峠の飯屋

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 桜も散り始めた頃、尋(ひろし)はとある山に続く峠の駅にいた。特に何の目的も無い、ただただ思いのまま脚を伸ばした一人旅だった。小さなリュックを肩に掛け、尋は駅舎を出た。当たりは菜の花の蕾が一面に広がっていた。 「もうすぐ、黄色に染まるのか・・。」 尋はそう心の中で呟きながら、気の向くまま道なりに歩き出した。舗装された道は、時折、工事車両が通る程度で、通過後は道の両脇にある茂みから鳥のさえずりが聞こえるだけだった。少し冷たい山の空気を楽しみながら、尋はひたすら歩いた。そして、小一時間ほど歩いたとき、急に目の前が開けた。其処は小高い丘になっていて、古い家屋一軒、ポツンと建っていた。建物の横は少し開けた駐車場になっていた。尋は玄関の当たりまで近寄ってみた。すると、腰の高さほどの看板が立っていた。飯・定食と書かれた、古ぼけた看板だった。昼飯には少し早かったが、尋は軽く腹に何か入れておこうと、暖簾を潜ろうとした。そのとき、戸に張り紙があるのに気がついた。 「賄い人、募集・・。」 静かな雰囲気の村でも、昼飯時には人出がいるのかと一瞬考えたが、まずは腹ごしらえと、尋は戸に手を掛けた。 「ガラガラガラ。」 引き戸を開けて、尋は中へ入った。 「すいません。」 「あ、はーい。」 中から女性らしき声がした。 「ほれ、アンタ。お客さんだよ。」 「そんなこというてもなあ・・。」 女性は厨房の入り口付近で椅子に腰掛けている男性を何とか立たせようとしていた。 「あの、どうされましたか?。」 尋は苦悶する男性を心配して、咄嗟に声をかけた。 「いやあ、腰をいわしてな。もうすぐ昼飯時やっちゅうのに、この有様じゃよ。はは。」 「しゃあないわいな。歳やもん。今日は休みにするかえ?。」 女性は心配して男性にそういったが、 「それやと、今日の仕入れが台無しになるしのう・・。」 そんな具合に、二人とも困った表情になってしまった。尋は、マズい所に来てしまったなと思っていたそのとき、 「おお、そうや!。アンタ、料理は出来るかえの?。」 男性は急に尋にたずねた。それを聞いて尋が面食らっていると、 「何をいい出すんよ、アンタ。初めての方に、そんなこと失礼じゃろが。」 と、女性が諫めたが、 「男やもめですけど、そんな料理でよかったら・・。」 と、折角此処で出会ったのも何かの縁と思い、尋は引き受けることにした。 「ほんに、すいませんねえ。もうすぐ、お客さんがワーって来ますけん。」 女性はそういいながら、尋を厨房へ誘った。リュックを横にある机に置いて、古びた皮の上着を脱ぐと、尋は腕をまくし上げて手を洗った。そして、厨房を見渡した。 「整ってるなあ・・。」 腰の悪い初老ご夫婦が切り盛りする食堂にしては、調理器具の状態や調味料の配置が随分とゆき届いているのに気がついた。長年使っていれば、手垢まみれで適当になってしまうのが普通ではあったが、足元の動線に最小限の踏み跡しか残っていないことに、尋は感心した。 「前掛けなら向こうの壁に掛かってるでな。」 男性は腰を労りながら、壁の方を指差した。尋はそれを取って腰の辺りに巻いた。そうこうしているうちに、 「こんちわー。」 と、二人連れの客が現れた。 「いらっしゃい。」 「カツ丼二つね。」 「あいよー。」 女性は元気よく注文を取ったが、少し心配そうに厨房の尋を見たが、直ぐさま客の方にお茶を持っていった。 「ワシが指示するんで、大丈夫や。」 男性はそういいながら、材料の在処を尋に伝えた。それを聞いて尋は冷蔵庫の中から食材を取り出すと、手際良く調理を始めた。油は既に加熱されていたので、尋は肉と衣と卵を用意し、スライスして肉の筋を包丁で切ると、粉を振ってから卵に潜らせた。そして、直ぐさまパン粉の上に置き、衣の準備を整えると、指で油の温度を確認した。 「うん。」 そう頷くと、尋はカツを油の中に落とした。そして、揚がる迄の間に鍋を用意し、調味料をサッと入れるて加熱した。その間に野菜を手早く切って、それを鍋に入れ、キツネ色に揚がったカツをまな板の上に置くと、 「サクッ、サクッ。」 と心地良い音を立てながら、適度な大きさに切り分けた。そして、頃合いよく加熱された出しの上にカツを置き、片手で卵を割ってボールに入れて箸で素早くかき混ぜながら、鍋の上から流し込んで、蓋をした。 「ほー。」 それを見ていた男性は、座りながら唸った。尋は直ぐさま丼に白米をよそい、その上にカツと卵をかけた。女性が用意されてあった味噌汁と漬物をを前もってお盆の上に置いてあった。 「はい、カツ丼二丁。」 そういうと、尋は丼を置いて蓋をした。女性はそれを直ぐさま客のところまで運んだ。 「はい、おまちどお。」 「おー、来た来た!。」 客達は大喜びで、丼の蓋を開けるや否や、カツ丼をかき込んだ。 「美味えーっ!。」 と最初だけ言葉を発し、二人はひたすらカツ丼に集中した。男性は尋の余りの手際の良さに思わず、 「大したもんやねえ。アンタ、料理人やっとったんかえ?。」 そうたずねた。 「いえ、随分昔にちょっとの間ですけど・・。」 そういいながら、尋は鍋を洗おうとしたが、 「洗いもんはアタシがするで、アンタはすまんけど、調理を頼みますわ。」 そういって、鍋を片づけようとした。すると、男性が立ち上がって、鍋に残っている出汁と卵を指で掬って口に入れた。  男性の顔が一瞬晴れやかになった。 「こりゃ本格的やな。ワシは若い頃、京料理の板場に立っとったことがあるもんで、よう分かる。なかなかどうして、アンタ、大したもんやわ。」 男性はそういって大きく頷いた。尋は少し照れくさそうにしていたが、 「こんちわー。」 「よう、大将。」 そろそろお昼時ということもあって、店内はたちまち客でいっぱいになった。 「こっち、定食二つね。」 「こっちはラーメンね。」 注文に来る注文を、女性は手際良くメモって厨房に伝えた。尋はコンロに鍋を幾つも置いて、同時に料理を始めた。男性も腰を労りながら、まだ勝手の分からない尋に食材の場所を教えつつ、出来る作業をした。尋は次々に注文をこなしては、お盆に料理を置いた。 「はい、おまち。」 女性もせっせと料理を客のところに運んだ。すると、 「大将、味付け変えたんか?。美味いな、今日は。」 「おお、何か今日の唐揚げ、香ばしいなあ。」 と、常連客の評判は上々だった。男性は厨房からひょいと顔を出して、 「ああ。人入れたんや。なかなかの腕やでな。はは。」 と、嬉しそうに客達と談笑した。こんな調子で、近くの工事現場の作業員も含め、かなりの客がひっきりなしに食事にやって来た。そして、来る客来る客、みんな上機嫌で店を後にした。そして、昼時を随分過ぎて、客足はようやく落ち着いた。 「いやあ、ご苦労さんやったな。みんな大喜びじゃったわい。さて、ワシらも飯にするかいのう。」 男性は立ち上がって料理の支度をしようとしたが、 「あいたたた。」 と、腰を押さえて再び座り込んだ。 「ほれ、無理するから・・。」 女性は少し呆れたような声で、しかし、男性を労った。男性が上気するのも解らないでも無かったからだった。 「あの、ボクが作りますから。」 そういうと、尋は厨房に戻り、三人分の料理を作った。焼き魚、野菜の煮物、揚げ物の残り。そして最後に味噌汁と白米をよそってお盆に乗せて運んだ。 「ほほー。盛り付けも栄えるなあ。」 「ほんにのお。」 二人は尋の心配りに感嘆した。そして、三人で遅い昼ご飯を迎えた。尋はようやくご飯にありつけると、ホッとした表情で静かに食べた。対照的なのが二人だった。 「何とも美味いのお!。」 「いやあ、ほんにほんに!。」 料理に舌鼓を打ちながら、二人はモリモリと食べた。男性は時折、箸で魚の皮目を突いては捲ってみたり、野菜の煮物を口に含んでは出汁の染み込み具合をしみじみと確かめていた。そして、食事も一段落して、女性はお茶を入れた。 「あ、すみません。」 「いえいえ。礼をいうのはこっちですわい。」 三人は、ようやく訪れた午後のひとときを寛いだ。すると、 「ところでアンタ、えっと・・、」 「あ、尋です。」 「尋さんかえ。此処へは何か用で来なさったんかえ?。」 「いえ、そういう訳では。」 「じゃあ、あては、あるんかいの?。」 「特には。気の向くまま、旅をしてまして。で、食事に立ち寄ろうとしたときに、表の張り紙が見えたものですから。」 尋の言葉に、二人は目を輝かせた。 「それやったら丁度良かった。ワシは見ての通り、腰があかんし、近くで工事しとる連中が来てくれるのはええけど、二人じゃ追いつかんでなあ。もしよかったら、此処で働いちゃあくれんかね?。」 二人は縋るように尋を見つめた。何気に訪れた食堂だったが、いきなり働くことになったのも、何かの縁かと、尋は思った。 「ボクでよろしければ。よろしくお願いします。」 そういって尋は頭を下げた。二人は手を取り合って喜んだ。 「こちらこそ、よろしゅうにな。ところで尋さん、住む所は?。」 「今日、此処に来た所ですので、まだ何も・・。」 「なら、丁度ええわい。店の上が貸部屋になっとるで、そこを使ってくれりゃあええ。」 そんな具合に、トントン拍子に話は進んだ。お茶を飲み終えると、男性は尋を連れ立って表に出ると、階段の手すりを持ちつつ、二階へ上がった。 「ここやでな。」 そういって、男性は戸を開けて尋を誘った。八畳ほどの小さな部屋だったが、綺礼に片づけられてあった。小さな炊事場の上には窓があり、南から明るい日差しが差し込んでいた。部屋の隅にはストーブが置かれてあり、押し入れには布団まであった。 「春やっちゅうても、夜はまだ寒いでな。これ使うとええ。」 「すいません。有り難う御座います。」 尋が礼をいうと、男性は右手を軽く挙げて、立ち去ろうとした。 「あの、お店は何時まで?。」 尋はたずねた。 「前は夕飯時もやっとったが、今は昼飯時で手一杯やわ。」 男性の言葉を聞いて、 「じゃあ、これから夕飯の材料、買い出しにいきます。」 そういって、男性からこの辺りにある食材を得る店の場所を聞こうとした。 「いや、今日はもう、ゆっくりしなせえ。十分働いてもろうたで。」 男性は尋を気遣ったが、二人は話しながらゆっくりと階段を降りつつ、結局は久しぶりに夕飯時も店を開けることになった。  男性は材料のメモとお金を渡すと、 「すまんのう。裏に軽トラがあるで、それ使ってくれや。」 そういいながら、メモの裏に簡単な地図を描いた。此処から10分程走った所に、スーパーがあった。 「じゃあ、ちょっといってきます。」 そういうと、尋は古びたミッションの軽を難なく発進させて、山間の道を走り出した。 「畑が結構あるなあ。」 車窓を眺めながら、ゆっくりとギアをチェンジしつつ、車を労るように走った。谷間の向こう側には、これから作られるであろうダム工事の橋脚が中空を目指して伸びようとしていた。そして、その下方にも畑と何棟かの家々があった。そうこうしているうちに、軽はスーパーに着いた。車を降りて買い物かごを手にすると、店内を見回してからメモに書かれてあった食材の売り場を確かめつつ、尋は次々に野菜や調味料を入れた。そして、一通り材料を仕入れると、ちょっとした工具売り場に向かい、金槌や鋸、そして板を数枚買ってからレジに向かった。 「あの、食材と工具類は別々でお願いします。」 尋はそういうと、食材は預かったお金から、工具類は自身の財布からそれぞれ支払った。それらを車に積むと、尋は元来た道を軽で走り抜けた。来たときは下りだったが、帰りの登り道では軽のギアが唸りを上げていた。そして、店に戻ると、尋は食材を店内においてから男性にお釣りを渡し、 「ちょっと車見てみます。」 そういうと、エンジンルームを開けて、錆び付いている部分を綺礼にしながら調節をした。 「ほお、アンタ、車も弄れるんかいな。」 男性はえらく感心した。そうこうしているうちに、尋は車の調節を終えて、試しにエンジンをかけてみた。 「キュロロロ、ブルルルーン。」 先ほどよりは軽やかなエンジン音が響いた。そして、買って来た工具類を自身の部屋に運び込むと、しっかりと手を洗ってから調理場に戻って、夜に向けて仕込みを始めた。 「ほんに手際がええなあ。アンタ。」 男性は熟々感心した。野菜の下ごしらえ、肉と魚の処理、そして、昼間に使って少なくなったタレや出汁の支度。レシピは一切聞かず、ある程度出来上がってから、尋は出汁を小皿に一掬いして、 「こんな感じですか?。」 と、男性にたずねた。すると、 「いやあ、いつも適当じゃで。」 そういいつつ、男性は出汁を口に含んだ。 「ほほお。面白いほど、よう似ちょる。しかも、ワシのよりよっぽどええわ!。」 と、一瞬で味を再現するだけで無く、さらに深みを増した味付けに、男性は感嘆した。しかし、尋は、 「あの、このメニューだと、買って来た分では足らないかと・・。」 といいながら、壁一面に張られた品書きを見渡した。 「ああ。昔は作っとったんやが、何せ年寄り二人じゃ、手が回らんようになってのお。じゃもんで、出来るもんだけ注文を受けとるんよ。」 そう男性がいうと、尋は買い出しの中に麺が無かったのを思い出した。しかし、メニューにはいくつもの麺類が並んでいた。 「あの、蕎麦打ちの道具はありますか?。」 尋がたずねると、 「ああ。確か、棚の上の方に仕舞ってあったかのう。」 そういって、男性は立ち上がって棚を開けようとした。すると、 「あ痛たた・・。」 と唸りながら、腰を押さえた。 「ボクがやりますから、どうぞ休んでて下さい。」 そういうと、尋は棚を開けて、中から新聞紙に包まれた道具を取りだした。そして、それらをさっと水で洗うと、足元から粉類を取り出して、大きな器の中で水と一緒に混ぜだした。そして、程よく混ざったかと思うと、今度は手で捏ね出して、ふっくらとした団子状に仕上げた。幸い、粉類は揃っていたので、蕎麦、うどん、ラーメンの種は全て出来上がった。そして、うどん種はビニールシートに挟んで踏み込んでから、他の種と一緒に、少し寝かせた。老夫婦はその様子を、口を開けながら見とれていた。 「ほー。こりゃ凄い!。魔法じゃな、まるで。」 男性は換気しながら女性を見た。 「ほんにほんに!。」 尋は他の煮炊き物や焼き物を調理しつつ、製麺機が無かったので、自分で麺打ちをしては、出来上がった端からドンドン切っていった。そして、粉を打つとサッと一食分ずつを手に取ってはトレーの上え置いていった。そんな具合に、夕方までには一通りの準備が整った。すると、 「ちょっと、外の壁を修理してきます。」 尋はそういうと部屋に戻って、先ほどの工具と板を持って来た。そして、壊れた箇所と同じ大きさに板を切り分けると、板を貼っては釘で打ち付けた。元あった壁板が割れないように、少しずつ力加減をしながら打ち付けた。そして、張り付けた板の出っ張りが引っかからないように、尋は小刀で丁寧に角を取った。 「何から何まで、ほんにすまんのう。」 男性は深々と頭を下げた。 「いいえ、そんな。とんでもない。」 尋は部屋まであてがってもらって、これぐらい当然といわんばかりに、男性の肩を持って起こした。すると、女性は提灯に明かりを灯した。 「久しぶりの夕飯時の開店ねえ。」 三人は赤く灯された明かりを見つめた。  夕方頃になると、赤提灯の明かりに誘われてか、次々と客がやって来た。 「おやっさん、久しぶりに晩もやっとるんか?。」 「おー、嬉しいねえ。この時間も開いてるとは。」 注文がドンドン入り、尋と老夫婦はたちまち大忙しになった。女性が注文を取り、男性は腰を労りながら差配をした。そして尋は、次から次に来る注文を淡々とこなしつつ、料理を作ってはお盆に乗せた。浅い時間では食事や麺類が、そして、時刻が深まると、酒やアテが飛ぶように出た。普段はあまり作っていなかったであろう焼き鳥も、尋は注文が来ることを見越して墨や串を用意し、調達してきた鳥の身や肝を串に打ち、上の方から塩を振りかけて炭火で炙った。 「ほー。焼き鳥も出来るんかいな。しかも塩で。」 程なくして、外側は軽く焦げ目の付いた、しかし中はふっくらとした焼き鳥が出来上がった。酒席の客達は大喜びして、何本も追加で注文した。そして、夜も10時を回る頃、客達も家路に就き、用意していた食材も丁度底を尽きた。三人は後片付けをしながら、ようやく一息つけた。 「いやあ、大盛況やったなあ。」 「ホンマにねえ。」 老夫婦は空いた席に座って寛いでいると、 「はい。どうぞ。」 と、尋はビールと残っていた焼き鳥を持って来た。男性は串を一本持ち、焼き鳥を噛んで抜き取り、頬張った。 「うん。こりゃ美味い!。」 女性もそれに釣られて、同じように焼き鳥を頬張った。 「ええ塩加減だこと!。」 二人の喜ぶ顔を見て、尋は厨房に戻って後片付けをしようとしたところ、 「尋さん、アンタも座んなさいや。ほれ。」 そういって、男性は尋にビールを注ごうとした。ところが、 「すいません。ボク、下戸なんです。」 あれだけ見事に酒のアテと作っては出していた尋だったが、アルコールはからっきしダメだった。それには流石に男性も驚いた。 「えー!。そりゃまた。これだけの男っぷりで、こんなに美味いつまみを作れるっちゅーのに、下戸とはのお。」 男性の言葉に、尋は照れくさそうに頭を掻いた。しかし、 「いや。だからこそ、これだけの料理が作れるんじゃろうのう。調理場仕事は体力勝負やで、酒なんか飲んどる場合じゃ無いけんのう。」 男性は今日一日、尋の立ち振る舞いを間近で見て、全ての動きに無駄や力みが無いことに気付いていた。余程大きな老舗の板場にでも立っていたのか、あるいは総料理長でもやっていたのかと思わせる程の腕前だったが、尋は寡黙で、決して多くを語らなかった。尋はお茶を飲みながら、焼き鳥をよばれた。そして、片づけが終わった頃に、 「どうや、湯でもいくか?。」 男性は尋に声を掛けた。 「あ、はい。是非。」 尋は意外に思った。この辺りでは温泉が湧いているらしかったが、あまり知られてはいないとのことだった。普通、温泉があれば、観光の目玉になるだろうが、今はこの辺りの住人しか利用していないらしかった。ビールの入った男性に代わって、尋が軽トラを運転した。山道を男性の指示通りに進むと、掘っ立て小屋のような簡素な建物が現れた。 「此処じゃ此処じゃ。」 男性がそういうと、尋は車を止めた。建物の中は脱衣場と呼べるものも無く、まるで沢から引いて来たかのような竹で出来た樋が、六畳ほどの湯船に垂れ落ちていた。そして、尋が先に服を脱ぐのを見て、男性も脱ぎだした。そして、尋が先に湯船に浸かるのを見て、男性は正面を向いて、早速湯船に浸かった。 「あー、さっぱりするわい。」 「ふーっ。」 二人は一日の疲れを癒やすべく、大きな溜息を吐いた。 「ええ湯じゃろ。量は少ないが、泉質はええんじゃ。じゃもんで、地元のもんしか知らんのよ。おかげで誰にも邪魔されずに、好きな時に静かに入れるでな。はは。」 男性はそういうと、肩まで浸かって目を閉じた。尋も手で顔を洗うと、同じようにして目を閉じた。此処に来て一日しか経っていないのに、もう何年も過ごしているような、そんな寛いだ感覚に見舞われた。体の芯からホッとした気持ちだった。すると、 「それにしても尋さん、アンタ、ほんに、よう働きなさる。腕もええし、何より機敏じゃ。」 「いえ、そんな。ボクなんか・・。」 「ホンマのことやで、謙遜せんでええよ。それよか、この辺りの食材やが、アンタどう思うた?。」 男性は、尋の働きっぷりと料理の腕では、この辺りで手に入る食材では不十分ではないかと感じていた。 「はい。地のもんを見てないんで、よくは解りませんが、海のもんは少し鮮度が・・。」 「じゃろうな。此処は海からは遠いでな。どうしても鮮度がなあ。その代わり、川のもんは、なかなかじゃでの。アンタさへよければ、今度釣りにでもいかんか?。」 「ええ、是非。」 渓流で釣りをするなんて何年ぶりだろうと、尋は少し上気した。湯ですっかり温まると、尋が先に、次いで男性が湯から上がり、体を拭くのもそこそこに、軽で家路に就いた。  部屋に戻ると、尋はカバンからラップトップを取りだして、今日の出来事を綴った。ほんの一日だけの出来事だったが、中身の濃い、充実した一日だった。尋は目一杯働いてクタクタになっていたが、先ほどの湯で、疲れはいっぺんに吹き飛んでいた。 「よし。」 そういうと、尋は布団を敷いて寝床に就いた。旅先で何気に立ち寄った所に、こんな風な偶然が訪れるものかと、尋は天井を見つめつつ、不思議な感覚に見舞われていた。そして程なく、眠りに落ちた。  翌朝、尋は窓が白んでいる中、目覚めた。布団を畳み、顔を洗うと一階に下りて、店の周りの掃除を始めた。すると、店主の男性も目覚めたらしく、 「よう。おはよう。早いな、尋さん。」 「おはようございます。」 挨拶もそこそこに、男性が、 「いつもはゆっくりと食材の調達にいって、昼前にパッとこしらえるだけやったんやが、昔は釣ってきた魚も出しとった。お、そうじゃ。尋さん、今からいけるか?。」 といって、手で竿を持つ仕草をした。 「あ、はい。」 「よし、ちょっと待っちょれや。」 そういうと、男性は家に戻って釣り道具を一式持ち出してきた。 「最近はいっとらんで、手入れはしとらんが、竿ならほれ、丁度二本あるで。」 男性は尋の背中をポンポンと叩いて、車に誘った。 「あ、ボクが運転します。」 「すまんのう。まだ足に踏ん張りが効かんでな。」 二人は車で近くの沢まで向かった。峠道を20分程走った所の脇に、車を止めるのに丁度いいスペースがあった。 「ここいらで、よかろ。」 二人は車を降り、尋が釣り道具を肩に掛け、男性の手を取りながら、ゆっくりと沢間で下りていった。沢のほとりに着くと、男性は道具箱を取りだし、竿に仕掛けを結わえた。尋も手渡された竿に仕掛けを手際良く結わえた。 「餌は川虫で?。」 尋がたずねると、男性はニッコリと笑って、 「ま、普通はそういうが、この辺りの魚は、妙に人の食べもんが好きでな。」 そういうと、袋に詰めた夕べのおかずをクーラーボックスから出した。 「やっぱり、魚も美味いもんが好きなんやろて。ほれ、いくか。」 二人は出来るだけ足音を立てずに流れの所まで来ると、針にハムや魚の切り身を付けて、ほとりの岩陰からそっと糸を垂らした。そして程なく、 「お、来た来た!。」 男性の竿が撓ったかと思うと、見事な山女が上がってきた。そして、尋の竿も引いたかと思うと、 「来ました。」 今度も見事な山女が上がってきた。 「な。蜻蛉や毛針やってせんでも、よう釣れるじゃろ。」 「はい。本当に。」 「もう少し上へいきゃ、岩魚(いわな)も釣れるんやがな。」 そうこう話ながら、二人は小一時間の間に結構な数の山女を釣り上げた。 「ようし。こんだけ釣りゃあ十分じゃで。戻るか。」 「はい。」 二人は道具を仕舞うと、車に乗り込んで元来た道を走っていった。久しぶりの渓流釣りに、二人は上機嫌だった。仕事前に食材を自然から調達出来るなんて、何とも贅沢だなと、尋はしみじみと感じた。店に戻ると、女性も起きていて、二人を出迎えた。 「アンタ、釣りなんかいって、大丈夫ね?。」 女性は男性の腰を心配していたが、 「なーに、久しぶりに沢まで下りたんで、ええ運動になったわい。尋さんも、ようしてくれたでな。」 そういいながら、男性は道具を片づけた。尋は調理場に入ると、山女が傷まないようにと、トレーに並べて布を被せ、その上から砕いた氷の入った袋を乗せて、冷蔵庫に仕舞った。そして、 「何か、調達する食材はありますか?。」 尋はたずねた。すると男性は、 「そないに慌てんでもええで。ゆっくりしなせ。市場が開くんは、もう少し後やで。な。それよか、まずは腹ごしらえや。」 そういって、先ほどの山女を調理しようと、調理場に向かった。 「えへへ。ここはワシがこしらえるで、尋さんは待っといとくれや。」 尋は男性の言葉に甘えて、座って休憩した。すると女性がお茶を運んできて、 「釣りにいくのも、釣ってきた山女を調理するのも、随分と久しぶりなんよ。あん人の思うようにさせちゃって。な。」 女性は嬉しそうに語った。 「はい。」 尋はそういうと、お茶を飲んだ。女性も調理場に戻ると、二人して朝食の準備を始めた。男性は炭を熾(いこ)した後、ヤマメに串を打ち、鰭に化粧塩をすると、上の方から全体に塩を振った。そして、炭の上で焼き始めた。すると直ぐさま、蓼酢と自家製の味噌を酒で溶いたものを用意した。女性はご飯と味噌汁、そして新香の用意をした。あっという間に、地の物で作られた、あさげが出来上がった。 「さ、尋さん。食おう!。」 「わあ、凄いですね。」 「じゃろ。久しぶりなんで、火加減はどうじゃろうか、あれなんやが、ま、召し上がれ。」 「はい。いただきます。」 炭火で焼かれた山女の香ばしい匂いと、湯気の立ち上る味噌汁とご飯。この上ないご馳走が目の前に並んだ。三人は手を合わせると、早速頂いた。 「美味いです。」 釣れたての山女は絶品だった。少し苦みのある蓼酢も、甘みのある味噌田楽風も、ふっくらと焼き上がった白い身と見事に合った。尋の美味しそうに食べる様子を見て、二人も嬉しそうに朝食を食べた。  食事を終えると、尋はサッと後片付けを済ませ、一旦部屋で休もうかと思ったが、山の活力を得た後なので、何か無性に動きたくなった。 「あの、散歩がてら、ゆっくり買い出しにいくので、必要な物があればいって下さい。」 尋は男性にたずねた。 「ははは。あんた、よっぽど働きもんじゃのう。ワシも久しぶりに釣りいって、心躍っちょるよ。あ、そうそう・・。」 男性はそういうと、冷蔵庫の中からタッパーを取りだして、 「夕べ、あんたがこさえた飯が、そりゃ美味かったでな。弁当にして置いといたんや。すまんけんど、峠道下りた所に婆さんが住んどるで、届けてやってくれんかね?。」 「あ、はい。」 「以前はな、たまにここまで来てたんやが、何せ足が弱なってな。なもんで、ワシがちょくちょく持っていってたんやが、まだ運転が覚束んでな。」 男性はそういうと、今日の買い出しのメモと一緒に、タッパーを袋に入れて渡した。 「じゃあ、いって来ます。」 尋は軽トラをゆっくりと発進させ、峠道を下っていった。暫くいくと、目の前に小さな畑が広がっていた。そして、その向こう側に目的の民家が佇んでいた。尋は庭先に車を止めた。 「コケーッ、コッコッコ。」 納屋の影から軍鶏が一羽飛び出してきた。そして、不思議そうな顔で尋を見つめては、首を傾げた。尋は軍鶏を驚かせないように、ゆっくりと前を通り過ぎた。 「御免下さい。」 戸は開いていた。尋が声を掛けると、 「はいな。ちょい待っちょくれ。」 奥から腰の曲がった老婆が、背の低い箪笥伝いに現れた。 「どちらさんかいのお?。」 「峠の飯屋から来ました。これを届けに。」 そういうと、尋は袋からタッパーを取り出して、老婆に渡した。 「ああ。そうかいね。さっき電話もろうたんよ。今からご飯を届けてくれるって。」 男性は、事前に尋がいくことを老婆に伝えてくれていた。 「いやあ、よう来て下さった。何でも常(つね)さんが、新しいまかないさんが来てくれたって、大喜びやったんよ。しかも、そりゃええ腕してるって。」 「いえ、そんな・・。」 謙遜する尋に、老婆は忌憚なく、 「ささ、こっち来て、お茶でも飲んでいきなせ。」 と、尋を縁側へ誘った。 「すみません。じゃあ。」 尋は日の当たる縁側に腰を下ろした。春の日差しは、本当に心地良かった。目の前を、先ほどの軍鶏がひよこを数羽連れ立って横切っていった。 「さ、どーぞ。」 老婆はお盆にお茶と漬物を乗せて現れた。 「いただきます。」 尋は大根の漬け物を爪楊枝で刺して、口に運んだ。そして、ボリボリと音を立てて噛みしめた。 「美味いです。」 街中では味わえない、ぬか床で漬けた旨味が口いっぱいに広がった。 「口に合うたかの?。せっかくやで、ワシもあんたがこさえた飯をいただくとするか・・。」 そういうと、老婆は尋が持って来たタッパーを開いた。中は、夕べの煮物や焼きものが綺礼に並べられてあった。老婆は箸でそれらを摘まんでは次々に口に運んだ。そして、目を見開きながら、 「んー、こりゃ美味い!。」 そういうと、黙々と食べ続けた。その様子を見て、尋も嬉しそうに漬け物を食べては、ボリボリと音を鳴らした。 「この野菜は此処で?。」 尋は老婆にたずねた。急に質問されたので、老婆は思わず喉が詰まりそうになった。 「オホッ、オホッ。」 慌てて胸を叩くと、老婆はお茶を飲んで、ようやく落ち着きを取り戻した。 「いやあ、あんまり美味いもんで、食べ過ぎて、つっかえてしもうたわ。」 そして、一呼吸おいて、 「ああ。前にある畑で、みーんな取れたんよ。何とか畑仕事は出来ちょるもんで、こないして元気ではおらしてもろとるが、峠を登るのは、ちときつうてなあ・・。」 「あ、食事なら、また持って来ますんで。」 尋がそういうと、 「そりゃあ、すまんのう。こんな美味いもん食えるんなら、這ってでも登っていきたいんやが・・。」 そういうと、老婆はまた箸で焼きものを口に運んだ。尋も再び漬け物を食べた。 「いい土ですねえ。」 尋は野菜の歯ごたえから、その育ちの良さを感じ取っていた。すると、老婆の端を持つ手が止まった。 「ああ。一見、痩せてそうに見えるが、よう肥えとってええ土なんよ。でも、もうじき、此処も沈むそうや。」 少し寂しげに、老婆はいった。尋は、何か巨大な物が建設されようとしているのは分かってはいた。昨日来た客の中にも、建設作業員らしき人間が何人もいた。尋は、この辺りも、何処かの村のように例外なく開発の波に呑まれるのかと、切なく思った。すると、 「そやけど、そんな大事なことって、勝手にほいほいと決まるもんなんかいのお?。」 老婆は不思議なことをいい出した。 「ご先祖様から受け継いだ土地やで、ワシも守りたいんやが、役場のもんが来て、此処は水に沈むけん、他所移ってくれっていわれてなあ。爺さんも居のうなったし、息子ん所か、ホームにでも身を寄せよう思うとるんよお。」 老婆は、未練はあるが仕方の無いことと、半ば諦めた感じで語った。それを聞いて、 「あの、知らせの書類とか無しに、いきなりですか?。」 尋は何か釈然としない様子で、老婆に尋ねた。 「ああ。郵便なら毎日見ちょるで、手紙とかは無かったなあ・・。」 「じゃあ、役場の人が何か紙を持って来たとかは?。」 「いや、それも無かったなあ・・。」 それを聞いて尋は、 「解りました。どうもご馳走様でした。じゃあ。」 といいかけたが、老婆が、 「ちょっと待ちい。ほれ、これ、持っていきなせ。」 そういって、畑で取れた野菜を袋に詰めて尋に手渡した。 「これでまた、美味いもん作ってな。」 老婆はにこやかにいった。尋はお礼をいって別れの挨拶をすると、軽に乗り込み、食材の調達に向かった。そして、麓の市場でサッと買い物を済ませると、尋は役場まで向かった。少し走ると、この辺りの風景には少し似つかわしくない、モダンな建物が現れた。尋は広い駐車場に軽を止めると、玄関に向かった。 「これが役場・・か。」 尋はそう呟きながら、窓口の方へ歩いていった。 「あの、すいません。」 「はい。」 尋が声を掛けると、何やら無愛想な係の女性らしき人物が対応した。 「峠の所にある食堂から来ました、尋という者ですが。」 「あ?、ああ、あの食堂のね。で?。」 「その近くにあるお家に、料理を届けた際に聞いたんですが・・。」 尋は先ほどの話を、女性に話した。立ち退きに関するような重要な話については、事前告知と協議が必要なはずだと、尋は丁寧に伝えた。しかし、 「ああ。私ではよく分かりませんので、上の者と代わります。」 と、女性は席を離れると、上役らしい人物の所へいき、その男性に耳打ちをした。すると、その男性がやって来て、 「食堂にお勤めの、尋さん・・ですか。あそこ、人を雇ったんかあ。で、彼女とは、どういったご関係で?。」 と尋ねた。尋は、ただ単に食事を運んだだけだと伝えたが、老婆のことに関しては、公な手続きがちゃんと行われていない可能性があると、その旨を伝えた。すると男性は、 「解りました。では、早速、彼女の所に書類を持って伺います。」 と、淡々と答えた。 「すいません。お手数ですが、どうぞ宜しく。」 と、尋は深々と頭を下げて、その後ろにいた先ほどの女性にも一礼した。そして、尋は軽に乗ると、直ぐさま食堂に戻った。 「おう、ご苦労さんやったな。」 「いえ。」 尋は老婆から貰った野菜と調達してきた食材を荷台から下ろして、調理場に運んだ。 「ほう、相変わらず、ええ野菜作っちょるのお。」 男性はそういうと、袋から艶々の空豆やジャガイモ、タマネギを取り出して微笑んだ。しかし、 「そやけんど、あそこも、じきに沈んでしまうけのう・・。」 と、少し寂しそうにいった。すると、 「あの、つかぬ事を伺いますが。この辺りはみんな、ダムが出来ると沈んでしまうんですか?。」 尋は率直に尋ねた。 「ああ。婆さんがいうとったか?。此処いらは上の方じゃけ大丈夫やが、下の方はどうしてもなあ・・。」 男性も残念そうな口ぶりではあったが、何せ尋は此処へ来てまだ日が浅い。それ以上、差し出がましいことはいわない方がいいかと思い、前掛けをすると調理場に入っていった。そして、貰ってきた野菜を洗い、ジャガイモの皮むき作業をしようとした所、 「ああ、それならワシがやるで、な。」 老人がその作業を引き受けた。昨日よりは随分と腰も楽そうだった。 「すいません。」 そういうと、尋は肉や魚の処理にかかった。最初は二人とも黙々と作業をしていたが、 「婆さん、何かいうとったかいの?。」 と、男性がたずねた。 「あ、はい。料理が美味しかったと。」 「そうや無うて、ダムのことよ。」 尋は、老婆が語ったことを正直に話した。何の話し合いや書類も無しに立ち退くことになったことも。すると、男性は皮むき作業の手を止めて、 「やっぱり、そうじゃろう・・。」 そういいながら、深い溜息を吐いた。そして、 「なあ、尋さん。来て早々のアンタにたずねるのも何なんやが、どう思うな?。」 男性は何かもの有り気な様子で尋にたずねた。尋は自身が余所者であると十分思いつつも、 「はい。よくは分かりませんが、何か荒い感じがします。」 と、率直に答えた。すると男性は、 「じゃろ。ワシもそう思ちょるんよ。此処いらは、そないに発展しとるような所でも無いんやが、それでも、生まれ育ったもんにしてみたら、離れたくは無いわなあ。ワシはアンタと同じで、随分昔に此処へ来て、こないな食堂のオヤジをやっとるで、町が無うなったら、また他所へでもとは思うたが、もう歳じゃでなあ。此処で骨埋(うず)めようとは思っちょったんやがなあ・・。」 そういうと、再び皮むき作業を始めだした。  食材の準備を終えると、二人は昼飯時までに調理にかかった。男性は相変わらず腰の様子が思わしくは無かったが、それでも手着るだけのことは手伝った。尋は煮炊き物、焼きもの、揚げ物と、次々に取り掛かった。まだ来て二日目だというのに、もう何年も此処の調理場に立っているような雰囲気だった。やがて、お昼時近くになると、噂を聞きつけた人達がやって来た。 「こんちわ。何か腕のええ人入れたんやてなあ?。」 日頃はポツリポツリと地元の者が訪れる程度の食堂が、今日は一気に人が増えた。 「こりゃあ、食材が足らんようになるかも知れんなあ。」 男性は久しぶりに追加の買い出しにいく心配があるのではと思うほどだった。案の定、ダムの工事現場の連中が来た頃には、用意していた料理はかなり無くなっていた。老夫婦と尋の三人は天手古舞いで、調理と給仕、後片付けと配膳を続けた。すると、 「此処はワシが引き受けたけえ、尋さん、すまんが食材の調達にいってくれんかのう?。」 男性が切り出したが、尋は揚げ物を次々と皿に盛りながら、 「あの、ちょっと余計目に仕入れてきたので、今日の分ぐらいは何とかなるかと。あ、その分は、自分が出しときましたんで。」 そういって、男性を安心させた。すると、 「おお。そうかい。そりゃすまんのう。それにしても、アンタ、本当に気が利くなあ。」 男性は熟々感心した。尋は揚げ物の作業が終わると、新たな食材の準備と調理の作業を同時に行った。ただひたすら、黙々と料理を作り、女性の洗い物が大変そうと見るや、横から手伝って、一気に食器を洗い上げて丁寧に拭き、そして、また調理にかかった。そして、一頻り客が訪れた後、ようやく一段落できた。老夫婦はぐったりとした様子で、客のいなくなった机の所に腰掛け、 「ふーっ。参った参った。繁盛は有り難いが、流石にこの歳では、堪えるわい。」 そういいながら、男性は天を仰いだ。女性は再び立ち上がってお茶でも入れようとしたが、やはりクタクタで動けなかった。そこへ、 「はい。お待ちどお。」 尋が大きなお盆で定職を運んできた。それを見て男性は、 「うひょお!。こりゃ美味そうじゃ。にしても、尋さん、ほんに気が利くなあ。」 そういうが早いか、男性は両手を合わせると直ぐに、昼飯を食べ出した。女性もようやく一服出来たのか、 「ああ、ええ匂いや。頂きます。」 といいながら両手を合わせて、直ぐさま食べ出した。尋も自分の分を運んできて、三人で遅い昼食を取った。目一杯働いた後なだけに、三人の体は尋の作った料理で、見る見る鋭気が養われていった。そして、食事を終えた頃に男性が、 「それにしても、食材が足らんようになるて、何で解ったんや?。」 そう尋にたずねた。実は、此処へ来て直ぐに、尋はこの街のことを簡単に検索するとは無しにラップトップで見ていた。そして、少しの間だが、軽トラで周囲を回るうちに、工事現場の様子も何気に見ていた。そして、もし大方が食べに来た場合、どれ程の食材がいるかを、ザックリと割り出していたのだった。しかし、 「昨日の雰囲気からして、お客さんが友達を呼んできてくれたら、もう少し増えるかなと思ったので・・。」 と、寡黙な感じで答えた。しかし、自身の料理の腕を全く過信していなかった尋には、やはりこの客の入りは不思議に感じた。すると、 「この辺りは、これといって美味いもんを食わせてくれる店は無いでなあ。土地は肥えとるし、水もええ。じゃで、米も野菜も美味いんで、みんなそれに慣れとるんよ。そやけど、やっぱ、美味い店が出来たら、つい足を運びたくなる。そういうもんやでな。」 男性はそういって、尋を見るとにっこりと笑った。彼もかつて此処に来たとき、本格的な料理を求めて、物珍しげに人が集まって来た。そして、その味は暫くは噂になったが、やがてはいつもの食事を取るようになり、客の入りも落ち着いた。そしていつしか、男性も地の物を中心に、素材の味を損ねない料理を提供するようになり、今に至っていた。 「そやけど、アンタの腕は、ワシなんかとは比べものにならんで。益々繁盛したら、三人では足りんわいのう。まあ、でも、この賑わいも、ダムが出来る頃には・・、」 男性がそういいかけたとき、 「よう。常さんはおるかいのう?。」 初老の男性が一人、店にやって来た。 「ああ、茂(しげ)さんかい。珍しいのう。」 「何や、他所もんが来て、店手伝うちょるって聞いてな。」 初老の男性は、ぶっきらぼうないい方でたずねた。 「尋さんじゃよ。昨日から来てくれてな。住み込みで働いてくれちょるよ。」 それを聞いて、尋は立ち上がると、 「初めまして。尋です。」 そういって、頭を下げた。 「おお。」 男性は名乗りもせずに、顎で頷いた。そして、 「ところでよ、役場のもんに聞いたんやが、何や下の婆さんが、工事の関ことで書類が欲しいやらいうてきたって。常さん、あんた何か婆さんに入れ知恵でもしたんか?。」 「いや、ワシは最近、会うとらんよ。婆さん足が悪いで、店に来んようになったけ。」  それを聞いて、初老の男性は怪訝そうな顔をした。じゃあ、一体誰がと思っていたとき、 「あの、お婆さんと話をしたのは私です。」 尋はボソッと答えた。男性は舌打ちをしながら、尋の方に近づいていき、 「あのね、アンタ。この辺りは今、大事なときなんよ。アンタは他所から来たから知らんやろうが、話が済んで、ようやく工事が出来るようになったんよ。解る?。」 老夫婦は寝耳に水といった状況で互いの顔を見た。 「すみません。差し出がましいことを。ですが、お婆さん、何も聞かされてないのに、此処を追い出されるのかと心配してたものですから。」 尋はそういうと、初老の男性を真っ直ぐ見つめた。これは何か不穏なことが起きると察した男性は、 「なあ茂さん、ワシらは上に住んどるで、そないな話は一切来んかったし、尋さんも此処に来て日が浅いで、状況は知らんかったよ。なもんで、婆さんの話を聞いて、何ぞ心配になって、つい話に出たんじゃろ。な。多分、そういうこっちゃろ。な。」 男性はそういいながら、尋の方を軽く叩きつつ、初老の男性を見た。 「まあ、そういうことなら、それでもええが、折角まとまったもんを蒸し返すような真似だけはせんでくれや。の。」 そういうと、初老の男性は去り際に尋をチラッと見ながら引き上げていった。 「すいません。何か。」 尋は男性に詫びた。 「いいや。何の何の。まあ、知っての通り、ダム話は何年も前に来ちょったんじゃが、ワシは他所もんやし、此処いらは沈みもせんで、首は突っ込まんようにはしちょったんやがのう。」 男性がそういうと、尋は自分のしたことで、何か厄介なことが起きそうな気がした。そして、これ以上事態が悪くなる前に身を引こうと、そう考えたとき、 「なあ、尋さん。アンタも聞いてしまっちゃあ、後には退けんタチやろう。目がそういうとる。ワシも色々あって、ようやく此処に辿り着いたで、若い衆の義憤やら挫折やら、大概のもんは見てきたわい。こんな辺鄙な所に、水力発電やら治水やらって理屈付けても、何の説得力も無いわな。どうせ利権じゃろ。茂もケツをかかれて、ナンボか貰うたんじゃろ。じゃが、ダムで沈みゃあ、他所へ移らんでも人口は減るで、此処はやっていけん。どの道、同じじゃ。」 男性は急にキリッとした顔つきになった。尋は自身が諫められると思っていただけに、男性の言葉は意外だった。 「で、や。ワシらのことは心配いらんけ、アンタはアンタの思うようにやってくれ。ワシゃ一目見たときから、尋さん、アンタに惚れたで。此処いらのもんは年寄りばかりで、あないな連中には口答えも出来ん。な、及ばずながら、力にはなるで。」 男性がそういうと、尋はあまりのことに、目を見開いて言葉が詰まった。 「アンタのような若い衆がワシの右腕になってくれてたら、組ももっと大きゅうなってたやろうに・・。」 その言葉を聞いて、女性は男性をキッと睨んだ。 「おお、いかんいかん。つい口が滑ってしもうたわい。お恥ずかしい。遠い昔の話ですわい。すっぱり足洗うて、罪滅ぼしがてら、此処で飯屋やろうと決めたんが、もう何十年前か。じゃが、こないな静かな所でさえ、理不尽の種は転がっちょるもんよ。なあ。」 そう聞いて、尋は飯屋のまかない以外に、特に何かこの土地のためになることをしようなどとは考えてもいなかったが、 「ごめんよ。おう、常さん!。」 と、さっきとは別に、また二人の男性が訪ねてきた。 「さっき下の婆さんから聞いたんやが、何やダムの工事するって話、ちゃんと書類で来とるって聞いての。」 「何や。婆さんから聞いたんか?。」 「ああ、新しゅう此処に来た兄さんに話したら、直ぐさま役所のもんが書類持って来たっていうとったんよ。ワシらもおかしいとは思っちょったんやが、普通、知らせやら話し合いぐらい、あるもんじゃろ?。のう。」 尋はマズいことになったと思ったが、逆に、 「ほうれ。な。みな思いは同じなんよ。」 そういいながら、店主の男性は尋の背中をポンと叩いた。そして、 「今度来てくれるようになった尋さんじゃ。こん人が婆さんの所に使いにいってくれた際に、色々と話を聞いて、役所にいってくれたんや。」 男性は尋を紹介がてら、二人に話した。 「ほお。そうかいな。じゃあ、すまんけど、ワシらにもその話、ちと聞かせてくれんかな?。」 二人はそういうと、尋に頼み込んだ。尋は一瞬躊躇したが、男性が再び背中を叩いて、話すように促した。 「別に、大した話はしてませんが、こういう場合、普通、事前に通知と説明会が必ず開かれるはずで・・、」 尋はお婆さんの時と同様に、このような工事が行われる際の段取り的なことを簡単に説明した。すると、 「ふーん。なるほどなあ。ということは、ワシらの与り知らん所で、随分と勝手に段取り組まれとったってことやなあ。」 二人は眉間に皺を寄せて唸った。  尋はお婆さんの話を聞いたとき、既に状況をある程度は読んでいたが、やはりといった気持ちが強まった。大抵は、然るべき段取りを踏んでいても、結局は公な機関が一度決定したことは覆らな。体よく話を聞くフリはしても、それで終わりか、丸め込まれるのが関の山である。すると、話を聞いていた一人が、 「実はな、この話を訝しがるもんがおったんやが、妙な連中に囲まれて、翌日には黙ってしもうたんや。」 「それって、誰な?。」 店主が口を挟んだ。 「此処だけの話やで。良吉や。日頃は大人しいが、曲がったことは嫌いやで、勝手にご先祖さんから受け継いだ土地を好きなようにするのはおかしかろういうてな。腕も立つで、工事現場のもんやら強面のもんが来てもへっちゃらやっていうとったけど、何やら役人風なのが来ての。ちょっと話されたら、たちまち黙りおったわ。」 「そうか。そないなことがあったんか・・。」 店主は顎を撫でながら、尋の方を見た。 「あの、その良吉さんって方と、会えますか?。」 尋は突然いい出した。 「そりゃ、会えんことは無いけど、あの日以来、この話は一切せんようになったからのう・・。」 「案内して頂くだけでいいです。」 尋がそういうと、男性は良吉の家のある場所を説明した。 「それと、この事は、他には黙っておいてもらえますか?。」 「ああ、そりゃええが、アンタ、一人でいくつもりか?。ワシらが一緒にいった方が・・。」 「いえ、一人で会って、話してみます。すみません。」 尋は男性の提案を丁寧に断り、出来るだけ話が大きくならないように気遣った。そして、二人が帰った後、 「この分やと、まだまだ話を聞きたがっとる連中は多そうやなあ。で、尋さん、良吉に会って、どうするんや?。」 店主は尋にたずねた。 「恐らく、先手を打たれたんだと思います。相手方のやり口が気になるので、一応、話は聞いておこうかと。差し出がましいことをしたばっかりに、話が妙な方向に動いてしまって・・。」 そう尋がいいかけたとき、 「いや、尋さん。アンタのせいじゃ無いわい。殊は既に始まっとったんよ。アンタは切っ掛けに過ぎん。正しいことをしただけじゃ。」 そういうと、店主は立ち上がって、 「どれ、ちょっくらいくか。尋さん、ワシを車に乗せてくれんか?。」 そういって、尋を連れ立って表に出た。 「一人でいくより、ワシがおった方が早いでな。さ、車出してくれ。」 店主は尋を良吉の所まで案内するつもりだった。尋は一人でいくつもりだったが、店主の意味ありげな物いいに従って、一緒に車で向かった。暫く走ると、良吉の家が見えてきた。 「此処じゃ此処じゃ。」 店主がそういうと、尋は車を止めた。先に店主が玄関の所までいき、 「おう。良吉、居るか?。」 すると、奥の方から体格のいい目つきの鋭い男性が現れた。 「親爺さん!。」 そういうと、男性は深々と頭を下げた。風体とは裏腹の律儀さに、尋は何かを察したようだった。 「ああ、固い挨拶は抜きじゃ。それよかの、お前にとっちゃ気が進まん話になるかも知れんと思うてな。先に謝っとくわ。」 そういって、店主は頭を下げた。男性は慌てて頭を上げるように店主に促した。 「こちらは尋さんや。今度、うちの店で働いてくれるようになったんや。」 「尋です。」 店主が尋を紹介すると、彼は頭を下げた。すると、 「良吉です。」 といって、男性は深々と頭を下げた。そして、 「あの、親爺さん、尋さんも、ひょっとして・・、」 といいかけたとき、 「はは。こん人は違うで。腕のいい料理人や。」 そういって、男性のたずねようとしたことを遮った。 「話いうんは他でも無いんやが、この尋さんがな、ふもとの婆さんの土地がダム工事で無うなるのを心配して、ちょっと相談に乗ってやったら、妙に話が広がりだしてな。で、役所のもんが来たりと、変な具合になって来てな。で、何でも、お前んとこにも何や、妙なんが来たって聞いてな。」 そういって、店主は男性の目を見た。すると男性は、 「はい。工事の件が、何も知らせ無しに勝手に進んどるのを、ワシも不思議には思っとったです。で、それはおかしいんじゃ無いかって、役所に聞きにいったら、後日、数人よこして来たです。」 「これか?。」 男性の言葉に、店主は人差し指を頬に当てて、スッとなぞりながらたずねた。 「はい。で、こっちがたじろがないのを見ると、今度は役人風のもんをよこして来たです。で、」 「過去のことをバラすとでもいわれたか?。」 「ええ。」 店主の先読みに、男性は静かに答えた。 「ワシ一人のことなら、別にええんですが、娘がいっとる学校に知れると、学校におれんようになると思って・・。」 そういって、男性は肩を落とした。二人のやり取りを傍らで聞いていた尋は、 「あの、立ち入ったことを聞いて、すいません。その役人風の人物は、何か名刺とか、身分を明かすものや内容をいってましたか?。」 そういいながら、男性の目を真っ直ぐ見た。  男性は、腕組みをして思い出しつつ、 「そういうもんは見せんかったですが、○○省のオウヤとかいうとったかな・・。」 うろ覚えながら、役人の苗字を答えた。 「オウヤ・・ですね。解りました。答え難い話を、どうもすみませんでした。」 尋は男性に礼をいうと、 「いえ、親爺さんの見込んだ人やで。でも、気い付けて下さいや。ありゃ油断ならん面しとったですけ。」 男性は尋を気遣った。そして、尋は黙って頷いた。二人が車の方に戻ると、男性は深々と頭を下げて見送った。そして、車中、 「あの、良吉さんというのは・・、」 尋がそういいかけたとき、 「はは。ありゃ、一本気な男よ。此処いらの出なんやが、ヤンチャして飛び出して、西の方でかなりのし上がってたらしいわ。そやけど、向いとらんかったんやろの。追い込み掛けられてタマ取られる既所(すんでのところ)で、ワシが連れ戻したんや。それを恩に思ってか、今もああして律儀に挨拶してくれるっちゅう訳ですわ。」 と、店主は大まかに事情を説明してくれた。 「そうでしたか。」 「それにしても、そないなこと、普通は誰も知らんはずなんやが、そのやって来た連中ちゅうのは、そんな情報も得とるんかの?。」 「可能性はあります。」 ハンドルを握る尋の手に力が入った。二人はそのまま買い出しに向かい、必要な物を調達してすぐに戻った。尋は荷物を下ろし、調理場まで運んだ。店主は椅子に腰掛けて一服すると、調理場に入って二人で下準備をした。 「あの昼間来た茂っちゅうのがおったやろ?。以前は此処にもちょくちょく来とったんやが、ダムの件が持ち上がってからは、とんと来んようになってな。別にワシは賛成も反対もいうとらんかったんやが、工事を速やかに進めれるように、あれこれと画策するようになったみたいでな。ま、持っとる土地をええ値段で買い取って貰えるように、段取りでも付いたんかの。」 店主は小芋の皮を剥きながら、尋に語った。 「そうですか。あんまり宜しくない方面にも、顔は利く方なんですか?。」 尋はボソッとたずねた。 「そうやのう・・。みんな静かに暮らしとる中で、一人だけ浮いた感じはしとったかの。役場のもんや、町長よりも先に工事の件を知ってたみたいやしの。」 「町長より・・ですか?。」 「ああ。議会いうても、小さい所やし、バッジ付けてても、みんなお飾りって感じやったな。茂が尻掻くまではな。」 魚を捌きながら、尋は時折、店主に尋ねた。 「そりゃそうと、尋さん、良吉に役人の名前を聞いとったが、何か心当たりでもあったんか?。」 店主は尋の目を見てたずねた。始め、尋は黙っていたが、 「まあ、こういうことはスクラムを組んで、あらゆる事態に備えるものなんですが、一見、やり方が手荒に見えて、でも、妙な具合に情報戦まで備えてるのが、何とも・・。で、そういうのに長けた連中もいます。」 それを聞くと、店主は再び芋の皮を剥きながら、 「詮索するつもりは無いんやが、アンタ、そのヨコヤっちゅうやつ、知っとるようやの?。」 と、少しいい難そうにたずねた。一瞬、魚を捌く尋の手が止まった。そして、 「ボクが知ってるやつと同じ人物なら。昔の話ですが・・。」 それ以上、尋は何も語らなかった。それを察して、店主も黙々と作業に没頭した。そして、支度が一段落した頃、 「さて、そろそろ提灯に火入れてもええかね?。」 「ああ、いくか。」 女性の言葉に店主が相づちを打って、夕方の客を迎える準備が整った。程なく、灯りと料理に誘われた客達が次々とやって来た。 「いらっしゃい。」 「いらっしゃい。」 店主と女性は客達を迎え入れ、酒と料理を次々に運んできた。そして、初めは楽しげな酒盛り風な談笑だったのが、どの席も、何やら頭を寄せてヒソヒソと話すようになった。時折、 「常さん、ちょっとええかな?。」 と、何やら話を聞きたがっていた。中には、調理場の入り口までいき、 「尋さん、手え空いたら、ちょっとええかな?。」 と、やはり話を聞きたがっていた。店主が給仕の合間に、 「何や?。どうした。」 とたずねた。すると、客は小声で、 「例の工事のことなんやけどな・・。」 と、店主に話した。客の中には工事関係者や、役場の関係者の姿もあった。そのことを察して、店主も小声にはなったが、 「ふむ。それで?。」 「実はな、アンタには長いこといわんかったんやが、ワシら、工事には反対やったんよ。そやけど、勝手に進められるわ、脅されそうになるわで、じっとしとったんやけど、何や、あん人が来てから、そこいらの話を役場に持ってってもええように聞いてな。じゃったらと思って、今日、みんなでこうして来たんや。」 そういって、客は調理場の方を顎で差しながら語った。それを聞いて店主は、 「もうちょっと、おれるか?。」 そうたずねると、客は黙って頷いた。店主は一際小声で、 「現場と役場のもんが居のうなったら、な。」 そういうと、客の方を軽くポンと叩いて、食べた器を下げていった。  暫くすると、工事関係者や役場に縁のある者は帰っていき、残りは普通に酒盛りをしているように装っていた。そして、 「ぼちぼち看板にするかのう。」 そういいながら、店主は戸を開けて暖簾を仕舞おうとした。と、そのとき、 「こんばんは。」 と、大柄の男が目の前に立っていた。 「おう、良吉。昼間は済まんかったのう。で、どうした?。」 「ええ。何か、みんなが話をしに集まるってのを聞きまして。」 店主は良吉に近づいて、小声で、 「お前も聞いたんか?。」 とたずねると、彼は静かに頷いた。 「そうか、じゃあ入れや。」 そういって、店主は彼を中に入れた。 「おお、良吉。来たか来たか。ま、こっち来いや。」 中にいた客達は、良吉を快く迎え入れた。そして、 「なあ、常さん、尋さんも呼んでくれんか?。ワシらも話が聞きたいで。な。」 客の一人がそういうと、店主は厨房にいた尋を呼んできて、みんなの所に座らせた。そして、店主も横に座った。 「なあ、尋さん。下の婆さんの件、有り難うな。ワシらも長いこと、妙やとは思っとったんやが、何せ怖いもんでな。大抵のもんは怖がらん良吉も、この話には引いとるでな。」 客の一人は、そういいながら良吉の方を見た。彼も小さく頷いて下を向いた。 「あの、差し出がましいことをして、すみません。」 尋は開口一番謝ったが、逆にみんなは、何の何のといった感じで、尋に感謝した。 「で、尋さん。ワシらみんな素人やで、こういう場合、どんな段取りとか手続きが普通なんか、聞かせてくれんかの?。」 客の言葉に、尋は相変わらず気後れした感じだったが、店主が尋の背中を軽くポンと叩くと、ようやくしゃべり出した。 「あの、そもそも、どんな感じで通達が来たんですか?。」 「ああ、最初は役場のもんと町長が、此処いらにダムが出来るって、そういうとったな。で、その後は茂がくっ付いて、家々を回ってって感じやったな。」 「その間、書類の知らせや説明会は?。」 「んなもん、一度も無かったわい、のう?。」 客は周りにたずねたが、みんなも同様だと頷いた。 「で、そりゃいくら何でも、ちとおかしいでって、そういうたら、何や人相の悪いのが家まで来るようになっての。それからは、みな、黙り(だんまり)よ。の。」 それを聞いて、みんなも静かに頷いた。 「で、ワシらがダメでも、良吉やったらそんな連中、屁でも無いわと思とったが、何せあいつら、狡っ辛しいというか強かというか、で、結経、何もいえんし、出来んようになっとったんや。」 それを聞いて、尋は、 「そうでしたか・・。普通の、然るべき段取りを、全然踏んでいなかったということですね。でも、残念ながら、それはよくあることです。」 と、力なく答えた。すると、 「なあ、尋さん。このままやと、これまで通り、工事が進んで、みんなどっか他所に移らされる。そやけど、向こうのやり方が間違うとるんやったら、みなで反対の声を上げるとか、裁判とか、そういう方法もとれるんとちゃうんかな?。」 店主がそういうと、みんなも、それを聞きたかったといわんばかりの表情になって、一斉に尋の方を見た。しかし、尋は硬い表情で、 「それは確かに、出来なくは無いです。費用なり手続きが煩雑で大変ですが。でも、時間はかかったとしても、正攻法で勝てる可能性は低いかと。」 そういうと、視線を下に落とした。すると、 「それは恐らく、既に黙認しとるやろうってのを理由に、あいつらが掲げてくるってことですか?。」 常吉が尋にたずねた。尋は常吉の方を見て、静かに頷いた。 「あの役人風の男がいうとったです。既成事実とか何とかいうて。」 悔しさを滲ませながら、常吉は絞り出すように語った。 「ところで尋さん。アンタさっき、正攻法では・・って、いうとったが、真っ向勝負なら勝てんとしても、そうじゃ無かったら、何か手はあるってことかの?。」 店主は尋を覗き込むようにたずねた。すると、 「うーん、やはり可能性は高くは無いですが・・、」 尋がそういうと、みんな目を輝かせて、一斉に尋を見つめた。 「カギは、その役人かと。こういう現場に、普通、そんな立場の人間がわざわざ出て来たりはしないものです。それを出て来たということは、恐らくは、余程工事を進めたい事情があってのことかと。」 尋が言い終わるのを待って、店主が、 「じゃあ、その事情とやらを突きとめたら、何か突破口でもありそうか?。」 そういって、食い入るように尋を見つめた。 「かなり危険なことではありますが。多分。」 尋は店主を真っ直ぐと見返しながら答えた。それを聞いて、店主は良吉の方をチラッと見ながら、 「危険なことやったら、任せとき。そういうことのために、ワシらはおるで。」 店主は幾分、上気しながら答えた。良吉も身を乗り出して頷いた。すると、 「あんな、尋さん。ワシらは決して他所もんにはいわんのやが、此処いらのもんは、みな祖先が落ち武者なんよ。ま、いわば隠れ里っちゅうことや。主君に使えて命を賭けて戦ったが、日の目を見ずに逃げてきたもんの末裔じゃ。じゃもんで、またお上のいうなりに追い出されるのは、もう飽き飽きと思うとったところよ。ここらで、一矢報いるかって。な。」 その言葉に、そこにいた客が全員、大きく頷いた。それを見て、尋は何か熱いものが込み上げてきた。  尋は少し腕組みをしながら考えている様子だったが、 「解りました。やれるだけはやってみます。まず、みなさんは、呉々もこれまで通りの生活をしていて下さい。これは大事なことです。」 尋の持ち出した方策に、そこにいる一同は驚いた。 「それは、何もせんでええっちゅうことか?。」 「いえ、まず、手続き上は、あっちに分が無い。しかし、工事を進めて黙認させれば、立ち退きを承諾したという既成事実が出来る。それがあっちの狙いでしょう。ならば、それを逆手にとって、全く同じ方法をしかけるんです。何も聞かされていないし、必要な手続きも行っていないのであれば、此処にいるみなさんは、これまで通りの生活を続けることが出来るし、保証されている。それを邪魔する方が、分が無い。」 尋の説明を聞いて、 「なるのどなあ。つまりは、無理に結束したり、騒ぎ立てずに戦うって戦法やな?。」 と、一人がたずねた。尋は彼の方を見て、黙って頷いた。そして、 「彼らは、こっちが動かないと踏んでいたので、先んじて動く者に対して素早い対応を取ってくる。良吉さんとときもそうでしたし、お婆さんにワタシが話をした際も、直ぐさま人が来ました。つまり、出れば打って来る。それをさてている間は、彼らの手の内です。ならば、何もせず、淡々と過ごす。そうすれば、必ずあっちから探りを入れに来る。」 尋の言葉に、みんなは息を呑んだ。 「で、出て来たら、どうするんや?。」 店主が何気にたずねた。 「尻尾を出したら、掴みます。そして、何処までの連中が関わってるのか、逃さず見極める必要がある。それを辿っていく。」 尋は落ち着き払ってはいたが、内容が内容だけに、店主はことの難しさを何となく了解していた。 「そないなこと、出来るんか?。」 グッと尋の眼を見つめて、店主がたずねた。 「一か八かです。しかし、他に方法は無い。そのときが来たら、ワタシが話をしにいきます。」 尋は静かに、しかし、眼の奥底で何かが燃え盛るように、店主を真っ直ぐに見た。 「よっしゃ。解った。今日はこの辺でお開きにしとこう。以後、連絡は此処に来た時に、こっそりと口頭で。な。」 店主はそういうと、両脇にいる連中の方をポンポンと叩いた。それに促されて、みんなも互いの方をポンポンと叩いた。瞬時にして結束の輪が出来た。帰りがけに、みんなは尋の肩を叩いて、力強い笑みを浮かべながら引き上げていった。最後に良吉が、 「とことん強力しますで。」 といいながら、尋の手を取ると、固く握手を交わして去っていった。 店主夫婦と尋は、皆を見送ったあと、店の中を片づけた。そして一息つくと、 「それにしても尋さん、アンタ、ほんまにええ男っぷりやのう。みんな、暮らしを根こそぎダムに持ってかれるって、半ば諦めとったのが、アンタの言葉と、何より、その目つきや。それにみんなが、焚き付けられるんじゃ!。」 そういって、店主は熟々感心した。 「いえ。ボクはただ、みんなの願いが強く、一つになっているのを感じて、何かお手伝い出来ることがあればと思っただけですから。」 相変わらず、尋の言葉は控えめだった。しかし、 「やっぱ、才覚と知恵よのう。ワシは渡世人やったで、相手の器は千度見て来た。じゃが、それだけでは役人相手の喧嘩は出来ん。どうしても知恵がいる。尋さん、アンタはその両方を兼ね備えとる。ほんにええ男よ。」 そういうと、店主は気を良くしたのか、コップに冷や酒を少し注いで、飲み始めた。尋も進められたが、照れ笑いを浮かべながら、丁寧に断った。自身のことを買い被りすぎだと思いつつも、やがて来るであろう対峙の時を思うと、尋は引き締まる想いがした。決して一筋縄ではいかない相手。恐らくは、彼が今こうして、此処にいることになったきっかけを作った、正に宿敵が、奇しくもこの場所を狙っている。もう、二度と見(まみ)えることは無いだろう。過去のことは忘れて、静かに新たな人生を歩み出すべく訪れたこの場所で、またしてもヤツの面を拝むことになろうとは。尋は一瞬、拳を握りかけたが、その力を解いて、いつものように片づけ物を続けた。 「淡々と・・。」 さっき、みんなにもいったことを、自身も続ける。決して焦らず、そのときが来るまで。ふと見ると、テーブルの上に店主は気持ち良さそうに突っ伏していた。尋は奥へいくと丹前を持って来て、店主の背中にそっとかけた。そして、彼が起きないように、コップをそっと持って、厨房に持っていった。 「みんなの気持ちに報いる・・か。」 そういうと、尋はコップに冷酒を少しだけ注いで、一気に飲み干した。  翌朝、尋は早朝に目覚めた。洗面を終えると、尋は軽で出かけた。そして、峠の下にある老婆のところに向かった。家に着いて車を止めると、老婆が農具を入れた籠を担いで出かけるところだった。 「おや、尋さん。」 「おはようございます。畑仕事、手伝ってもいいですか?。」 「ほんまかいな。そりゃすまんのう。」 そういうと、尋は老婆の籠を代わりに持って、一緒に畑へいった。 「この前は、有り難うな。お陰で、もう暫くは畑仕事が出来そうじゃわい。」 そういうと、老婆はニッコリと笑った。そして、程なくして畑に着くと、二人は野菜を収穫したり、次の苗に備えて土を耕したりと、額に汗した。周囲の林では、小鳥のさえずりが絶えず聞こえた。柔らかい朝日に照らされながら、二人の農作業は続いた。 「ほう。やっぱり、男手にはかなわんわ。」 老婆は尋の作業ぶりに熟々感心した。 「いえ。ボク何か不慣れで・・。」 そんな風に、二人は時折話ながら、作業を続けた。そして、収穫した野菜の箱詰めが一段落すると、 「あの、この辺りでは、他にも野菜を作ってる方は?。」 尋は老婆に尋ねた。 「ああ。昔よりは随分減ったがの、年寄りは他にやることも無いで、大抵は畑に出とるよ。この先にある世吉爺さん所は、もっと大がかりにやっとるでな。」 そういいながら、老婆は連絡先を教えてくれた。そして、 「ワシから聞いたっていえばええ。ほれ、これ、持っていきなせ。」 そういうと、老婆はまた袋に入った野菜をくれた。 「すいません。」 「なんのなんの。礼をいうのは、こっちの方じゃ。気いつけてな。」 そういうと、老婆は尋を見送った。尋はこのまま川までいって、釣りでもしようかと思ったが、折角老婆に教えてもらったので、世吉爺さんのところまで足を伸ばすことにした。軽で暫く走ると、ビニールハウスが何棟も並んでいるのが見えた。そして、そのうちの一つから老人が出て来るのを見つけると、尋は車を止めて、声をかけた。 「すいません。峠の下のお婆さんから伺ったんですが、世吉さんですか?。」 「ああ、そうやが?。」 「ボク、尋といいます。今度、峠の常吉さんの所で働くことになった者です。」 それを聞いて、老人はたずねた。 「ああ、アンタか。婆さんから聞いたよ。まだ暫くは此処におれるっちゅうて、えらい喜んどったわ。そうかそうか。アンタやったか。で、今日はどないしたんや?。」 「あの、この辺りで作っておられる野菜は、直接買うことが出来るか、伺おうと思いまして。」 「そうか。アンタ、料理するんやったな。みんなが美味い美味いっていうもんやで、ワシもいっぺん、いこう思とったところや。」 「それは是非。」 老人は思い出したように、話を元に戻した。 「あ、野菜やったな。ま、確かに、うちも野菜は作っとるんやが、大体は果物なんよ。」 「野菜は何を?。」 「ちょっと変わっとるんやがな・・。」 そういうと、老人は尋を温室の一角に案内した。中へ入ると、日差しが差し込んで、まるで夏のような陽気だった。 「これなんやがな。」 老人は、何やら細長い実を指差していった。 「獅子唐・・ですか?。」 「はは。確かにそう見えるがな。」 尋の言葉に、老人は別の実を指差して見せた。 「ほれ。あそこに真っ赤な実が成っとるやろ。あれや。」 尋はそれを指で摘まもうとした。すると、 「待ちや。素手で触ったら、エライことになるで。」 そういうと、男性は軍手をはめて、赤い身を一つ摘んだ。 「唐辛子には違い無いが、恐ろしゅう辛うてな。そやけど、どういう訳か、それがええんやと。ネットで人気じゃわい。」 尋が見せてもらった真っ赤な実は、紅色というよりは、寧ろ人間の血の色のようだった。そして、幾分ズングリとしていて、人を寄せ付けない雰囲気があった。 「アンタ、辛いもんは平気か?。」 「ええ、まあ。」 「試しに、ほれ。」 そういうと、老人は持っていたハサミで実の端っこを切ると、尋に差し出した。尋も軍手を借りて、実の切れ端を受け取ると口に運んで噛んでみた。 「少し甘いですね。」 「ああ、最初はな。」 そういうと、老人は不敵な笑みを浮かべた。次の瞬間、 「くっ。」 尋は全身の毛が逆立つぐらいの衝撃が走った。目に涙も浮かべかけたが、必死で堪えた。 「ほほう。こりゃ、大したもんやなあ。辛かろう?。」 「え、ええ。」 尋は掠れ声で咽せそうなのを我慢しながら答えた。そして、 「凄い辛さですが、色んなものに使えそうです。後味も爽やかで。」 妙な実との出会いに、尋は体が火照った。この刺激が、何かになりそうな気がした。 と、老人は尋の傍らに近づいて来て、 「アンタのことは、みんなから聞いたで。ワシも及ばずながら力にはなるで。」 そういうと、尋の目を見ながら右手を取って、固く握手をした。 「解りました。どれだけのことがやれるかは解りませんが、やってみます。」 そういうと、尋も世吉の目を見て手を握り返した。そして、帰りがけに、 「尋さん、これとこれ、持っていきないや。」 袋に入った先ほどの唐辛子と、獲れたての苺や柑橘類を手渡した。 「すみません。また来ます。」 「ああ。大人しゅうして、指示を待っとるで。」 そういうと、世吉はにこやかに手を振った。尋はそのまま近くの朝市まで足を伸ばして、食材の調達をした。新鮮な野菜と卵や肉類を購入すると、軽に積んであるクーラーボックスに入れて、そのまま役場まで向かった。まだ朝早かったので、役場が開くまで尋は車の中で待つことにした。尋は車中でついウトウトと眠ってしまったが、 「コンコン。」 と、窓硝子を叩く音がして目覚めた。 「こんなところで寝たらいけんよ。」 役場の女性が注意しに来た。 「あ、すいません。役場が開くのを待ってたものですから・・。」 尋がそういうと、女性は怪訝そうな顔で彼を見た。そして、女性が役場の鍵を開け、受付の電気を付けて、ようやく人を受け入れる態勢が出来た。それを確認すると尋は、 「あの、住所変更をお願いしたいんですが。」 と、さっきの女性に伝えた。 「住所変更ね。はい・・。」 そういうと、女性は何とも気怠そうに書類を取りにいった。すると、 「おはよう。」 「おはよう。」 と、役場の人達が次々に出勤して来た。尋は書類を待っている振りをしながら、彼らの様子を窺っていた。 「はい、書類ね。」 女性は尋の前に雑に書類とボールペンを置いた。尋はそれに丁寧に記入していった。すると、一番奥の机に座っている男性が尋に気付いたらしく、急に何処かに電話をかけ始めた。尋はゆっくりと書類に記入しつつ、他のパンフレット類も手に取りながら、参考にしている振りをした。程なくして、表に一台の車が止まったかと思うと、中から体格のいい男が三人下りてきて、玄関口からずかずかと入ってきた。そして、尋が座っている後ろを囲むように立つと、 「アンタ、尋さんか?。」 男の一人が低い声でたずねてきた。 「そうですが?。」 「ちょっと話があるんやがの。」 男がそういうと、 「すみませんが、ボクには無いです。話が。」 そういって、また書類の続きを書こうとした。しかし、 「いいから表に出ろ。」 男は尋の方を乱暴に掴んで立たせようとした。すると、尋は書いていたボールペンを中指と薬指の間に挟んで握り拳の間に突き立てると、 「ドンッ!。」 と、振り向きざまに男の溝落辺りに突き立てた。 「うっ。」 といって、男はその場に蹲った。 「心配ない。尖ってない方だ。人が書き物をしてる最中は、静かに待つもんですよ。」 そういうと、鋭い眼光で他の二人を睨み付け、そのまま書き物を続けた。さっきまで気怠そうにしていた受付の女性は、尋達の一連のやり取りを見て、凍りついたまま座っていた。そして、 「これでいいですか?。」 尋はそういうと、書類を女性の前にゆっくりと滑らせた。 「は、はい。結構です。」 それを聞くと、尋はゆっくりと立ち上がり、奥にいた男性を指で手招きして呼んだ。男性は、自身が電話で彼らを呼んだのがバレたのかと、呼ばれるがままに、恐る恐る尋に近づいて来た。 「あの、すいませんが、冷たい水をしこたま用意しておいて下さい。」 「はいっ。」 尋の言葉に、男性は直立不動で返事をした。 「兄さん、立てるか?。」 尋は蹲っている男を気遣って、他の二人に肩を貸すようにいった。 「さて、用事は済んだ。少しだけなら話を聞いてあげますよ。」 そういうと、尋はゆっくりと車の方へ向かった。その後を三人が付いて来て、 「テメエ!、さっきはよくもっ!。」 と、突然、尋に飛び付こうとした。すると、右を軸足にしながら、尋はサッと身を躱した。と、もう一人の男がやはり飛び掛かってきたが、今度は左を軸足にして、右足を差し出すと、男はその足に躓いて転んだ。その隙に、尋はさっき貰った唐辛子を袋から取り出すと、ギュッと握りつぶして、男達の目に向けて汁を飛ばした。 「うわーっ!。」 三人は水取(もんどり)打って、その場に七転八倒した。 「痛ててててっ!。」 その様子を中から見ていた男性に気付き、尋は指で、 「こっち。」 と合図をすると、男性はバケツに入った氷水を持って来た。男性は彼らの顔に氷水をかけて冷やしたが、暫くは目を開けることが出来なかった。 「話があるってことだったけど、これじゃあ話も出来ないですね。介抱してやって下さい。」 男性にそういうと、尋は自分の手を氷水で洗い流して、軽に乗って走り去った。 「それにしてもよく効く唐辛子だなあ。」 そういいながら、尋はヒリヒリする右手を開いたまま、左手だけでハンドルを握って運転を続けた。久しく忘れていた、このジンジンと来る感覚。静かな春を長閑な山並みで過ごそうと思ったのにと、尋は少し後悔していた。  途中、尋はどうしても手の痛みがたまらなくなって、川縁で車を止めた。そして、水際にしゃがむと、手を浸して冷やし続けた。数分で手は冷え切り、唐辛子の痛みも一気に退いた。 「ふう。まいったぜ。」 尋はそういうと、側にある大きな石に腰を下ろして、水面を眺めた。そして、役場でこっそり書いていたメモを取り出した。実はカウンターで書類を書きながら、何気に中にいた人間に様子を書き留めていたのだった。 「役場はみんな、グルか・・。で、電話一つであいつらが飛んでくる・・と。古風なやり口だ。となると、次に来るのは・・、」 野の花が咲き誇る風景を、もう少し眺めていたいと尋は思ったが、早々に系に乗り込むと、とある場所に向かった。 「確かこの辺だったな・・。」 尋はとある農家の一軒家の前に車を止めた。他の家々とは異なり、母屋や離れが軒を並べ、一際大きな家屋だった。差し詰め、総代でもつとめていそうな雰囲気だった。 「ん?、あの車・・。」 尋は玄関のすぐ脇に、さっき役場の前で見かけた車を発見した。 「ビンゴか・・。」 そういいながら、尋は臆すること無く玄関から入っていった。 「御免下さい。」 尋が玄関口でいうと、中から茂さんが現れた。そして、その後ろには、 「おや?。奇遇ですね。」 と、尋は先ほど役場で一悶着あった三人組みと出会った。目の周りは痛々しくも真っ赤に腫れていた。 「な、何の用や?。」 茂さんは警戒感剥き出しに尋に言葉を投げた。 「余所者のままでは気に障るかと思いましたので、住所変更して、あらためてご挨拶に伺いました。尋です。」 そういうと、尋は一礼した。 「んなもん、知っとるわい。この前会うたやろうが。」 「そうでしたね。」 相変わらずつっけんどうな対応にも、尋は淡々と応じた。 「ところで、そちらのお三人は?。」 「アンタにゃ関係なかろうが!。」 茂さんは、バツが悪そうにそっぽを向いた。しかし、三人組みは少々苛立っているようだった。すると、 「と、茂さんは仰ってますが、どうです?。続きをやりますか?。」 そういいながら、尋は前のめりになりながら鋭い眼光で三人を見上げた。三人は急に尻込みをして、首を小刻みに横に振った。すると、尋は靴を脱いで玄関に上がり込み、三人の真正面に立った。そして、 「じゃあ、さっきのお詫びもかねて、よかったら今度、食事にでも来て下さい。ボクは峠の食堂で賄いをやってます、尋といいます。」 そういいながら、三人と代わる代わる握手を交わした。そして、 「よろしければ、茂さんも。」 尋がそういうと、 「けっ。」 と、茂さんはけったくそ悪そうに返事をした。 「では、ボクはこれで。」 尋は再度、一礼すると引き上げていった。そして、系を発進させると、尋は店まで戻っていった。 「みんなには大人しくっていっておきながら、オレとしたことが・・。」 運転の途中、自戒の念を込めながら呟いた。店に着くと、尋は貰ってきた野菜や果物を下ろして、厨房に運んだ。 「よう。早かったんやなあ。」 店主が尋に挨拶した。 「あ、おはようございます。ちょっと用事がありましたので。」 そういいながら、尋は貰ってきた野菜を洗って下ごしらえを始めた。 「思ったより、動きは速いやろ?。」 店主は尋の傍らで作業を手伝いながら、そういった。 「何かありましたか?。」 尋は気を回してたずねた。 「ああ、来おったよ。茂さんが。さっきな。」 「そうでしたか。」 「ところで、そっちは何ともなかったんか?。」 店主は何かを予見していたかのようにたずねた。 「はい、実は・・、」 そういうと、尋は役場での出来事を簡単に話した。 「ははは。そうか!。そんなことがあったんか。ありゃ、茂さんの息子と甥っ子達じゃ。県大会でいわした柔道の猛者なんやがのう。そうかそうか。」 店主は愉快そうに繰り返し頷いた。 「それにしても、その後詫びにいくとは、ほんにアンタ、筋が通っとるねえ。アンタ、ちーっとも悪く無いのに。」 「いえ、痛い目に遭わせたのはこちらですから・・。」 店主は感心したが、尋は照れと、自身への戒めの気持ちでいっぱいだった。 「手荒なのが済むと、次は狡っ辛い連中のお出まし・・かな。」 野菜を洗いながら、店主は呟いた。尋は黙って聞いていた。そして、野菜のが一段落すると、今度は肉と魚の処理にかかった。それから二人は黙々と下ごしらえと調理を続けた。昼間に訪れる客は日増しに増えていった。中には評判を聞きつけて、県外からやって来る人も現れ始めた。昔と違って、どんな情報もスピーディーに拡散する世の中、美味しいものの話題は殊更だった。と、 「ん?、これは何や?。」 店主が袋の中から妙な赤い実を見つけると、そのまま口に放り込んだ。 「あ!。それは・・。」 尋は慌てて制止しようとしたが、時既に遅しだった。次の瞬間、 「んんん!。」 店主は水取打って蛇口から直接水を口の中に注いだ。そして、 「あー、美味いっ!。」 と、店主の言葉に、尋は思わず、 「美味いんかいっ!。」 と、心の中で呟いた。  二人は昼時の混雑に備えて、どんどんと料理の下ごしらえを続けた。その頃には店主の奥さんも手伝って、すっかり準備が出来上がった。すると、 「こんちわー。」 「いらっしゃい。」 程なく、次々と客が訪れてきた。たちまち席は一杯になり、店主と奥さんは注文を取って厨房に伝えたり、出来上がった料理を運んだりと、大忙しになった。尋は黙々と注文をこなしては、 「はいカツ丼いっちょう。」 「はい、焼き魚定食いっちょう。」 と、フルスピードで働いた。 「こんちわー。」 「いらっしゃい。」 「こんちわー。」 「いらっしゃい。」 一組二組と客が支払いを済ませて出ていったかと思うと、すぐに次の客がやって来た。そんな様子が、昼時が終わるまではずっと続いた。この分では、またヘトヘトになりながら、三人で遅い昼食になるのかと、それぞれが何となく思っている所に、 「こんにちわ。」 と、一人のスーツ姿の男性が現れた。見るからに、この辺りの者では無かった。 「いらっしゃい。」 「混んでますねえ。じゃあ、もう少し外で待ってます。」 そういうと、男性は外へ出ていった。それから結構な時間が経って、混み具合もようやく一段落したときに、 「こんにちは。いいですか?。」 と、先ほどの男性が再びやって来た。 「いらっしゃい。」 店主がそういうと、先ほどの男性の他に、二人のスーツ姿の男性が律儀にお辞儀をしながら店に入ってきた。店主が水を運んで注文を聞きにいくと、 「すみません。日替わり定食はありますか?。」 「はい。」 「じゃあ、それを三つお願いします。」 男性は丁寧に注文した。店主は厨房にいくと、 「日替わり三つ。」 と、尋に伝えた。程なくして定食が出来ると、店主は先ほどの三人のところまでそれを持っていった。彼らは待ちわびた様に出来上がった定食を見つめると、 「頂きます。」 と手を合わせて、品良く食べ始めた。 「うん、美味いです。」 「だな。」 そういいながら、三人は美味しそうに食事を続けた。店主は器を片付けたりしながら、時折外の様子を見にいった。そして、 「ん?、公用車か?。」 と、この辺りには似つかわしくない黒塗りの大きな車が止められてあるのを見た。 「あの人達か・・。」 そう思いながら店主は店に戻ると、真っ直ぐに厨房までいった。 「ご苦労さんやねえ。」 「いえ。」 尋は調理が落ち着いたのを見計らって、器洗いと自分達の食事の用意をしていた。 「今いてる人達で一段落やろうから、ワシらもボチボチ昼飯にするか。」 「はい。」 「ところで、今いてる人らなんやが、どうやら役人か何かみたいやのう・・。」 店主がそういうと、尋は作業の手を止めた。そして、厨房の小窓から、そっと客の様子を窺った。すると、尋の顔が一瞬で険しくなった。その様子に気付いた店主が、 「知った顔か?。」 と、小声でたずねた。 「ええ、まあ・・。」 そういっって、再び厨房に戻ろうとしたとき、スーツ姿の男性の一人が尋を見つけた。そして、茶碗を持ったまま頭を下げた。すると、尋も仕方なさそうに会釈をすると、厨房に戻っていった。そしてそのまま、裏口から出ていった。三人の客は食事を終えると、 「ご馳走様でした。美味しかったです。」 といって、如何にも満足した様子で支払いを済ませた。 「そりゃ良かったです。有り難う御座います。」 店主は笑顔で三人を見送った。そして、店主が店に戻ろうとしたとき、公用車の近くにある石の上で、尋が腰掛けているのが見えた。三人も尋に気付いたようで、尋に深々とお辞儀をしていた。しかし、尋の表情は相変わらず硬いままだった。 「ありゃ、訳ありかのう・・。」 店主は暫くその様子を眺めていた。 「ご無沙汰してます。先輩。」 「連絡でもあったんか?。」 「いえ、偶然ですよ。」 「偶然・・か。こんな辺鄙なところに。」 「美味い定食屋があるって聞いたので、部下と一緒に来たまでです。」 三人は極めて紳士的な様子だったが、尋の表情は緩むどころか、眉間の皺がいっそう深く刻まれた。 「まさか、こんな長閑なところにおられるなんて。いい所じゃないですか。」 「その長閑でいい所を、テメーらが沈めるんだろ。」 尋は鋭い眼光で三人を真っ直ぐに見た。スーツの男性は困ったように、 「沈めるだなんてそんな。我々は先輩がしてきたのと同じことを、ただ受け継いでやっているだけですよ。では。」 そういいながら、三人は一礼すると黒塗りの車に乗り込んで、駐車場を後にした。車が見えなくなったのを確認すると、尋はゆっくりと立ち上がって、店にも取ってきた。店先で店主が出迎えると、 「立ち入った話やが、あれか?。」 とだけたずねた。尋は黙って頷いた。すると店主は徐に小さな壷を取り出して、 「撒くか?。」 とたずねた。 「すいません。」 と低い声でいうと、尋は店主が差し出した塩を受け取って、玄関先に撒いた。 「さ、飯にしようや。」 「はい。」 店主は尋の背中を軽くポンと叩くと、二人は中へ入っていった。 戦々恐々だった店内はすっかり静まり返り、ようやく三人の遅い食事の時間になっていた。 「さ、食べましょ。」 奥さんが三人分の食事を店内に運んできた。 「いただきます。」 手を合わせると、三人は食べ始めた。魚の煮付けやら野菜の炊いたのをおかずに、三人は黙々と食べた。そして、食事が一段落すると、 「聞くのも何なんやが、あれがラスボスっちゅうやつか?。」 店主が尋にたずねた。 「いえ。彼は仕えてるだけです。」 尋は湯吞みを片手に答えた。 「ワシは他所もんやで、詳しゅうは聞かなんだが、茂さんが来る度に、役場のもんを伴うてたんやが、彼らは町議のいうなりやし、で、町議は町長のいうなりや。ま、そないな連中もスーツぐらいは着おるが、垢抜けはせんわな。そやけど、都会から来たもんは違う。今日みたいな連中は、パリッとしとるでな。そないなもんが、最近うろうろしとるのは、何と無う知っとったんやがの。」 それを聞いて、尋は少し躊躇ったが、 「彼らは官僚です。恐らく、町長と懇意にしてる代議士にいわれて動いてるんでしょう。」 そういうと、尋は眉間に皺を寄せて黙った。 「そうかー。そいつは、有り勝ちな話やが、大がかりやな・・。」 店主も、少し難しい顔をした。しかし、 「ま、昔はな、代議士も役人も、そしてワシらのような・・といっても、かなり前の話やが、いわば一蓮托生じゃった。不文律っちゅうか、一つの目的意識で緩やかで結ばれつつ、それぞれが役割分担をして仕事をしたもんよ。じゃが、今は時代が変わったちゅうか、誰が頭をはっとるんか解りゃせんな・・。」 そういいながら、店主が茶を飲むと、 「頭と尻尾は、挿げ替えです。真ん中で動く連中が、上手い具合にやりながら、時として暴走する、そんなところです。」 そう、尋が答えた。 「尋さん、アンタも其処に居ったんか?。」 店主は率直にたずねた。 「ええ。今日来た連中と、同じ組織で働いてました。」 「よかったら、少し聞かせてはくれんか?。」 店主は無理強いはしなかった。 「かつて、建設に沸く時代がありました。列島改造とかいう。そんな時代に、ワタシも入省しました。国からの号令がかかると、途端に業者が蠢き出します。事業をものにしようと、庁舎に日参する連中が後を絶たなかった。直接代議士に会うのがマズいとなって、間に官僚が入って中を繋ぐ割合が増えてきました。そしていつしか、中間組織だったはずが、やがて肥大化していきました。」 店主が途中で、 「そりゃ、頭が代わるからか?。」 と、たずねた。 「ええ。我々は血の入替えと呼んでましたが、選挙の度に、少しずつ顔ぶれが変わっていく。そして、権勢を誇っていた者も、派閥争いに敗れて去っていく。その繰り返しでした。しかし、中間組織は盤石です。頭が代わっても、日参に来る業者連中の窓口である立場は変わらなかった。直接報酬を貰うことは禁じられてはいましたが、それは建前で、抜け道はいくらでもありました。」 「それで肥えて、ぽしゃってったんか?。」 「いえ。そういうのは、ごく僅かな、出来の悪い連中だけでした。彼らには、一つの自負があります。この国を構築しているのは我々だという、そういう自負です。権力闘争や、金銭欲や物欲、そんなものでは換えられない、頭脳集団としての宿命のようなものを感じている連中です。その意識が、彼らを突き動かす原動力となって働かせている。代議士の権限も、日参する業者の手土産も、手段の一つぐらいにしか考えてません。」 その話を聞き入ってた店主は、 「ほー。権力も金もいらん、そやけど国造りは我ががやっちょるっちゅーことか・・。」 そういって、唸った。 「ええ。頭脳を鍛えられた集団は、必ず中長期的なスパンで物事を考えるようになります。例えすぐに実現は出来なくとも、長い役人人生の中で、少しでも自己実現が出来れば、それでいいと。しかし、中にはやはり、どうしても功を焦るというか、そういう連中も出て来ます。さっきの手段を使って、仲間を出し抜いて上り詰めようとする連中が・・。」 湯吞みを握る手に少し力が籠もったのを、店主は見逃さなかった。 「それをしたのが、あいつらっちゅー訳か・・。」 そういうと、店主は急に優しい顔になって、 「なあ、尋さん。恐らくアンタは、そんな闘争には目もくれず、愚直に国造りとやらをしとったんやろうなあ。そやけど、なまじ、アンタが使えるもんやで、邪魔に思った連中が裏で絵でも描いて、体よく追い出したんやろう。アンタのような人間が馴染まんかったのは、そりゃ、ものの道理じゃよ。ほんに、よう来てくれた。」 そういいながら、尋の肩をポンと叩いた。俯き加減に話していた尋だったが、店主の言葉に、次第に穏やかな顔になっていった。 「まあ、負け戦になるかも知れんが、ここは一矢報いるのに、ええ機会と場所なんかも知れんなあ。それまでの間、英気を養って、で、いっちょう挑むか!。」 店主は気合いを入れるかの様に立ち上がった。 「ええ。」 尋も湯吞みの茶を飲み干して、力の籠もった返事を返した。  夜の準備までは暫く間があった。尋は店の傷んだ箇所を修理するか、何も無い時は部屋で読書をしていた。しかし今日は、店の裏に置かれていた古びた自転車を持ち出して、最低限動く程度に手を入れると、それにまたがって出かけた。 「やっぱ機動力は、この方があるなあ。」 そういうと、尋は山間の道を疾走した。木漏れ日が尋の行く先々に降り注ぎ、火照った体を風が冷ましてくれた。そして、時折尋は自転車を止めて、両手の人差し指と親指で長方形を作っては、その中に遠くの景色を収めてデッサンでもするかのような仕草をした。しかし、画材は一切無く、小さな鉛筆とメモ帳に数字の羅列を書いていった。それが終わると、また次の場所へ移動して、同じ作業をこまめに続けた。そんな風に二時間ほどかけて、尋は谷間の箇所を全て回ると、小川の辺で一休みした。大きな岩に腰掛けて、空を眺めた。 「のんびりしてるなあ、此処は。」 尋は、こんな長閑な風景が何故水の底に飲み込まれてしまわなければならないのか、不思議でならなかった。人間の暮らしというのは、かつては自然と溶け込むように共存していただろう。それが何時しから、征服型の文明が入り込んできて、自然をどんどん改変してしまった。その結果、若干の快適さと引き換えに、多大な傷跡を自然の大地に刻んでしまっていた。しかし、そのような行為を、尋は特に否定するでも無く、人間の営みとは、そういうものだとも考えていた。厄介なのは、人の思惑、ただそれだけだと。 「こんにちは。あのお、尋さんですよね?。」 尋が物思いに耽っていると、誰かが声をかけてきた。 「はい。そうです。」 「あのお、ちょくちょく食堂で食事をいただいてます。いつも厨房に居られて、ご存じ無いとは思いますが・・。」 「あー、はい。覚えてます。」 尋は調理の最中も、絶えず客の入りをチェックして、料理のペースを考えていたので、近所からやって来る人達は、一通り覚えていた。 「ワタシ、弦(げん)といいます。あ、お話、いいですか?。」 弦さんは、ごく控えめな性格だった。 「勿論です。どうぞ。」 「すいません。ワタシも此処が何となく好きで、昔から通ってたんですが、何時の頃からか、とある農家の女性と親しくなりまして、数年前に婿養子に入りまして。」 「そうですか。長閑でいい所ですもんね。」 「ええ。以前は都会にいまして。といっても、初めからでは無く、別の田舎から出て来て、そのまま就職したんですが、何か会社勤めというのが性に合わなくてね・・。」 「あのお、どのような会社に?。」 「自然食品を売る会社です。どっか他所の国で作られた商品を、産地も解らないまま適当に銘打って、健康にいいとアピールするような、そんな会社でした。今から思えば、胡散臭い所ですけどね。」 尋は彼が何か、凄く話したそうだったのを悟って、敢えて耳を傾けるような返事をした。案の定、彼は身の上を語り始めた。 「扱っている商品に信念のようなものは持てなかったんですが、生活のためというか、仕事は一生懸命やりました。業績とかノルマに追い立てられてたのもあったんですけどね。初めは四苦八苦して、売れない度に上司から叱責されて。でも、何とか頑張ってみて、少しずつ売れるようになって、慣れてはいきました。」 合間に、尋は頷いて彼の話を聞いた。 「でも、そうなると、今度は僕のことを妬む連中が出て来て、初めは出勤したら必要な書類や物品が無くなる程度だったんですが、そのうち、得意先が取られたりとか、どんどんエスカレートしていっちゃって。で、いっても仕方なかったんですが、上司に相談したら、その人も結局は連中の仲間だったようで、お前には能力が無いから辞めろって。」 彼は過去のこととして淡々とは語っていたが、その目には何処かやり切れないものがあった。 「まあ、そんな風に評価されてたのかと、正直がっかりはしましたけど、でも、それはどうでもよかったんです。ただ、折角学校まで出させてもらって、就職も出来たのに、そんなことで辞めてしまう自分って、一体何だったのかなって。親に申し訳無い気持ちより、自分の存在価値みたいなものを疑うようになっちゃって・・。」 「そうでしたか・・。」 尋にも同様の、いや、誰かに語るには想像を絶するような過去があったが、人と人との間に起きる摩擦のような潤滑油が燻って煙を吐くような違和感は、どこも同じなのだなと感じていた。彼は続けた。 「で、会社を辞めようと思う少し前から、小さなデジカメで田舎の風景を撮影するのが、何か気に入りましてね。で、そんなことをするうちに、此処を知りました。全く開けて無くて、鄙びたいい所だなって。秘湯以外、本当に何にも無い所ですが、誰も来ないのが逆に嬉しかったというか。で、足繁く通ううちに、先ほどお話しした、とある農家の女性と結婚することになりまして。で、そこは娘さんが一人っ子だったので、僕が体よく婿に入ることになりました。」  尋は男性が夢中で話す様子に少し圧倒されながらも、余程の思いがあったんだなと思い、引き続き話を聞いた。 「でも、外からは田舎暮らしがいいと思って飛び込んではみたものの、実際は、想像以上でしたね。余所者を受け付けてくれなくて。来て丸二年ほどは、顔が合っても会釈すらしてくれませんでした。閉鎖的というのは、本当だなあと感じましたね。なので、こちらから何かをアピールするのはやめて、折角のんびり暮らせる所に来たんだから、無理に人付き合いなんかせずに、日々を淡々と暮らそうってなりましたね。そうしたら、少しずつ、本当に少しずつですけど、何かの寄り合いとか祭りの際に、声をかけてもらえるようになってきて。で、あるとき、神輿の担ぎ手をしないかっていわれたときは、ボクもようやく、此処の人間になれたのかなって、涙が出ましたよ。都会には都会の、田舎には田舎の人間関係というか、気苦労はある。でも、此処の人達は、ただ単に素朴なだけで、外から来る人間とどうやって接したらいいか解らなかっただけなんですね。今は、そう思えるようになりました。」 そういって、男性はしみじみとした顔を見せた。彼の暮らしが、いや、此処の暮らしの中に彼がいる、そういう情緒が風景と一体となって、尋には清々しく見えた。 「でも・・ね、そうやって、ようやく落ち着いて、みんなと暮らしていけると思ってた矢先に、あれでしょ。」 そういって、彼は建設途中の橋脚を指差した。 「あれが無ければ、ボクもこの地で骨を埋める覚悟はしてたんですけどね。それが、何とも妙な形で、此処の人達を落胆させるような、そんな風になっちゃいましたからね・・。さっきもいったように、純朴な人達ですからね。役場の人は役人なんかが来て、丸め込まれちゃったって感じでしたねえ・・。」 それを聞いて、尋はこの男性がまだダム建設反対の狼煙が上がろうとしているのを知らないんだと解った。彼を差し置いて、自身がそのことについて事情を知っていたり、ましてや中心になって動き出そうとしていることをいわないのが、果たしていいことなのかと、少し迷った。すると、 「でも、尋さん。アナタは凄いですよね。まだ来て日が浅いというのに、あっという間に此処の人達を料理の虜にしてしまった。無論、ボクもそうですけど。あのオヤジさんの人柄もあるけど、やっぱり、腕があるというか、それなりの才覚がある人は違うなって、正直思いましたよ。」 「才覚だなんて、そんな。」 尋は謙遜したが、男性は嬉しそうに、 「いや、本当に、そう感じます。ボクみたいに思いを実現しようとしても、なかなか上手くいかない者もいれば、アナタのように、そこにいるだけで、何か期待感のようなものを抱かせる者もいる。そういう人が此処に来てくれたことが、何か嬉しくて。」 そういいながら尋を見た。しかし、あまりに担ぎ上げられるのもどうかと思い、 「いえ、ワタシなんか。ただふらっとやって来て、取り敢えずは賄いの口があったので、居らせてもらってるだけです。でも、此処の長閑な雰囲気が、ワタシも気に入りました。出来れば暫くは暮らしたいとは思うんですが・・。」 そう答えながら、彼がダムの話を切り出すのを待った。 「あの、ところで、つかぬ事を聞きますが、尋さんは、ダムのことを、何か聞いておられますか?。」 「ええ。一応。」 「そうでしたか。此処の有力者が、役場の人間と結託して、有無をいわさず話を進めてるってのは知ってましたが、ボクなんかが何かいったところで、どうにもならないですよねえ・・。」 男性は、弱気になりながら、空を見上げて話すのをやめた。 「あの、」 「はい?。」 尋は彼の何かが変わるべきだと感じ、話し始めた。 「此処の人達は、実はダムの建設には反対のようです。期せずして、ワタシはそのことを知るようになり、その思いが殊の外強いというのも知りました。ただ、口に出さなかっただけのようです。」 すると、男性は尋が何故そのようなことを知っているのかと、不思議そうな顔をした。 「話せば長いですが、ふとした切っ掛けで、此処の人達が役場の人達と折り合いが悪いというのを知り、そして、それと同じ思いを抱いているという声が幾つもあるのが解りました。アナタより新参者なボクが、そんな立ち入った事情まで知ってしまって、すいません。」 尋は正直なところを伝えて、男性に頭を下げた。すると、 「ほら。ね。やっぱりアナタには、人に期待を抱かせる何かがあるんですよ。ボクだってそうです。何か、ついあなたと話したくなって。そうでしたか。此処の人達も、ボクに聞かせるよりも、尋さんに話した方が、何かが起こると思ったんですよ。きっと。そうでしたか。やっぱりなあ。」 男性は、自身の不甲斐なさよりも、何か逞しそうな尋に、憧れのような感慨を持っていた。  控えめだけど、自身のやりたいことを実現するために真っ直ぐな人なんだなと、尋は彼の姿勢というか、スタンスに共感を持った。 「今度また、お店にうかがいます。」 「はい、是非。」 男性は何度も会釈をして、その場を去った。 「さて、オレもそろそろいくか。」 そういうと、尋は再び自転車に乗って、帰路に就いた。 「様々な人の、様々な想い・・。」 そんな風に考えながら、尋は心地良い風を浴びながら、自転車を走らせた。しかし、どうしても彼のことが思い出された。 「折角いい場所を見つけたのに・・なあ。」 尋の目算では、やはりこの手の事業は住人の意向を無視して推し進められるのが普通であると考えていた。反対運動を展開する住民達を、どのような手練手管で黙らせるか、どのような出方をすれば、人々は引き下がらざるを得ないか。そのような神経戦を、尋は千度見て来た。一人の信念が岩をも貫く。そんなのは、単に絵空事であり、現実は周囲から兵糧攻めに遭わされることで、人は難なく折れる。そうやって、事業を進めることが、かつて尋の所属していた組織では唯一の正義であった。 「人の暮らしを壊して回って、それの一体、何処が正義なんだ!。」 尋は結果在りきの開発事業の前に、数多の人々の生活が犠牲になっていることを、そして、その行為の旗頭として自身が先導すれば、拗れていた協議もすぐに推し進められることを知っていた。それだけ、尋のやり方には良くも悪くも説得力が伴っていた。自分には、何かを変革させる、そんな能力のようなものが備わっているのかも知れない。しかしそれは、時として組織の大いなる武器としてしか用いられていないことを、尋は思い知った。彼が入省して、破竹の勢いで開発担当を担っていたときであった。 「あ、キミか?。尋君というのは?。」 「はい。今度、開発担当の任に預かります、尋です。宜しくお願いします。」 「ああ、堅苦しいのは抜きにして、ささ、こっちへ。」 尋はとある宴席にに呼ばれていた。背広姿の議員達が、酒の勢いもあって、芸者相手に大いに羽目を外していた。 「ところでキミは、こっちもいける口か?。」 といって、男は尋の杯に酒を注ぎながら、右手で小指を立てた。 「いえ、そっちはめっぽう・・。」 「何だ、いい男が!。ワシが世話してやるから、今夜は飲め。ほれ。」 有無をいわさず、男は尋の杯にさらに注いだ。 「それはそうと、キミの上司から、今回の事業に関しては、抜群の男がいると聞いてな。で、キミを紹介してくれた。経歴も見させてもらった。」 男は杯を置くと、真顔で尋を見つめた。 「なかなかの業績じゃ無いか。この東北の工事なんぞは、随分と揉めたろう?。」 「いえ、そういうのを収めるのが仕事ですから・・。」 「そうか。あそこは住民が頑固で、えらい難航しとったって別の議員からも聞いとったんやが、どうやって収めたんや?。これか?。」 そういって、男は右手の人差し指と親指を丸めて輪を作って見せた。 「いえ、我々にそのような資金はありません。予算が下りれば、然るべき業者に分配して、着工するのみですから。」 「ほほー。となると、キミの手腕ってことやな。」 尋の謙遜した姿勢とは逆に、男はギラギラした目で、尋に興味の眼差しを注いだ。 「じゃあ聞こう。キミは今、どうしても折り合いの付かない相手と対峙しているとする。普通なら、話は平行線で終わりだ。しかし、これは命令で、どうしてもキミの意を飲ませなければならない。さて、キミなら、どうするね?。」 尋は間髪入れずに答えた。 「相手の話を聞きます。そして、」 「そして?。」 「話が反する部分の意向と、意志の強さを確かめます。」 「ほう。で?。」 「もし議論が対立しているならば、それは互いの理が五部の場合です。そこには正誤はありません。そのときの勢いが勝った者が、相対的に正の側に立つだけです。しかし、相手に退かせるのみであるなら、意志の強さを弱めさせればいい。信念、憎悪、執着。言葉は何でもいい。その凝り固まっている部分を突き崩せば、人は必ず落ちます。」 そういうと、尋は涼しい目をして男を見た。 「ふふ。キミはなかなか、面白い男だな。どうだ。もしキミがその気なら、ワシと組んで天下を取らんか?。」 男は尋をスカウトしようとした。 「いえ、ワタシには今の仕事がありますから。ご要望に応えるべく、善処します。」 そういうと、尋はお辞儀をした。 「ははは。分も弁えておるか。大した役者よのう。まあいい。何か困ったことがあったら、いつでも連絡してきなさい。」 そういうと、男は尋に名刺を渡した。建設大臣と書かれたその名刺を両手で受け取ると、尋はそれをゆっくりと胸ポケットに仕舞った。 「せーんせ。何をこんな所でコソコソしてるの?。」 「あー、すまんかったなあ。ほれ、ワシに酌でもしてくれ。」 そういうと、男は上機嫌を装って、芸者と戯れた。尋はこれ幸いと、その場を離れると襖を開けて、廊下に出た。  廊下に出ると、中庭が綺礼に手入れされてあった。石灯籠がポンと無造作に置かれ、月の明かりが木々を照らしていた。 「先輩、凄いじゃ無いですか!。あの方に魅入られるなんて。」 同じ省の後輩が廊下で佇む尋に声をかけた。 「ん?。あの方って?。」 「大臣ですよ!。建設族のトップです。もう鬼に金棒じゃないですか。」 「そうなのか?。」 「恐らく、次かその次の選挙で与党が勝てば、あの人が総理ですよ。」 「ふーん、そうなんだ。」 尋の態度に、後輩は業を煮やした。 「先輩、一体、何のために入省したんですか?。ホント、政治には疎いなあ。」 「別に疎くったって、頭はいつも入れ替わる。その度に右往左往する無駄を、如何に省くか。あとは効率だけ考えて給料貰ってたら、それでいいんじゃ無いか?。」 そういうと、尋は先ほどの名刺を後輩に渡し、 「やるよ。それ。」 そういって、尋は一足先に帰ろうとした。すると、 「あの・・、」 と、一人の芸者が尋を追ってきた。 「何か?。」 「先生が、アナタを探しておいでですが。」 「ボクはこの後も仕事があるので、これで失礼します。」 そういって、半ば強引に宴席を中座した。後輩もあきれ顔でその様子を見ていたが、 「じゃあ、お車の所まで案内します。」 といって、彼女は尋に着いてきた。 「あ、ボクは電車で戻りますから。」 尋はそういって、彼女の申し出も断ろうとしたが、何故か彼女は着いてきた。 「アナタみたいな人、初めて。普通なら、あの先生に取り入ろうとして列が絶えないのに、アナタは先生からお声がけされて。なのに、袖にするなんて、よっぽどの馬鹿か、大した度胸のどちらかよ。」 初対面にも関わらず、ズケズケというなあと、尋もあまりいい気はしなかったが、何かをいい返そうとして彼女を見た時、 「・・・。」 尋は言葉に詰まった。和服姿の美しい佇まい、向こう気が強そうで、しかし、それでいて何処となく可愛げのある、そんな表情に尋は見入った。 「アタシの顔に何か着いてる?。」 彼女がそう尋ねると、尋も何か話さねばと思い、 「キミ、名前は?。」 とたずねた。すると、 「そういうときは、ご自分から名乗るものよ。でも、さっき尋さんって聞いちゃった。アタシは楓。よろしくね。」 尋は冷静を装いつつ、 「カエデさん・・ね。今日はつまらない会だと思ってたけど、来て良かったよ。キミにも会えたし。じゃ。」 そういうと、尋は下足番から靴を受け取り、お茶屋を後にした。  翌日、尋は一番に官舎に入ると仕事をこなした。午前のうちにデスクワークは全て済ませ、午後は出張に向かった。それには理由があった。あの日以来、例の大臣秘書官が、ことあるごとに尋に連絡を取ってきた。仕事の打ち合わせが名目であったが、呼ばれていくと、大抵は御茶屋遊びか、仕事には全く関係の無い誘いばかりだったからだ。そのうち、尋は仕事に支障を来すと考え、出来るだけ自身のスケジュールを、彼と会わなくて済むように調整した。 「移動中は捕まらなくて済む。気楽なもんだよ・・。」 尋がくつろげる場所は、電話の無い列車の中だけだった。当時は携帯もまだ無かった。余程の緊急時に、車掌に連絡が来る場合があったが、かつて一度、尋は急に車内放送で呼び出され、赤面したことがあった。なので、以降は便名を明かさず、ローカル線の移動で彼からの連絡をかわした。そして今日も、駅弁とお茶を買い込んで、一人静かに昼食を楽しもうとしていたそのとき、 「あの、尋さん?。」 と、何とも品のある白い洋装の女性が声をかけてきた。尋は驚いて、 「はい、そうですが。」 「アタシ。」 彼女はそういって、尋を見つめて微笑んだ。首を傾げた様子を見て、尋は急に思い出した。 「楓・・・さん?。でも、着物じゃ無いし・・、」 「あれは仕事着よ。普段は、これ。」 そういって、白い服をアピールした。 「お隣、いい?。」 「あ、はい。どうぞ。」 尋は食べようとしていた弁当の包み紙を再び被せて、仕舞おうとした。 「お食事は、続けて。アタシも食べよっかな。」 そういうと、彼女は丁度通りかかった売り子から、尋と同じ弁当と缶ビールを買った。 「お仕事?、よね。平日だし。」 「はい。楓さんは?。」 「アタシはお休み。なので、昼間っから失礼しまーす。」 そういうと、尋はお茶で、彼女は缶ビールで乾杯した。 「ところで、例の先生、あれからアナタのことばっかりいってたわ。連絡がつかないって。」 「はは。そりゃ、そうでしょ。」 「どうして?。」 「ボクが避けてるから。」 「あらら。」 二人は可哀想な大臣の顔を思い出しつつ、顔を見合わせて笑った。 「それにしても不思議よねえ。あの先生、アタシでも解るぐらいに、天下を取る人相をしてるし、それをアテにして来る人達で溢れてるのに、アナタったら、全く気にも留めないのね。」 そういいながら、彼女は尋を見つめた。尋はご飯を頬張りながら、 「全くって訳じゃ無いけど、仕事の話はちゃんと聞いて実行してるよ。それが役目だし。」 「でも、それだけでしょ?。」 「うん。」 尋はひたすら弁当を食べ続けた。 「アナタ、本当に欲が無いわねえ。この世界で出世するなら、それじゃあ駄目よ。」 彼女は尋の今後を見透かしたかのようにいった。 「欲・・かあ。別に無いわけじゃないよ。仕事はちゃんとしてるし。」 「それだと、ある程度までしか昇れない。さらに上にいくには、どうしても牽引者の力が必要になる。特に、アナタの要るような組織ではね。」 尋は、自身が所属する省の様相や構造を、彼なりには分析していた。そして、その中にあって、どのような立ち振る舞いが最も効率的かを、自分なりに描いてはいた。 「力をアテにすれば、代償が伴う。そうすると、自由度はどんどん下がっていく。だったら、何処にも寄らず、能力を発揮してた方がいいな。」 そういって、尋はお茶を飲んだ。 「アナタが無能ならね。定年までそこそこのポジションでお気楽に過ごせるけど、周りが放っておかないわ。アナタを。」 「どうしてそんなことが解るの?。」 尋は先々の状況を瞬時に答える彼女にさらなる興味が湧いた。 「アナタが反骨的だからよ。なのに、実際は真逆な立場にいる。そんな両刀、普通なら使いこなせないわ。でも、アナタは淡々とやってのけている。それが証拠に、アナタの言動は、いちいち有力者の目に止まるでしょ?。海千山千の彼らは、少々の能力じゃ飽き足りないのよ。だから、どこか危険な匂いのする人物を求める。」 「キミは若そうなのに、よくそんなことが解るね。」 「あら、若いわよ。でも、毎夜毎夜、あんな人達の傍らで聞くとは無しに話を聞いて、その目つきを見てたら、自ずと解ってくることもあるのよ。」 「ふーん、そういうもんかね・・。」 尋は相変わらず、錚々たる人物の自身への評価に対して、頓着が無い返事をした。すると、 「ははーん、なるほどね。」 彼女は何かを理解したようだった。 「何が、なるほどなの?。」 「アナタに在って、アナタに無いものよ。」 「それって、何と何?。」 二人は瞬時に二律背反な論の世界に入っていった。 「能力と策略。アナタは優に前者の持ち主。だから大いに人目を惹く。でも、アナタの腹には何も無い。よって、策を弄することも無いから、お歴々は困窮する。そんな人間、滅多に見ないから。」 淡々と述べられた彼女の言葉は、尋の胸に清々しく響いた。言い得て妙だと。 「多分、そうなんだろうね。自分のことは、自分ではよく分からないから。」 いい方こそ素気なかったが、尋は彼女の感性を高く評価した。 「ところで、」 「何?。」 「楓さん、いき先は何処まで?。」 「次の次よ。其処の温泉街。」 「温泉旅行かあ。」 尋がそういうと、 「違うわよ。其処が実家なの。」 「へー。そうなんだ!。」 と、尋は驚いた。 「で、アナタは?。」 「ボクは、そのもう一つ先。」 「お仕事は、日帰り?。」 「うーん、多分、遅くなるから、泊まりかな。」 「だったら、仕事が終わったら、うちへ来なさいよ。小さい温泉宿だけど。」 「わー!、そいつは是非!。」 尋は都会から離れて羽を伸ばしがてら、ゆっくりするだけの予定だったが、楽しみが一つ増えたような、そんな期待感で満ち溢れた。その後、二人は車内で歓談したが、程なく温泉街の駅に着くと、 「じゃあ、後で。旅館の名はアタシと同じ楓だから。」 そういって、彼女はにこやかに下車していった。そして、発車するまで待っていて、ご丁寧に手まで振ってくれた。 「さっと済ませて、さっと戻るかあ。」 尋はこの後の、やや気が重い仕事を片付けるべく、気合いを入れた。そして、次の駅で降りた時、 「尋さんですね?。お待ちしておりました。」 と、田舎には似つかわしくない、一台の黒塗りの車が尋を出迎えた。 「私、役場の者です。さ、どうぞ。」 尋は誘われるままに、車に乗った。しかし、車は役場には向かわず、とある大きな屋敷の辺りで止まった。 「あの、此処、役場じゃ・・、」 尋がそういうと、大きな門が開き、車は屋敷内へ進んでいった。そして、巨大な玄関の前にはスーツ姿の男性が三人立っていて、尋を出迎えた。 「ご苦労様です。」 「こんにちは。尋です。」 ドスの利いた低い声の出迎えが、ただならぬ展開を容易に予想させた。そして、尋は玄関ホールから奥へ通された。誘われるがままに、尋はドアの前までいき、ノックをすると、 「失礼します。」 といって、ドアを開けた。其処は、大きな応接室だった。正面には屋敷の主らしき人物が、そして、左には役場の者らしき人物が座って、尋を出迎えた。 「ああ、アナタが尋さんですか。手前、主(あるじ)です。こちらが、副町長です。」 「尋です。」 両者は挨拶を交わした。本来ならば、役場にいって町長と直接話をする予定であった。しかし、尋は特に気には留めていなかった。役割上、この手の出来事はよくあったからだった。 「早速だが、尋さん。アンタ、町長に会いに来たんじゃろ?。」 主は尋にたずねた。 「すみません。用向きつきましては、公的なことなので、お答え出来ません。」 「はは。杓子定規とはこのことやのう。まあ、ええ。こっちの副町長から話は聞いとるよ。で、この上(上)にある治水工事の件で来たんやろうが、あれは町長が勝手に進めとるもんやで、此処いらの住民は、みな反対しとるんよ。そやから、次の選挙じゃ、町長は信を得られずに落ちる。そうなったら、工事の件もご破算や。のう!。」 主は副町長を担ぎ出して、彼らの意向が盤石であるかのようにアピールした。しかし、尋は平然と、 「町長さんは、確か公約で治水工事の推進を謳って、選挙に当選されてます。従って、選挙の結果と工事の推進は、民意の反映であり、その実現こそが民意の悲願です。そして、それが民主主義です。」 二人を見据えて答えた。しかし、 「それは理屈や。尋さん。アンタは何も解っとらん。ワシは、此処に長いこと住んで、みなの気持ちは、よう分かっちょる。そして、その気持ちを汲んでるのが、この副町長さんや。悪いことはいわん。町長との話し合いは適当に遇って、とっとと帰り!。」 主は尋の話を意に介さず、持論を続けた。すると、 「解っておられないのは、アナタです。理詰めで解りづらいというのなら、平たくいいます。この国は、法の定めるところである選挙で勝った者の意見が、民意の代弁者として反映・実行される、そういう国です。もし、それに意義を唱えるのであれば、然るべき方法でちゃんと反論すべきです。こういう形では無く。では、失礼します。」 そういって、尋は平行線の無駄話を中座すべく席を立った。すると、 「おい、若造!。話はまだ終わっとらんぞ!。」 と、主は憤慨した。と、同時に、スーツ姿の三人が部屋になだれ込んできた。副町長は狼狽えながら、 「おい、騒動は御免だぞ。」 と、戸惑った様子で主にいった。 「やかましいわい!。この無礼者が!。」 主がそういうと、三人が一斉に尋に掴みかかろうとした。しかし、 「ドタッ!。」 「ドタッ!。」 と、尋の両腕を掴もうとした二人の手首を返すと、尋は一瞬で二人を投げた。 「野郎っ!。」 あとの一人が尋の胸ぐらを掴んだとき、何か小さなものが尋の胸ポケットから落ちた。 「ん?。」 主はそれを拾った。そしてそれを繁々と眺めると、 「待て!。」 と、突然声を上げた。尋は掴みかかった男の手首を持って、今にも投げ飛ばす寸前だった。 「彼を、その人を離すんだ!。」 主は男に命令した。すると男は、 「失礼しました。」 というと、サッと手を離すと、転がっている二人を起こして、三人で部屋を出た。尋も何が起きたのか解らず、不思議だった。すると、主は手にしていた紙を応接室のテーブルに置いて、 「アナタが大臣先生が差し向けたお役人だとは、露も知りませんでした。どうぞ、お許し下さい。」 といって、深々と頭を下げた。尋がふとテーブルの上に目を遣ると、其処には先日の宴席で尋が貰った名刺が置かれていた。あのとき、受け取ったのは一枚だけで、それを後輩にあげたと思っていたのが、実は二枚重ねになっていたのだった。 「あの、尋さん、出来ましたら、今日のことは先生にはご内密に・・。」 そういうと、主はスーツ姿の男に命じて、何かを持って来させた。そして、 「これは、つまらないものですが、どうかお納めを。」 といって、分厚い封筒をを手渡そうとした。尋は瞬時に、起きている状況を把握すると、 「それならば、一番いい方法があります。」 と、主にいった。 「はい?。」 「ボクは、最初から此処には来なかった。アナタとお会いもしませんでした。ね。」 そういうと、主の顔を見て微笑んだ。 「ああ!。」 合点のいった主は急に笑顔になった。それでも、封筒を渡そうとしたので、尋はそれを拒んで、 「此処に来なかったのだから、これが此処にあってもおかしいですね。」 そういうと、尋はテーブルの上に置かれた名刺をサッと取ると、胸ポケットに仕舞った。そして、一礼すると、尋は部屋を出ていった。すると、主が見送りに出てきて、 「いやあ、見事な気っ風じゃ!。ワシゃ、惚れた!。ワシは熊いうもんです。遠回りさせてしもうたのは、こちらの落ち度ですんで、どうか、送らせて下さい。」 と、役場までの送迎を申し出た。 「はい。すみません。では、お願いします。」 尋はそういうと、再び黒塗りの車に乗った。そして、横には副町長が、運転席には最後に尋の胸ぐらを掴んだ男が座った。 「先ほどは、どうもすみませんでした。」 男が詫びると、 「いえ、こちらこそ、お二人をあんな風にしちゃって、どうもすみませんでした。」 と、尋も詫びた。すると、主が車の窓をコンコンと叩くので、開けると、 「また、近くに来たら寄って下さい。今度こそ、本当に歓迎させてもらいますんで。」 といいながら、尋と固く握手をした。そして、車が発進してしばらくすると、 「はあー。一時はどうなるかと思ったが、熊のおやっさんが、あないに喜ぶとはのう・・。」 と、先ほどの経緯を思い出しながら、副町長が腕組みをしつつ唸った。  やがて黒塗りの車は、本来の目的地であった役場の庁舎に着いた。 「あ、尋さんですか?。町長です。」 と、膨よかな男性が、尋を出迎えた。 「この度は、遠路、ご苦労様でした。ささ、どうぞこちらへ。」 町長は愛想良く、尋を執務室まで誘った。そして、副町長も一緒に入ろうとしたとき、 「バタン!。」 と、町長は勢い良くドアを閉めた。そして、 「あらためまして。町長です。」 そういうと、男性は尋に名刺を手渡した。 「尋です。よろしくお願いします。」 そういうと、尋も名刺を手渡した。二人はソファーに座ると、 「はは。早速、手洗い出迎えをされたそうで。」 男性は、既に先ほどのことを知っている様子だった。 「いえ、こちらに伺う前に、ちょっと寄り道をしてただけです。すみません。」 尋はさらりとかわした。 「まあ、もうお解り頂けたかと思いますが、今回の工事は既に決定はしていますが、多少はがたつきもあります。副町長と彼を推す仲間は、未だに反対とはいってますが、所詮は形だけです。」 町長は尋に顔を近付けて、外に声が漏れないように小声で話した。尋は黙って聞いていた。 「しかし、彼らも状況が覆らないことぐらいは承知しとります。じゃもんで、ちょっとはゴネて、袖の下でも頂こうって腹ですわ。」 尋は町長の話から、彼がなかなかの人物でありそうだと察した。 「それにしても尋さん、一体、どうやって副町長らを黙らせたですか?。」 「いえ、副町長は何も仰いませんでした。」 「ほう。ちゅーことは、例の熊ですやろ?。」 「はあ・・。」 町長は興味津々で、尋に先ほどの経緯をたずねた。尋はお付きに二人組みと揉めたことは話さなかったが、名刺の件だけを端的に述べると、 「はは。そりゃあ愉快な。ちゅーことは、尋さんも大臣先生に見初められたっちゅー訳ですな。あの方のご利益は、黄門様の印籠よりも効きますからな。」 町長は尋が自分と同じ、大臣一派と思われたのを正そうとしたが、このままそう思わせておく方が話が早いと感じ、敢えて訂正はしなかった。ご利益という意味では、その威力を目の当たりにした尋が、一番それを理解していた。その後、工事や予算に関する打ち合わせを行い、 「では、概ね、その方向で宜しくお願いします。」 というと、尋は執務室を後にした。戸口辺りで副町長がうろうろしていたが、盗み聞きを咎めたところで、誰に何の利益も無いと思い、 「副町長さん、どうも、ご苦労様でした。」 と、尋の方から彼の肩をポンと軽く叩いて、深々と頭を下げた。 「いえ、こちらこそ。どうもいろいろと・・。」 といいかけたとき、 「しーっ。」 と、尋は口の前に人差し指を立てた。そして、役場の人達にも一礼しながら、庁舎を後にした。そして、町長と副町長が玄関まで出向いて尋を送った後、 「どうや?、副町長。若いのに、あんたらよりも一枚も二枚も役者が上じゃったろ?。」 と、日頃は犬猿の仲である町長がたずねた。 「ええ。そりゃー、もう。」 このときばかりは副町長も大いに賛同した。 「さて、今日の仕事は終了と。」 尋は駅に着くと、次の列車を待った。そして、駅員に、 「すみません。温泉街に楓という名の旅館はありますか?。」 とたずねた。 「ああ、楓旅館ね。それなら・・、」 と、駅員は壁に貼ってある周辺の地図を示すと、旅館の所在地を指差した。 「なかなかええ旅館ですよ。娘さんも別嬪やしね。」 そういうと、駅員は何ともいえない妙な笑みを浮かべた。 「なるほど。色んな意味で有名な旅館ってことか。」 尋は頭の中で呟くと、駅員に礼をいった。列車が到着すると、尋は上りの列車に乗り、一駅戻って、駅を下りた。そして、駅員から教えて貰った通りに、温泉街の路地を奥へと進んでいった。 「わあ。此処かあ。」 駅前にあるモダンなホテル風の温泉とは異なり、この辺りの旅館は昔ながらの木造りであった。とりわけ、鄙びた佇まいながらも、背景の山々と調和して、楓旅館が建っていた。尋は暖簾を潜ると帳場に進み、 「すみません。」 と、声をかけた。すると、 「はーい。」 法被姿の番頭さんが現れて、 「いらっしゃいませ。当旅館へようこそ。ご予約の方ですか?。」 と、にこやかにたずねてきた。 「いえ。今日、楓さんという方にお会いしまして、仕事が終わればこちらに立ち寄るようにいわれました。尋といいます。」 と、簡単に此処へ来る経緯を話した。番頭さんは目を大きく見開いて、 「あっ、お嬢様からですか。それは失礼致しました。暫くお待ち下さい。」 といいながら、奥へ下がっていった。程なくして、 「あーら、尋さん。いらっしゃい!。」 と、お淑やかな和装姿で楓さんが現れた。 「お言葉に甘えて、来ました。」 「大歓迎よ!。ささ、こっちへ。」 楓さんは上機嫌で尋を出迎えると、奥へと誘った。 「あ、帳簿が・・、」 「そんなの、いいから。」 二人はそそくさと奥へ消えていった。 「さ、どうぞ。」 彼女は小さな和室に尋を案内した。 「どうも。」 尋は部屋に上がり、窓から見える夕暮れの景色を眺めた。 「うん、風景だなあ。」 そういった途端、彼女は後ろから抱きついてきた。尋は少し驚いたが、身じろぎせずに、彼女と向き合うと、キスを交わした。明かりを落とし、二人は互いを激しく求め合った。幾度となく激しいうねりと、時折漏れる小さな喘ぎ声が、二つの生を謳歌する様子を彩っていた。解かれた帯の端は部屋の端々へと届き、その真ん中に大輪が咲き誇るかの如く、艶やかな色彩の生地が部屋に差し込む微かな夕日を受け止めて、朱色に染まった。そして、ついに昇り詰めた二人は、暗がりの部屋で、静かに抱き合い、額をくっつけると、軽く口付けを交わした。尋の腕枕で、彼女は満ち足りた様子に浸っていたが、 「あら、いけない。帳場の手伝いしなくちゃ。」 そういいながら、サッと起き上がると、再び着物を着込んで、髪を整えた。衝動の限り迸る生物が、若女将へと変身する姿を、尋は不思議な目で眺めていた。 「凄いな。女ってーのは。」 尋はそういうと、激しい乾きを潤すべく、コップに水を注いで一気に飲んだ。彼女もそのコップで水を飲み干すと、後ろ髪に乱れが無いかを気にしつつ、 「じゃ、また後で。」 そういいながら、軽く口付けを交わして部屋を去っていった。 「さて、湯でもよばれにいってみるか。」 そういうと、尋は部屋に置かれた浴衣を羽織って、浴場に向かった。いき交う客達は、思い思いに手ぬぐいを頭に乗せたり、鼻歌を歌ったりと、如何にも楽しそうだった。何より、昔ながらの佇まいがその喜びに色を添えた。随分昔に立てられたであろうその温泉旅館は、黒々とした梁が太い柱の間にしっかりと張られ、全体が一つの生き物のように互いを支え合っていた。浴場に着くと尋は湯川を脱ぎ、掛かり湯をして湯船に浸かった。 「はーっ。」 程よく肌に纏わり付く湯が、尋の疲れを癒やした。少し熱い目の、それでいて決して刺さりはしない、実にいい頃合いの湯加減だった。湯気の向こうに見える岩肌はざっかけない感じに組まれていたが、一切の無駄が無い、そういう配置だった。何から何まで考え尽くされていて、それでいて、奇を衒うような感じを一切見せない。尋は熟々、旅館の造りに感心した。尋が省に勤めだして以降、激務で無い日は無かった。自身には出世欲など微塵も無いと自負はしていたが、やはり周囲の働きぶりを見ると、自らもつい力んで本領を発揮してしまう。そして、人より有能な分、仕事の成果はどんどん出てしまい、ついには人目についてしまう。それがさらに彼の仕事を増やす結果となっていた。今日一日だけを見ても、本人は息抜きのつもりで出張に来たのが、気がつけば様々な事態に巻き込まれ、それでも自身の持てる能力で、その場を切り抜けてはいた。しかし、 「それにしても、名刺が二枚あったとはなあ・・。」 尋は自身には、若干の運のようなものが伴っていることを知っていた。何かにつけて、決して鼻息の荒い方では無かった。だが、彼がやることなすこと、全てが何故かしら、妙に好転することは少なくなかった。それが多少ならば、自身の手柄と、天狗になってもおかしくは無かったが、彼は決してそんな風には捉えなかった。そして、 「うーん・・、」 と、立ち上る湯気の中で、楓さんのことを思い出していた。これも自信の持てる運のせいなのかと。そうこう考えているうちに、 「いけねっ。のぼせてきた。」 と、尋は少しふらつきながら湯船を出て、足に冷たい水をかけて浴場を出た。 体を拭き、浴衣を羽織って手ぬぐいを頭に乗せると、 「さて、散歩にでもいくか、それとも部屋で転んで寛ぐか・・。」 そう思案しながら部屋に戻った。すると、 「おわっ!。」 お膳の上には既に配膳が成された料理が、色取り取りに並んでいた。食材の色を邪魔しないように、極めて控えめな色彩の器に、料理と季節の花々が添えられていた。尋はゆっくりしようと思ったが、艶やかに盛られた料理に、思わず心が躍った。と、其処へ、 「湯加減は、如何でした?。」 と、お盆にビールとグラスを二つ乗せて、楓さんが現れた。 「最高でした。」 「良かった。さあ、召し上がって下さいな。」 そういうと、彼女は二つのグラスにビールを注いだ。そして、一つを尋が受け取り、もう一つを自分が持って、 「乾杯。」 といって、二人はビールを飲み干した。 尋は腹ぺこだったので、箸を手に取ると早速ご馳走にありついた。モリモリと食べながらも、お椀を持つ手、箸使いは上品だった。彼女はそんな尋の様子を眺めながら、 「アナタって、慈しむように料理を食べるのね。」 と、にこっとしながらいった。 「そうかな?。だって、器といい、料理といい、花の演出といい、素晴らしいよ。そりゃ、ちょっとは品良く食べないと申し訳ないしね。」 そういいながら、尋の箸は止まらなかった。  彼女は尋の食べる様子に見とれていたが、 「いけない。帳場、手伝ってこなきゃ。」 そういうと、サッと立ち上がって、 「じゃ、また後で。」 といって、投げキッスをしながら部屋を出ていった。尋は一人、部屋で料理を堪能した後、籐の椅子に腰掛けて、外の景色を眺めた。温泉街特有の寛いだ雰囲気と、心地良い夜風が尋の心をいっそう和ませた。自分は自然体で過ごしてきたつもりではあったが、仕事柄、いや、性分かして、気を張った状況に自ずと身を置いていることが少なくなかった。勿論、出世競争を意識もしてはいなかったが、彼の能力を周囲が勝手にライバル視することで、彼も気がつけば、それなりに対抗意識を燃やしていたのかも知れない。それだけに、こんな日は、本当に貴重だった。そして、尋は鞄の中から文庫本を取り出すと、再び籐の椅子に座って読み始めた。遠くに聞こえる路地を徘徊する温泉客の声と下駄の音。それをバックグラウンドに、部屋の薄明かりを頼りに読書に耽る。時折、彼女のことを思い出しながら。至福の時だった。 「失礼します。」 そういって、配膳係の女性が器を下げていった。尋は椅子に座ったまま会釈をして、再び本を読んだ。そのうち、うとうととして、尋はそのまま眠ってしまった。そして、夜更け近くになって、 「失礼しまーす。もう寝ちゃったかな?。」 と、楓さんが部屋に入ってきた。尋は本を膝元に置いたまま眠りこけていた。彼女は彼を起こさないように、そっと丹前をかけようとした。 「あっ。」 彼女の気配に、尋が目を覚ました。 「ゴメン。起こしちゃった?。」 「いや。有り難う。」 尋は丹前を着せてくれたのに気付くと、礼をいった。 「いい?。」 と、彼女は尋にたずねながら、向かいの椅子に座った。 「本当に、いい宿だね。」 尋はしみじみといった。 「うん。古いだけが取り得な宿だけどね。でも、長く愛用して下さる方は結構いるわ。」 「他も随分、賑わってるね。」 「それがね、そうでも無かったのよ。かつては・・。」 尋は活況な温泉街だとばかり思っていたが、彼女は憂いを見せながら答えた。 「アタシが小さい頃には、随分と寂れていたのよ。特に此処は古いし、正直、経営も成り立たない状態だったの。だから、アタシ、売られたのよ。」 尋は少なからず驚いた。確かに置屋で芸者をしているからには、それなりの経緯はあっただろうとは思っていたが、まさか彼女が、そんな昔の風習そのままな目に遭っていたとは。尋は黙って聞いた。 「何も解らないまま、芸者として働くようになってね。でも、アタシが身売りした費用だけでは、経営は立ちゆかないままだった。それで、あっちで我武者羅に働いて仕送りも続けたわ。それで、どうにかこうにか、此処を続けるぐらいの目途は立ったけど、温泉街は下火のまま。そんな矢先、この辺り一帯を、一大観光地にしようって計画が持ち上がってね。」 「へー。そうだったんだ。」 「この辺りの町長が、代議士先生の所に陳情にいってね。で、何とかその計画が実現したの。そして、今がある・・と。」 「ふーん。」 尋が気のない返事をしたように思った彼女は、 「何よ。アナタ、そういうこと、知らない訳じゃ無いでしょ?。」 と、尋にいった。 「うん、まあ。そういうのが日常茶飯な仕事ではあるからね。でも、此処がそうだったってのは、知らなかったなあ。」 「アナタと同様に、アタシも事あるごとにお座敷で似たような話を聞いたわ。お酌をして傍らでお飾りみたいにしてるけど、随分露骨なやり取りをしてるのよねえ。よっぽど油断してるのかな・・。」 彼女の言葉を聞いて、 「ははは。それがキミの腕なんじゃないかな?。ボクも別にお座敷で気を張ってる訳じゃ無いけど、そういう話はされても、自分からはいわない。でも、キミになら話したかも知れないなあ。」 「あら、どうして?。」 「そりゃ勿論、キミが魅力的だからさ。」 そういうと、尋は彼女の手を引いて、手繰り寄せた。そして、そっとキスをした。 「待って。」 彼女は彼を止めて、宿の女将らしく布団を敷いた。そして、部屋の明かりを落とすと、二人はそのまま抱擁し、布団になだれた。逢瀬を重ねる二人を、鄙びた旅館の窓からさし込む月の光が優しく包み込んだ。人の営みとは、斯くも激しく、そして静かに、嫋やかに繰り広げられるものなのだろう。一頻り、互いの時を重ねた後、尋は寝息を立てて眠りに落ちた。その様子を優しく見つめながら、彼女は着物を整えて、彼を起こさないように、そっと部屋を出ていった。その姿は、既に凛々しい若女将の姿に戻っていた。彼女はそのまま蝶番に向かうと、奥の部屋から電話をかけた。 「もしもし、アタシ。彼ならまだ就寝中よ。はい。はい。解りました。引き続き、様子を。はい。」 そういうと、彼女は電話を切った。  それから暫くして、尋は目覚めた。 「あれ?、彼女は?。ま、そりゃ、いないか。」 と、此処での彼女の立場を察して、尋は冷静に戻った。そして、そのまま朝風呂に向かい、汗を流して部屋へ戻ってくると、既に朝食の用意が調えられていた。 「うわあ、こりゃまた凄いな!。」 朝なりの簡素な食事ではあったが、その一品一品は、贅を尽くされていた。お米の焚き加減といい、魚の焼き加減、野菜の盛り付け、そして夕べと同様、器一つにも細心の注意が払われていた。尋はあらためて座り直すと、 「いただきます。」 と、箸を持ちながら両手を合わして、朝食を頂いた。 「うん。美味い。」 勿論、味はいうまでも無かった。最高の贅沢を堪能して、尋は朝食を終えた。そして、部屋を軽く片付けると身支度をして、帳場に向かった。 「すいません。今日までの精算をお願いします。」 そういうと、尋は宿代を支払おうとした。すると、 「朝食は如何でした?。」 と、楓さんが和服姿で現れた。 「最高でした。何もかも。」 尋はそういいながら、財布から紙幣を取り出そうとした。 「あら、いいのよ。アタシが誘ったんだから。」 「はは。ちゃんと出張手当は出ているし、盛大につけておいても構わないさ。」 彼女の申し出を丁寧に断ると、尋はちゃんと正規の料金を支払った。 「もう帰っちゃうの?。」 「ああ。用事は済んだからね。まあ、でも、ひょっとしたらあと何回かは、こっちへ足を運ぶことにはなるかな。」 「その際は、是非、当旅館へ。」 「勿論。」 そういうと、尋は旅館を後にした。彼女も入り口の所まで見送りに付き添い、 「この後は?。」 と、たずねた。 「うん。すぐに戻るつもりだけど、電車の時間まで間があるから、少しこの辺りをぶらついてから帰るよ。じゃ、いろいろと、有り難う。」 「また、あっちで。ね。」 二人は少し名残を惜しみつつ、その場で別れた。駅に戻る道すがら、尋は温泉街の様子を探索して歩いた。風情を楽しむというのもあったが、本来の目的は別の所にあった。尋は少し歩いては、土地の起伏を眺めていた。 「うーん、予定通りに治水工事を実施するとなると、どうしても低地は煽りを食らうなあ・・。」 隣町を中心とした工事ではあったが、その工程で、どうしてもこの辺りにも工事を施す必要性があることを、尋は十分に認識していた。特に、楓さんの旅館辺りは、若干高台にはなってはいるものの、建設予定のラインに入っていた。 「ま、本決まりでは無いから、最終案が出るまでは、暫く様子を見るか。」 尋はそういいながら、駅まで歩いていった。  省に戻った尋は、再び勢力的に仕事をこなした。次から次にやって来る書類の山を片付けつつ、少しずつ時間を作っては、こっそり楓さんの旅館辺りの地図を持ち出しては、小さな資料室で一人、工事の計画表と照らし合わせた。 「やっぱり、ラインの変更が無ければ、この辺りは沈むか・・。」 そうこうしている所に、 「先輩、何やってるんですか?。課長が探してましたよ。」 と、まるで尋の動向を追尾しているかのように、いつもの後輩が現れては話しかけてきた。 「ん?。課長が?。オレに一体、何の用だろう・・。」 尋は悟られないように、地図をサッと畳むと、内ポケットに仕舞って部屋を出た。後輩は目敏く、尋が仕舞い込んだ物が地図らしかったと気付くと、資料室の書棚から地図が抜き取られた痕跡を捜し始めた。 「こういう時に、日頃の整理整頓の技が生きるんだよなあ。」 そして、とあるエリアの地図が一冊だけ抜けているのを見つけた。 「えーっと、この番号は確か・・・。」 その両脇の残っている地図の番号をメモると、後輩は資料室から出ていった。その頃、尋は呼ばれるがままに課長のところへいくと、 「課長、何かボクを探してたとか・・。」 尋の姿を見ると、課長は席を立って、 「ちょっといいか?。」 と、尋を誰も居ない会議室へ誘った。そして、誰も見ていないのを確認すると、そっとドアを閉めた。 「キミ、先日、出張にいったろ?。」 「ええ。」 「そのとき、何か無かったかね?。」 「何か・・というと?。」 「うん。キミが出張にいった先に住んでる熊五郎という男性から、矢鱈とキミのことを称賛する電話がボクの所に来てね。」 「はあ。熊五郎さんですか。町長と副町長にお会いしたとき、他の方もおられたようですが、その中の一人ですかね。よくは知らないですが。」 尋は説明すれば、何かとややこしいと思い、とぼけて見せた。 「そうか。なら、いいんだけどね。工事の話が漏れないようにしても、必ず何処かから情報は出ていくもんだし、くれぐれも周囲の業者には気をつけてくれよ。」 「はい。承知しました。」 そういうと、尋は課長より先に部屋を出た。小芝居を悟られないように。 「ふーっ。危ない危ない。何の話かと思ったら、そっちかよ。」 尋は熊氏との一件では無く、その後に訪れた旅館での件がバレたのかと、気が気では無かった。別に、熊氏からは袖の下を受け取ってはいないし、旅館の代金も、ちゃんと支払ってある。その辺りに全く抜かりは無い。だが、いつ何時、足元を掬われるかも知れないことは承知していた。  しかし、話は課長のところでは止まらなかった。後日、 「ゴメン。尋君はおるかね?。」 と、オフィスの入り口辺りで、何やら騒々しい感じになっていた。課長を含め、他のお偉方も出て来ては対応するほどの様子に、 「何事だろう?。」 と、尋も席を立って騒動の起きている辺りを伺った。すると、 「おお、尋君、おったか?。キミ、あれ以降、何度誘っても断るから、ワシの方から出向いてやったぞ。」 と、大臣がにこやかに歩み寄ってきた。勿論、オフィス内は騒然とした。これには流石の尋も驚いたが、 「はは。ご無沙汰してます。」 と、照れ笑いを浮かべて頭を掻きながら会釈をした。それを聞いて、課長や部長は目が点になった。 「キミ、大臣とは一体、どういう・・、」 と、課長が小声で尋に尋ねようとしたとき、 「ああ、それはそうとな、夕べ、熊五郎から直接電話があってな。何でもキミに大層申し訳無いことをしたと、平身低頭だったぞ。」 それを聞いて、 「あ、大臣。例の件に関しましては、他にも色々とお話がありますので、どうぞこちらに。」 そういって、尋は大臣の腕を掴みながら、一緒に小会議室の方へ消えていった。このまま此処で大臣にベラベラ喋られては、折角課長にとぼけた一芝居が台無しになると、尋は脂汗を掻きながら苦慮した。尋は小会議室のドアを開けると、大臣を先に押し込んで、次いで尋がそそくさと部屋に入ると後ろ手でドアを閉めた。その後を部長と課長が金魚の糞のように伴って入室しようとしたが、ちゃっかり閉め出された。 「どうぞ、お掛け下さい。」 尋は大臣をソファーに座らせて、自分は座らずに、その横辺りで中腰になった。すると、 「おい、キミ。聞いたぞ。」 と、大臣はニヤッとしながら尋を見つめて煙草を吸い始めた。 「何をですか?。」 「あいつが失礼なことをというから、何をしたんだって聞いたら、渋々白状しおったわ。何でもヤツの子分をぶん投げたそうじゃないか。」 尋は熊の願いで、この事は伏せていたのに、彼の方から心配で、告げ口されていないかと、どうやらあちこちに連絡をしているようだった。しかし、熊が一番知られたくない相手に事の次第を知られた以上、もう隠し立てすることも無いと思い、 「別に投げたという訳では無いんですが・・、」 と、先日の経緯を大臣に話した。すると、 「はっはっはっ!。そいつは愉快だ!。はっはっはっ。」 大臣は大笑いしながら、尋の方をバンバン叩いた。 「流石だな、尋君。頭も切れるが、腕も立つか。うーん、ますますわしの所に欲しい人材よのう!。で、尋君。ワシの名刺は役に立ったかね?。」 大臣は、どうやら名刺のことも聞きだしていたようだった。こうなったら、何を隠しても仕方ないと思い、 「はい。殊の外。」 と、あっさりと答えた。すると、 「実はな、此処だけの話なんだが、熊五郎は今でこそ真面目に建設会社なんぞやっとるが、昔はかなりのやんちゃでなあ。ま、所謂、これやったんやが、ワシが足を洗わせて、今の仕事に励むようにいったんじゃ。」 そういいながら、大臣は人差し指で頬を上から下にスッと撫でた。 「まあ、それを恩義に感じてか、何かとワシに忠義を尽くしてはくれとる。じゃから、ワシも時折、ヤツの所に仕事を回してやってるという訳じゃ。」 胸ポケットから落ちた名刺を見て、熊が顔色を変えた理由が、尋にはようやく解った。この人は、ただ単に恐怖支配でいうことを聞かせているだけでは無いのだと。 「なあ、尋君。切れ者も、荒くれ者も、所詮はみな人間じゃ。それが同じ一つの船に乗って進むには、何かと小競り合いは付き物。だからこそ、同じ目的意識を持って、志を同じくして進む必要がある。そうすれば、到達するであろう地は、安寧の地。そして、それには舵取り役もいる。それとて、一つの役割に過ぎぬ。ワシはそれでええと思うとる。皆が無事で着けばな。そのためにも、キミのような物が必要だ。どうだ?。ワシの所に来て、一緒に天下を取る船出に漕ぎ出さんか?。」 大臣は、眼光鋭く、真っ直ぐに尋を見た。思わず、尋にもグッと来るものがあった。 「大臣。アナタとなら、どんなに困難な夢も、ぐっと近くに手繰り寄せられそうな気がします。」 尋は、そうとだけ答えた。 「返事はすぐで無くてもいい。ドアはいつでも開けておく。因みにな、夢とは、手繰り寄せて実現するもの。そして、その夢を、出来るだけ壊さぬように、身を粉にして保つこと。これが一番難しいんや。じゃあな。」 そういうと、大臣は立ち上がると尋に握手を求めた。尋も自然と右手を差し出した。そして、握り締めた大臣の手は、正に天を掴まんとする力強さだった。大臣がドアノブに手をかけてドアを開けると、 「ドタドタっ。」 と、盗み聞きをしていたらしい部長と課長がよろけた。 「何だ、キミたちは?。まあいい。今日は愉快な日じゃった。キミらは良い部下を持って幸せ者やな。では、御免。」 そういいながら、大臣は意気揚々と省を後にした。  ふんぞり返った、いけ好かない政治家像とは真逆な男だった。尋は少なからず感動していた。公僕を地でいくとは、正にああいう男なのかも知れないと。その後、以前ほどでは無かったが、大臣は気を遣いながら、尋の手の空いてそうな時間に連絡をよこしてきた。尋も、以前よりはぐっと距離が近くなった大臣の下へ、仕事、宴席と、呼ばれるがままに覗うようになった。 「おう、尋君、来てくれたか。すまんなあ。」 「いえ、大臣。そんな。こちらが先日お話してました書類になります。」 省で担当する仕事を大臣の執務室まで持っていき、秘書官達と会議を済ませた後、 「うん。じゃあ、キミたちは席を外してくれんか。」 というと、部屋に尋だけを残し、他のスタッフを退出させた。そして、二人はソファーに座りながら、 「いいか。今キミがいる省は多額の税金が投入され、それをどうするかの裁量権も握っている。最終的な判断は大臣の決裁にはなるが、其処に来る迄には根回しが必要じゃ。解るな?。」 「はい。」 「頭の良い連中は、物事を理屈で理解はするが、其処はやはり人間。気持ちこそが大事じゃ。じゃが、キミは我が強い。それはそれで大事なことじゃ。信念を貫くのは、いわば男の宿命。しかし、それだけでは事は成し遂げられん。こびを売るで無く、かといって、命令に従うように恐怖支配を行うでも無い。人の気持ちを、如何に自然に動かすか。この術が大事なんじゃ。」 「はい。」 いつの間にか、尋は大臣の言葉に夢中になっていた。先生と担ぎ上げられるのは、伊達じゃ無い。いうことのいちいちが最もだった。 「キミには頭脳も、腕っ節もある。度胸もなかなかのもんよ。じゃが、若干欠けるものがある。何か解るか?。」 大臣は尋に問うた。 「・・・はて。自分のことは、自分では解らないものです。」 「はは。よう解っておるな。それはな、愛嬌じゃ。」 「愛嬌?。」 「そう。愛嬌。人は何故、人を好きになるか解るか?。それは、相手に至らない部分が見えた時じゃ。そういう弱いところを曝け出すことが出来る者には、常に愛嬌がある。キミは人間味がたっぷりじゃ。それを、強く優れた鎧で武装する必要は無い。そういうのは、然るべき時だけ発揮すればええ。じゃが、人と対するときは、極力、素のままでおったらええ。それが愛嬌を生む。」 「なるほど・・。」 大臣は、仕事終わり、酒席と、事あるごとに、尋に人としての立ち振る舞いを教えた。まるで自分の後継者と目する人間に、マンツーマンの指導を行うが如くに。彼と付き合い初めて、確かに尋の物腰は、少しずつ柔和になっていった。影響力とはなかなかのものである。周りが全て競争相手と一目置いていた同僚達も、殊の外、評価の高かった尋のこの変化には気付いていた。 「おい、尋。どうしたんだ?。最近、えらく楽しそうじゃ無いか?。」 「そうか?。別にいつもと同じだよ。」 「いや、変わったよ。お前。つっけんどうな感じが随分無くなったって感じかな。」 「そうかな・・。オレには解らないや。それはそうと、この書類、すまんけど、やっといてくれるかな?。オレ、この後、野暮用なんだ。」 尋は同僚に仕事の後始末を頼んだ。 「ほら、それだよ。お前、人に頼み事なんかするキャラじゃ無かったのに。じゃあ、次、飯でも奢ってくれよ。」 「ああ。サンキュー。じゃ、頼む。」 そういうと、尋は同僚の方をポンと叩いて、一足お先に職場を後にした。 「ごめん。待った?。」 「ううん。アタシも今来たところ。」 尋は省から少し離れたビルの裏手にある小さな喫茶店で、楓さんと待ち合わせをしていた。 「すみません。ボク、コーヒーを。楓さんは?。」 「アタシはレモンスカッシュを。」 二人はウエイターに注文をした。 「随分忙しそうね。」 「うん。暇なときが無いのが、この仕事だからね。」 「それはそうと、最近、大臣先生とよく会ってるの?。」 「え?、何でそんなことを?。」 尋は彼女の言葉に驚いた。 「アタシ、芸者よ?。そういう話は自然と入ってくるものよ。」 「はは。ま、実はそうなんだ。」 大臣の申し出を袖にしていた姿しか知らなかった彼女が、尋の豹変ぶりに驚くのも無理は無かった。尋は、大臣が省に自ら乗り込んできた際の経緯を彼女に話した。 「なるほどねえ。大臣先生、アナタに心酔してるのよ。」 「そうかなあ・・。それをいうなら、ボクの方が大臣に・・かも。」 「あら、じゃあ、相思相愛じゃない。」 「ヤメロよ、そんないい方。」 彼女の揶揄うような言葉に、尋は困って思わず口に出た。 「でも、見た目だけで判断するのが、如何に偏見じみてたかってーのが解ってね。大臣、実に気遣いの出来る、細やかな人だったよ。」 「そうねえ。仕事柄、色んな先生をお相手するけど、あの方、特にきめ細やかねえ。解るわ。」 二人が話し込んでいると、 「お待たせしました。コーヒーとレモンスカッシュで御座います。」 ウエイターが飲み物を持って来た。  喫茶店を出ると、二人は近くにある小さなホテルに入っていった。互いに忙しい体で、あの日以降、会うのは久しぶりだった。それだけに、その日は一層、燃え上がった。二時間ほどの時を、互いの骨まで燃え尽くすのでは無いかと思うほどの勢いで、二人は求め合った。もし、地球上から水分が乾ききったとしたら、恐らくこんな状況であろう。 「ふーっ。もうダメだ。」 「アタシも。」 二人は俯せになりながらベッドに全身を投げ出した。そして、彼女は枕元にあるグラスに水を注いで飲んだ。 「ねえ。アナタ、先生のところにいくの?。」 彼女がたずねた。 「いや。ボクはこのままさ。確かにその気にはさせてくれる人ではあるけど、ボクはボクなりの立場で、あの人に協力するって感じかな。」 そういうと、尋も体を起こして水を飲んだ。 「天下取りのゲームは熾烈だものね。アナタ、先生は天下を取れると思う?。」 突然、彼女がいいだした。 「うーん、ボクには解らないな。凄い器の持ち主ではあるみたいだけど、そういうことは時の運じゃないのかな。」 尋の言葉を、彼女は妙に真剣に聞いている様子だった。そして、彼女は立ち上がると帰り支度を始めた。 「何処いくの?。」 「あら。お座敷よ。」 「相変わらず、忙しいな。」 「芸者はね、声がかかるうちが華なのよ。」 そういうと、彼女はさっさと着替えを済ませて、 「じゃあね。」 と、尋に投げキッスをして帰っていった。 「さて、オレもぼちぼち帰るとするか・・。」 そういいながら、尋はベッドから立ち上がった。すると、 「ん?。何だ、これ?。」 尋は足元に小さな手帳のようなものが落ちているのを見つけた。そして、それを拾おうとしたとき、中から小さなメモ用紙が一枚床に落ちた。其処には、電話番号とイニシャルらしきものが書かれていた。 「彼女の忘れ物かな?。」 尋は落ちたメモ用紙を手帳に挟んで、懐に収めた。そして、チェックアウトをしようと、フロントにいくと、 「代金は、もう頂いております。」 とのことだった。流石は楓さんだった。 「あ、これ、部屋に忘れていったみたいなので、此処で預かってくれますか?。ボク、彼女の連絡先、知らないので。」 そういうと、尋は手帳をフロントに預けて、ホテルを出た。彼は、自身が置かれている立場や状況は、よく理解しているつもりだった。それだけに、あまり余計なものには首を突っ込まないようにと、常々注意も怠らなかった。 「君子、危うきに何とやら・・。」 呪文のように唱えながら、尋は帰路に就いた。  数日後、事態は急変した。首相が退陣表明をしたのだった。尋の省でも、職員がTVに齧り付いて速報を眺めていた。尋は世事に疎かったので、みんなの浮き足だった様子とは反対に、一人デスクで書類の山と格闘していた。そんな中、 「ジリリリリン!。」 尋のデスクの電話が鳴った。 「はい。尋です。」 「ワシだよ。」 電話の相手は、大臣だった。 「あ。どうも。」 「今、いいか?。」 「はい。」 「ニュースを見とるか?。」 「はい。」 「この後、ワシも閣議に出にゃならんが、その後に、ワシの所に来れるか?。」 「えー、はい。覗うようにします。」 「キミに頼みたいことがある。じゃあ、後ほど。」 そういうと、大臣は電話を切った。尋には、国の舵取りなど全くの他人事と思っていたが、彼と知り合って以降、そのような世界も、実はちゃんと存在するのだという実感を持つようになった。尋は仕事をサッと片付けると、閣議が終わる頃を見計らって、議員会館に出向いた。そして、大臣の部屋の前まで来ると、 「何だこりゃ?。」 と、彼は驚いた。どうやら、次の総裁選候補に、大臣の名前が挙がっているらしかった。執務室の前は、報道陣や派閥の議員連中でごった返していた。 「こりゃ、とても無理そうだな。出直すか・・。」 と思ったその時、執務室から秘書官が出て来て、 「あ、尋さん。どうぞ中へ。」 と、彼を部屋へ誘った。外の喧噪ほどでは無かったが、大臣の部屋は電話が鳴り止まなかった。 「おう。尋君。ささ、奥へ。おい、キミ。電話の対応は任せる。誰も取り次ぐなよ。いいか。」 大臣は尋を内部へ誘い、秘書官に以後の指示を出してドアを閉めた。 「何か、大変なことになってますね。」 「はは。まあな。こういう時は、得てしてこんなもんじゃよ。ま、それはそうと、次の総裁選なんじゃが、キミはどう思うかね?。仮にワシが出て、勝てると思うかな?。」 「はあ?。」 尋は驚いた。確かに噂は聞いていたが、選りに選って、何故自分に尋ねられるのか、全く信じられなかった。しかし、何度も彼と会って話を重ねるうちに、尋は彼の能力が如何なるものかを、徐々に理解していった。そして、 「あの、何故ワタシに?。」 尋は念のために、たずねた。 「無論、キミのその目に、ワシがどう映っておるか、聞きたかったからじゃよ。率直なところを、いってくれんか。」 大臣は、真剣かつ真摯に、尋の言葉を待った。  尋は大臣と会う機会が増えたことで、彼の人となり、人望、責任感、行動力と、様々な面を間近で見ることが出来た。そして何より、人を魅了する不思議な力を持っている。そんな魅力に引きつけられた一人が、自分自身であったことも間違い無い。それ故、尋には一つだけ気がかりなことがあった。 「大臣。アナタはこれまで、何人もの総理を側で見てこられたと思います。そんな彼らが、何故総理になることが出来て、逆に、何故志半ばで、その座を諦めざるを得なかったか、ご自身がよくご存じだと思いますが。率直に申し上げます。最も必要な素養とは、何でしたか?。」 質問を質問で返すのは愚問愚答という声もある。しかし、尋には一つの核心があった。その事を確かめるべく、尋は敢えて質問で返した。 大臣は腕組みをしながら、目を閉じた。そして、目を見開くと、 「金と豪語する者もおった。人脈という者も多い。だが、その殆どは金に準ずる。だが、ワシの見立てでは、それはいずれも手段に過ぎん。天下を取った者には、いずれも、ある共通点があった。」 「それは?。」 「強かさ。いや、非情さかな。ギリギリの局面で、そういう判断を発揮出来た者達が、ワシの見る限りでは、その座にありついた。」 「では大臣。率直に覗います。アナタには、それがあるとお思いですか?。」 尋は真っ直ぐに大臣を見据えた。 「ある。と、いいたいところだが、ワシにはその素養は無いな。国政を志す者、誰しも天下を夢見る。しかし、多くの者は、自らの器を知り、引き返す。ワシは自らの能力に限界を作らぬ性分ではあった。故に、此処までは来れた。他に誰もなり手がいなくば、ワシにもお鉢は回ってきたかも知れん。しかし、今は厳しい。真に強かな連中が、虎視眈々と総理の座を狙っておる。そういう者達を騙し討ちにして、仮に座を得たとして、果たしてそれが良き采配に繋がるものかどうか。ワシには、そうは思えん・・。」 大臣の言葉を聞いて、尋の顔が急に穏やかになった。 「大臣。だからボクは、アナタの所に来てるんです。今のお話で、はっきりしました。アナタにとって、総理の座に着くか否かは、大した問題では無い。アナタは何処までいっても、利他的です。だから人を魅了する。勝敗に拘らぬのであれば、出馬して、大いにかき混ぜてやったらいいと思いますが。いかがでしょう?。」 「負け戦に挑めというのか?。」 「いえ。やはり勝負は時の運。どうなるかは解りません。しかし、権謀術数に票集めなどしないのであれば、寧ろその姿勢を知らしめて回るのは、豪快かつ愉快じゃ無いですか?。」 尋はニヤっとしていった。それに釣られて、 「ははは。なるほどな。そいつは、さぞ面白かろう。よし、決めた。キミのいう通り、その神輿に担がれようじゃないか!。そこで、だ。キミに一つお願いがある。わしの所へ来てくれとはいわんが、この戦、ちと知恵を貸してはくれんか?。」 大臣は大笑いしたあと、小声で尋に頼んだ。 「無論です。ワタシも大臣が負けるためだけに、お話をしたつもりはありません。政敵は必ず、何かを仕掛けてきます。ワタシは表立ってでは無く、あくまで裏で戦略を担当します。ですので、今日は仕事の報告に来た体で、お願いします。」 「うん。解った。」 大臣は尋の協力を取り付けると、固く握手を交わした。 「では、ワタシはこれで・・。」 尋がそういいかけたとき、 「あ、尋君。ワシはこれから暫くの間、記者連中に張られてしまう。内密にキミと連絡を取るには、どうすればいいかな?。」 「それなら簡単です。うちの省の課長に、出前を頼んで下さい。ワタシがお運びします。」 「はは。何処までいっても面白いヤツだな。キミは。解った。そうさせてもらうよ。」 大臣はドアの所まで尋を見送ると、肩をポンと叩いて別れた。尋は外で待っている秘書官に一礼すると、あくまで省の仕事の報告に来ただけといった様子で、その場を足早に立ち去った。外の廊下では記者連中が何か発表があるのではと、そわそわしていた。尋はその脇をスッと通り抜けて、議員会館を後にした。それから間もなく、大臣は記者発表で、次の総裁選に立候補する旨を大々的に述べた。驚いたのは派閥の領袖達であった。戦向きではないことは、他の議員連中にも見抜かれてはいた。それ故、誰が総理になっても、大臣の重責は担えど、まさか自身が天下取りに名乗りを上げようとは、夢にも思ってはいなかった。翌日、早速、尋の省の課長宛に、大臣から出前の依頼電話が来た。 「おい、尋君。大臣がラーメンを注文して来たぞ。キミ宛に。」 「あ、ラーメンですね。解りました。」 驚いた課長を揶揄うかのように、尋は真顔で注文を受けた。 「では、ちょっと失礼します。」 そういうと、尋はデスクを離れて、食堂に向かった。 「すいません。ラーメン二つ。」 尋は食堂でラーメンを頼むと、岡持と衣装を借りて大臣の執務室までそれを届けにいった。 「コンコン。まいど。ラーメンをお持ちしました。」 ドアの前には報道陣や他の関係者が待ち伏せする中、尋は配達の扮装をして平然と執務室に入っていった。 「はい。ラーメン二丁、お待ちぉ。」 尋はそういうと秘書官に会釈した。すると、 「あ、ご苦労さん。どうぞ奥へ。」 と、サッと通された。秘書官も芝居に乗りながら、 「ご苦労さん。よろしく。」 と、尋に小声で声をかけた。 「お待ちどおさまです。」 尋は岡持を下げながら、大臣の部屋に入っていった。 「ははは。本当に出前に来るとは!。まま、かけてくれ。」 尋はテーブルの上にラーメンを二つ出すと、大臣と一緒に食べ始めた。 「此処のラーメンは、ホントに旨いよな。」 「はい。」 二人はニコニコ顔で腹ごしらえをした。そして、 「さて、まんまとキミに乗せられて出馬はしてみたが、これから、どのような動きでいけばいいかな?。ワシにはこれといって策は無い。なので、こちらからドンドン行脚に覗おうとかんがえておるんじゃが・・。」 それを聞いて、 「ご名算!。ワタシもそう考えてました。これほど正々堂々と戦える機会も、そうそう無いかと。なので、相手が驚くぐらいに頭を下げて回りましょう。その時、必ず見返りを求めてくるはずです。」 尋は淡々と起こり得る現象の先を読んだ。 「ま、普通はそうやわな。」 「ですので、適当に、任しとけと仰られたらよろしいかと。で、その時、何も見返りを求めない人物を注視しておけば、それで大丈夫です。」 「ほほう。と、いうと?。」 大臣は、尋の案に興味を示した。 「取引に乗ることは、即ち、足枷を作ること。国民のためでは無く、その議員に対して便宜を図ることになります。しかし、私利私欲では無い無欲の人達は、真剣に国政のゆく末を見据えています。そういう人物こそ、登用に値します。そして、与えられた使命を、命がけで真っ当するでしょう。そう言う布陣で周囲を固めれば、忖度の無い盤石な体制が作れるでしょう。」 「うん。なるほどなあ。」 尋の言葉に大臣は膝を叩いた。 「じゃが、現実問題、この地は魑魅魍魎に満ちておる。そのような無欲の者が、果たして実力を持っておるかどうか・・。」 大臣は、微かな危惧を漏らした。 「大臣。でも、アナタは無欲にして今の座につかれた。これは動かぬ事実です。そういう流れが確かに存在する。そのまま突き進んでも、全然不思議ではありません。そして何より、これは賑やかしの大芝居。我々は結果には一切拘ってません。そうですね?。」 「無論。」 「なら、するべき事は明白です。思いっきり真剣に、一芝居打てばいい。真に迫れば迫るほど、場内は沸きます!。」 「ははは。その通り。では早速、午後から行脚に出向くとするか。」 その気になった大臣は、今にも動き出しそうだった。と、そのとき、尋は一枚の紙をテーブルに置いた。 「ん?。何だね、これは?。」 其処には、上から番号が振られた各議員の名前が書かれていた。そして、その横には、まるや三角、そしてバツ印が書かれていた。 「これはあくまで、参考程度に。訪問される順路です。優先順位を気にしておられる議員も少なくありません。そういう方の機嫌を損ねないためにも。」 「では、この記号のようなものは?。」 「それは、見返りを求めるか否かの予想です。」 尋が作成したリストを、大臣はしげしげと眺めた。 「うーん。順位の上位者ほど、バツが多いな。これは即ち・・、」 「そういうことです。」 「はっはっはっ。それならいっそ、下位者から攻めてみてはどうかな?。」 「それは名案です!。」 「ま、しかし、同僚達の顔も立てよう。これは有り難く頂いておくよ。」 ウイットに富みながら、同時に現実も見据えた大臣の采配を、尋は温かい眼差しで見守った。 「では、ワタシは仕事がありますので、この辺で。」 そういうと、尋は食べ終わったどんぶりを下げて、部屋を去ろうとした。 「次の出前も、また頼む。今度はメニューを変えてな。」 「はい。」 尋は大臣に、次いで秘書官達に挨拶をすると、岡持を持って執務室を後にした。そして程なく、大臣は秘書官を従えて、尋が手渡したリストの通りに、各議員に挨拶回りに出かけた。勿論、手ぶらで。尋は食堂に戻ると、岡持と借りていた衣装を返して、 「すみません。どうも有り難う御座いました。また近々、借りに来ますので。」 と、食堂の人に丁寧に礼をいった。 「あ。ラーメン、本当に美味しかったです。では。」 味についてのコメントも、忘れずに伝えた。元来、ぶっきらぼうな方だった尋も、大臣の細やかさに触れ、その姿勢が少々乗り移ったようだった。 「おい、尋君。キミは一体、何処へいってたんだね?。」 課長に不在を問い詰められるも、 「はは。ちょっと野暮用で。」 と、午前中に片付けて置いた仕事を、サッと課長のデスクに差し出した。仕事の出来映えに、課長はぐうの音も出なかった。
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