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軽食
ドアを叩く音がした。
「お嬢様、お嬢様? 時間ですよ、起きてください」
その言葉でマリアは目が覚めた。旅の疲れだろうか。目がとても重い。でも、少し寝ただけで疲労はある程度回復した。うたたねしてしまったのか。もう、約束の時間になってしまったの? そう思って慌てて飛び上がる。
公爵家の当主である自分が寝坊するなど、ありえない。どれだけ気が緩んでいたのかと自分を責めて焦る。
「ごめんなさい、ラファエル様。すぐに行きます」
慌ててベッドを出て、ドアのもとに走った。自分の着衣が乱れていることにも気づかずに……
マリアは慌ててドアを開ける。そこには、ラファエルが驚いたような顔で待っていた。なにかがおかしい。そして、自分の姿に気づくのだ。寝ていたせいで、上着ははだけて腹部があらわになっていた。
「お嬢様、さすがにその格好で外出は……」
ラファエルの苦言で、彼女は顔をさらに真っ赤にする。
「ご、ごめんなさい……ちょっと、服をなおしてきますね」
「助かります。さすがに、あれですから……」
※
「さきほどは失礼しました」
「いえ、こちらこそ焦らせて申し訳ございません」
なんとなく気まずい雰囲気が二人を包んでいた。気まずいと言っても、恥ずかしい感情が強いわけだが……
「夕食ですが、近くのカフェで簡単に済ませる形でよろしいですか、お嬢様?」
「ええ、そうね。少しワインでも飲みたいわ」
「そうですね、せっかく来たのですから」
ブールス王国では、ワインは水の代わりでもあった。もともと硬水が多い土地柄でもあるため、飲用に適する水はあまりなく貴重なため、薄めたワインやエール、リンゴ酒を水の代わりに飲むのが慣習となっている。
基本的に庶民は、エールやリンゴ酒、土地によっては梨酒をよく飲んでいる。それに対して、貴族や聖職者は儀礼的な意味合いもあってワインを飲むことが多い。
ただ、ディヴィジョンの街ではその常識は通用しない。もともと、近くに有名なワイナリーが多く存在しているため、庶民にもワインは人気があるうえに、安く提供されている。ここに大聖堂があるのも、神の恵みで良いブドウを栽培できることを感謝しているためだ。
だからこそ、この土地で飲むワインは特別なものになる。
ふたりはワインを楽しめる近くのカフェに入った。
「いらっしゃいませ。おふたりですね。お飲み物はいかがしますか?」
「ワインをふたつ」
「はい。では、すぐに用意しますね。今日はキッシュとシャルキュトリーをおすすめしていますが?」
「では、それをください」
「はい、では席に座ってお待ちください」
こんな感じで愛想がいい初老のマスターが笑って準備を始めてくれた。
落ち着いたカフェで、ろうそくの優しい明かりが良い雰囲気を作ってくれていた。
先ほどの恥ずかしさもようやく収まりつつある。
「楽しみね」
「ですが、お嬢様は、王宮でもよいワインを飲んでいらっしゃったんでしょう?」
「そうだけど……やっぱり、旅先で雰囲気の良いカフェで飲むワインはまた別格なのよ」
「そういうものですか」
「そうよ」
彼女はそう言って笑顔でごまかした。その笑顔には「あなたと一緒だから特別」という意味を隠すものだった。
貴族ゆえのプライドの高さもあるのだろう。自分でももう少し素直になりたいと思いつつ笑ってごまかすのが精いっぱいだった。そもそも、王子の婚約者としてあまり他人に弱みを見せることができなかったのも影響している。
「お待たせしました、キッシュとシャルキュトリーです」
タルト生地の器の中に、クリームとチーズ、卵を入れて焼き上がったキッシュはまだ熱々だ。具材には、ベーコンとほうれん草が詰まっていた。付け合わせにグリーンサラダもついている。
シャルキュトリーとは、加工肉のことだ。鴨肉のスモークが豪華に盛り付けられていた。こちらの付け合わせは野菜のスープだった。
そして、マスターは店の奥から赤ワインを取り出して、ふたりの前に用意されたグラスにゆっくりと注いでくれた。赤ワインの豊かな香りが周囲に広まっていく。
「飲みやすいすっきりしたワインをご用意しました。契約しているワイナリーから買っているものですので、鴨肉やキッシュに合うと思います。お楽しみください」
そう簡単にワインを説明して、去っていく。
「それでは乾杯しましょうか」
「ええ、でも何に乾杯する?」
「そうですね、お嬢様との楽しい旅の始まりでどうでしょうか?」
「そうね、最高ね」
ふたりはワインを乾杯して、一口飲む。フルーティーな赤ワインでさっぱりとした味だった。
マリアはキッシュに手を付ける。とてもクリーミーな味わいで、濃厚な味わい。スモーク鴨も、赤みが多くそれが酸味のある赤ワインとよくあっていた。鴨を食べてから、赤ワインを飲むと口がさっぱりする。
ふたりは楽しそうにワインと食事を堪能していった。
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