っていた彼だったが、応急処置を済ませてそのまま幽閉された。広い王宮が彼の住まいだったのに、今は狭い一部屋が自分にとっての世界すべてになる。本来であれば、王国のすべてを自由にできたはずなのに……
戦闘に直接巻き込まれたわけでもなく、衝撃波によって転倒しただけの彼はほとんど無傷と言っても過言ではない。あの襲撃の首謀者だった子爵は、内務卿たちによって討たれた。あの混乱の中、橋から落下したミーサは捜索を続けられているが、どう考えても生存は絶望的であり、生きていたとしてもすべてを失っている貴族の娘がどうすることもできないと考えられており、捜索は数日で打ち切られることになっていた。そして、問題になるのが王子の処遇である。
彼は、元・王太子なのだ。将来、国王になるはずだった罪人。それだけでも難しい存在だ。殺すにしても国王の名誉が汚れる。ならば、飼い殺しが一番の選択肢になるだろう。
時計塔の一室は、そこまで広くない。ベッドと机と椅子。数冊の本。それが王子にとっての世界のすべてとなる。さらに、辛うじて光が入る窓は鉄格子で塞がれており、彼がそこから自死を選ぶこともできなくなっている。布類を使えばそれが可能かもしれないが、この部屋には取っ手となるものはあえておかれていない。ドアノブすらないのだ。窓の鉄格子も身長よりもはるかに高い場所に設置されている。この場所は高貴な身分だった罪人を死ぬまで閉じ込めておく牢獄だ。勝手に死ぬことすらも許されない場所がこの時計塔だ。
無言であればただ、時計の針の音だけが響いている。
「……」
王子は椅子に座り、ただ虚空を見つめている。もうすべてを失ったのだ。彼はただ、時間を過ごすことしか許されない。
「お食事の時間です。殿下」
言葉だけは丁寧な看守が部屋に食事を運んでくる。彼にとっては、他人とは看守だけを指すことになる。その絶望をまだ、彼は知らない。
彼は食事に手を付けようとはしなかった。だが、生物の本能がある。たとえ、絶食を続けていても、提供される食事の誘惑に耐えるだけでも地獄になる。栄養失調で倒れても、そのまま流動食を無理やり流し込まれるだけだ。
彼にとっては無為に過ごすこの地獄がその後の人生になる。
彼はまだ、ここに来たばかりで幸せなのだ。本当の地獄は、時間経過とともに姿を現すだろう。
何もない世界をただ過ごす。そして、過去の自分に対する後悔を何度も反芻しなくてはいけない悪夢に悩まされ続ける。
その悪夢と後悔は、間違いなく王子の精神をむしばんでいく。
地獄はまだ、始まったばかりだ。
※
―ミーサ視点―
ボロボロの小屋で、彼女は震えながら夜を過ごしていた。混乱の中で何とか逃げ出したものの、体中がすり傷と青あざだらけだ。必死で馬車から抜け出して、父親から橋から落とされたのだ。ケガをしない方が無理がある。
姿を隠さなくてはいけない自分のことを考えれば、医者を呼ぶこともできない。父親が用意してくれていた薬箱の中にあった薬草を痛む部分に塗ることくらいしかできない。
「痛い、寒い……」
人生最悪の状況になってしまったことにイライラしながら、寒さに震える。
これが貴族としての彼女ならば、すぐに医者を呼んで回復魔力で痛みを取り除いていただろう。だが、父親が用意してくれた逃亡資金は有限で、さらにどこから情報が漏れて自分が逮捕されるかわからない状況になってしまった彼女は、この屈辱的な状態を享受しなくてはいけなかった。
痛みと寒さによって眠れるはずもない。さらに、その絶望的な状況を他の誰とも共有することもできない。カーテンもなく、月光が直接射し込む部屋で、彼女は永遠に近いほどの孤立を感じることになる。
薬草の追加をしようと薬箱に手を伸ばすと、箱の奥底からはらりと封筒が落ちてきた。
「なによ、これ?」
<ミーサへ>と書かれた封筒には、子爵の名前が書いてあった。事実上の遺言書だろう。
彼女は、震えながら手紙を開封した。
『ミーサへ
これを読んでいるということは、私は無事にお前を救出できたということだろう。本当に良かった。この隠れ家にはできる限りの資金と物資を集めたが、内務省に監視されている身だ。あまりにも露骨な移動をしてしまえば、この場所もすぐに特定されてしまうだろう。どうにか、生き延びて欲しい。
思えば、お前には父親らしいことは何もできなかったな。お前から見れば、私は薄情な親だろう。前妻からの嫌がらせから、お前たち母子を守ることができなかった。前妻がお前たちに何をしていたのかわかったのは、幼いお前を連れて出て行った後だった。
今ごろ、親らしいことをしても、お前にとっては大きなお世話だろうが……
お前には何もできずに、何かを無理して背負わせてしまったと思う。だからこそ、生き残って幸せになる選択肢を見つけて欲しい。
悪い父親の最後の願いは、お前が生き残ってくれることだけだ』
その短い手紙を読んだ後、ミーサは床へと崩れ落ちて声にならない絶叫を上げた。
長い長い絶望の夜は、まだ始まったばかりだった。
彼女は、それを少しずつ理解していた。
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