峠の飯屋

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 大臣は如何にも楽しそうに、尋の書いた絵図に則った行動をとった。愛想良く挨拶回りを行い、見返りを申し出てくる者と、そうで無い者とをこまめにチェックした。尋の予想が面白いほど当たっていたことに、大臣はますます悦に入った。尋は時折、出前の電話が来た際に大臣の執務室に赴いたが、彼に随行することは決して無かった。しかし、彼は決して大臣へのアドバイスのみを行っていた訳では無かった。対抗馬の存在だった。今回の総裁選は、他にも数名、名乗りを上げていたが、対抗馬と目されるのは、大臣より若干若い切れ者代議士だった。尋は大臣に魅入られていることは、この界隈でも知られてはいたが、そもそもが権力とは距離を置いていた尋には、相手の動きが全く読めなかった。しかし、負け戦でも構わないとはいえ、真剣にふざけるのであれば、敵の策略も知っておくべきだと、尋は考えた。そして、尋はこのところ、就業時間を終えると、足繁く通う場所が出来た。 「よう。待ったか?。」 「いや、オレもさっき来たところさ。 「じゃ、悪いが早速・・。」 「OK。」 尋は省からそう遠く無い、小さなバーに来ていた。相手は学生時代の旧友で、表向きはアセスメントなどの小さな調査会社をやっている、元興信所の探偵だった。 「お前のいうとおり、この切れ者以外の対抗馬は、まず無いな。彼が圧倒的だ。」 旧友は、カウンターに相関図が書かれたメモ用紙を広げながら、尋にレクチャーした。 「この切れ者って、出身母体は?。」 「教育産業だ。大抵は土建屋か世襲議員がイニシアチブを取るんだが、彼は少し毛色が違う。身内に議員はいないし、資産家の出でも無い。」 「叩き上げってことか?。」 「ああ、そうだ。能力はずば抜けて高い。学歴もなかなかなものだ。」 「それなら、何故官僚にならなかったんだ?。」 「コネが無かったからさ。いくら経歴が良くっても、コネが無きゃ、出世コースからは外れるからな。」 「ふーん。そういうもんか。」 「お前は例外だよ。」 尋も何のコネも無く、また、出世欲も全く無いのに、どういう訳か省に潜り込めたという、稀なパターンではあった。反面、度胸と強運は人並み外れていた。 「で、それからは?。」 「うん。小さな教育機関を作って、学校経営が当たって、選挙資金は潤沢になったみたいだな。ただし、正統な稼ぎかどうかは疑問みたいだが・・。」 「それは、どういう・・?。」 「彼が学校法人を作る際に、パトロンになった人物がいるらしいんだが、其処とのパイプが出来て、今も続いてるって噂だ。」 「噂?。」 「ああ。なかなか尻尾を出さない。というか、深入りして、途中で消えたヤツも実際にいるみたいだしな。」 「そうか・・。じゃあ、そっち方面には探りを入れないのが吉だな。」 「ああ。恐らくは、選挙資金の提供ぐらいは受けてるだろうが、そういうのを叩くのは、大手の文屋にでも任せとけばいい。」 「じゃあ、切れ者のブレインは、誰がついてる?。当然、文部か?。」 「それなんだがな。実はそっちのパイプは表向きで、別にブレインがいるみたいだ。」 「そいつは一体?。」 尋は旧友にたずねた。すると、意外な答えが返ってきた。 「お前んとこだよ!。」 「うちに?。うちは建設だぜ!。何で?。」 「さあな。縦のラインで利益誘導を狙うってのは、当たり前過ぎるだろ。だから、因果関係が掴めないように、一見関係無さげな役人を抱えて、それと引き換えに、次の選挙枠でも宛がうんじゃ無いのか?。」 「ふーん。そうか・・。で、その、うちのヤツってのは一体?。」 「それがなあ・・。」 旧友は相関図を見るのを辞めると、グラスを仰いだ。 「確かにお前の省の車は出入りしてるんだが、特定の人物はいない。尻尾を出さないんだ。相当用心深いな。オレの眼力でも見破れない。」 「何で其処まで身を隠すんだ?。」 「そりゃお前、是が非でも天下を取りたいからだろ?。絶対にしくじりたく無い、そう思ってるんだろ。大体、官僚ってのは、そういうのばっかりだろ?。」 「そうかな・・?。」 「はは。スマン。お前に聞いたオレがバカだったよ。ま、兎に角、用心した方がいいな。恐らくは、お前の行動は相手に筒抜けかも知れねえ。」 「ああ。気を抜いてるつもりは無いが、そうするよ。サンキュー。」 尋は勘定を払ってバーを出ようとした。その時、 「あ、それとな。男は口を割るが、こっちは割らねえ。参考までにな。」 そういうと、旧友は小指を立てた。 「持つべき者は友だな。有り難うよ!。」 尋はアドバイスを有り難く受け取ると、バーを後にした。 「筒抜け・・かあ。オレが直接大臣と会ってるのは出前の時だけだから、もし、それでも情報が漏れてたら、あの部屋からってことになるなあ・・。」 獅子身中の虫を疑うのは、尋のこの混ざるところではあった。しかし、今は伏魔殿の渦中に自身も身を置き始めている。今日の旧友から受けたレクチャーだけでも、その匂いがプンプンしていた。 「正々堂々も、限度あり・・かな。」 尋は首筋に一瞬寒気を覚えた。  その後も、尋は内密に出前持ちとして大臣のサポートを行った。同時に、対抗馬である切れ者代議士について密かに調べを行ったが、やはり、これといったネタを見つけることは出来なかった。在り来たりの経歴と、出入り業者の伝票だけが、見つけることの出来た唯一の材料だった。 「ま、業者を一軒一軒洗ったところで、オレの本業じゃ無いしな。ましてや、正々堂々ともしていない。」 尋は、彼に対してそれ以上の追求はやめようと思っていた。しかし、 「ん?。何だ?、この伝票・・。」 尋は密かに集めた伝票の中に、妙なものが一枚紛れているのに気付いた。 「一(はじめ)興業?。何だこりゃ?。」 得体の知れない業態の伝票に、尋は興味をそそられた。 「ちょっとあたってみるか・・。」 尋は早速、伝票に書かれた電話番号から、その会社を割り出して、仕事の合間に、近くの公衆電話から連絡をしてみた。 「もしもし、一興業です。」 「あ、すいません。そちらの会社のことを知人から覗った者ですが。情報商材の会社だと聞いたので、今度、うちでも扱ってみたいと思いまして。」 「それは有り難う御座います。」 「で、今、そちらの近くにいるんですが、お伺いって、出来ますか?。」 「ええ。午後であれば、何時でも構いませんが。」 「有り難う御座います。それでは、早速伺わせてもらいます。私、尋と申します。」 「尋様ですね?。私、ヒシオと申します。」 「ヒシオ様ですね。では、後ほど。」 電話の応対から察するに、丁寧な相手ではあるようだった。尋は適当にそれらしい封筒に、書類を適当に見繕って詰め込んだものを小脇に抱えて、一興業の入っているビルにやって来た。 「ん?、小さな雑居ビルかあ・・。」 尋はエレベーターで目的の部屋に向かった。 「コンコン。御免下さい。」 「はい。」 返事と同時に、ドアが開かれた。 「尋様ですね?。」 「ええ、そうですが。」 「どうぞ。」 尋は部屋に入って驚いた。室内には微かに白檀の香りが漂っていたが、他には何も無かった。ただ、椅子が一つ置かれていて、窓を向いて誰かが座っているようだった。そして、椅子はゆっくりと回って、尋の方を向いた。尋は驚愕した。 「アナタが尋さんですか。初めまして。」 何とその椅子には、大臣の対抗馬だった切れ者代議士が座っていた。すると、 「どうぞ。」 と、玄関で出迎えた男が、もう一つ椅子を用意した。尋は驚きながらも、いわれるがままに椅子に座った。 「はっはっはっ。驚かれるのも無理はありません。ただ、こうでもしないと、アナタには会えなかったので、失礼ながら、こんな形でお招きすることになりました。」 そういうと、代議士は尋の右手を取って握手した。 「ということは、初めから仕組まれたことだったんですね?。」 「そうです。」 尋の問いに、代議士はあっさりと認めた。 「アナタが大臣を陰で支えていることは、既に承知しています。いやあ、アナタは優秀だ。普通の者では思いつかない戦法で、彼はどんどん獲得票を伸ばしています。」 「そうですか。ボクは集計は全く疎いので。」 「そう。その豪胆な所が、またいい!。大臣も、さぞお喜びでしょう。ですが、今は彼とワタシは、いわば敵味方。そうそう諸手を挙げて賞賛ばかりしてる訳にもいかない。」 尋は、自身が入手した伝票に、既に誰かが此処へのアクセス方法として、偽物の伝票を紛れ込ませている周到さに警戒しつつも、目の前にいる代議士には、何ら疑念は抱かなかった。寧ろ、大臣と同じ、ある種の潔さのようなものを見ていた。 「で、今日、ワタシが此処へ呼ばれた理由は?。」 尋は率直に尋ねた。 「うん。話というのは他でも無い。アナタには率直に話すのが吉かな。大臣への協力をやめて頂きたい。アナタは将来、族議員になるつもりも無いようだし、彼への協力は不必要でしょう。何より、政局には興味が無いはずです。しかし、ワタシはそれが使命。今回の総裁選は、スムースに政権移行を行うことで、党内の不協和音を沈めたい。大臣に立たれては、その作業も難しくなる。余計な出費が嵩んでは、誰にとっても利益はありません。どうです?。」 極めてスマートな申し出だった。理路整然としていた。しかし、尋には、全く以て説得力が無かった。 「確かに、アナタのいわれる通り、何ら意図するところはありません。ボクは純粋に、大臣を応援しているだけです。ですので、それをやめろといわれても、すぐにそんなふうな考えにはなれません。」 「そうですか・・。一応、うんといってもらえる用意はしてあるのですが。」 そういうと、代議士は部屋の片隅に置かれた紙袋に目を遣った。尋は幾分、その中身を予想はしてみたが、いずれにしても受け取る必要の無い物だと感じると、 「はは。勿論、受け取りません。手ぶらで帰りますよ。」 そういって、代議士の申し出を暗に断った。そして、 「此処まで演出して頂いたのに、何も期待に添えなくてすみません。では、お膳立てをしてくれた人達に、よろしくお伝え下さい。」 尋はそういうと、代議士に一礼して部屋を後にした。 「先生、よろしいのですか?。」 「うん、噂には聞いていたが、それ以上の男だったな・・。」 玄関で迎え入れた秘書と、代議士は尋の器について語った。  建物を出ると、尋はタクシーを拾って省まで戻った。車中、 「やはり、あのような手の込んだ仕込みは、ボクには無理だなあ・・。」 と、自身が探ろうとしていたターゲットには、殊の外、優れたブレインが付いていることを、あらためて感じた。そして、 「切れ者・・かあ。宥め賺しは、全くしてこなかったなあ。その意味では、有能なのかも知れないな。」 と、先ほど会った代議士のことを思い出していた。立ち振る舞いに全く隙が無い。深くは話し込んでいないが、もし彼が、未来のリーダーになったとしても、それはそれで頷ける。そういう雰囲気だった。ただ、正攻法とはほど遠い手法が好きなのも、同時に知ることが出来た。  省に戻った尋は、数時間の間に溜まった仕事に着手した。そして、一頻り作業をした後、珈琲を飲みに休憩室に向かおうとしたとき、 「おい、聞いたかよ?。例の治水工事の件。」 「ああ。何でも、工期が早まったらしいな。」 「選挙結果を待たずに、勢い付いた大臣がぶち上げたらしいぞ。」 「じゃあ、もし選挙に勝てば、」 「今月中にでも着工じゃ無いか?。」 パーテーションの向こう側で、同僚達が話している内容を、尋は耳にした。 「あの辺りの工事を進めるとなると、確か彼女の実家が・・。」 尋はコーヒーを飲みにいくのを取りやめて、楓さんに連絡をしようと試みた。しかし、どうしても連絡が取れなかった。 「うーん、大臣に直接聞くしか無いか・・。」 と思っていたその時、 「先輩、課長が探してましたよ。出前がどーとかって。」 と、廊下で尋を見つけた後輩が、例の出前の件を伝えに来た。 「解った。課長にはボクは早退したっていっといてくれ。」 そういうと、尋は食堂に向かった。そして、厨房に頼んで夕飯と飲み物を適当に作ってもらうと、それを岡持に入れて、大臣の執務室に向かった。 「コンコン。失礼します。出前をお持ちしました。」 尋は慣れた段取りで大臣の部屋に入ると、秘書に挨拶をして、そのまま岡持を持って奥へ進んだ。 「おう、来たか。」 「お待ちどうさまです。」 二人はソファーに座って夕飯を取りながら、戦況について話し始めた。 「どうです?、首尾は。」 「うん。思ったよりも、反応はいいな。」 「それは良かったです。」 「それはそうと、敵陣営に探りを入れたらしいな?。」 「え?、何故それを?。」 大臣の言葉に、尋は驚いた。 「はは。向こうからいってきたよ。なかなかの男が出向いてきたってな。」 「そうでしたか。別に、相手の陣営に飛び込んだ訳では無かったんですが・・。」 尋はそういうと、少し前の代議士との経緯を大臣に話した。 「ほほう。手の込んだおびき出し方をするもんだな。」 「ワタシも正直、驚きました。ですが、ワタシも下手に探りを入れるよりは、直接会って話せた方がいいと思っていたので、逆に丁度良かったです。」 そういうと、尋はアジフライに齧り付いた。 「で、どうだったね?。彼は。」 「噂通り、切れ者というか、隙が無い感じですね。脇を固めている連中も、相当な感じはしますね。」 「ま、いずれは天下を取る器だろう。それはワシも認める。逆に、ワシは今回が最後だ。例え勝てずとも、戦えたならそれで十分。ワシは顔は広いが、如何せん、天下取りには頓着が無かったから、この歳になってしもうた。大臣までなれたし、ワシを推してくれた者に十分恩も返したから、別にええと思っとったが、君に会ってから、妙に心がざわついてなあ。無論、いい意味でじゃよ。」 そういうと、大臣はアジフライと一緒に白米をかき込んだ。尋も大臣の言葉に、何ともこそばゆい感じはしたが、戦いは終わってない以上、勝つ気で臨むのが筋と考えた。 「それはそうと、大臣。治水工事の件についてなんですが、伺ってもいいですか?。」 尋は肝心な話を切り出した。大臣は、少し困り顔だったが、 「うん。キミになら、構わんよ。」 と、小声で答えた。 「何でも、早急にあの辺りの工事を始めるという噂を聞いたんですが。」 「うーん、それについては、ちょっと訳ありなんじゃが・・。」 「此処で話す話では無いなら、席を変えましょうか?。」 「いや、それもちょっと、マズいんだ・・。」 大臣の箸が止まった。相当訳ありなようだった。その様子を見て、尋は敢えて尋ねないようにした。しかし、 「実はな、工事については進める段取りにしてはおる。ワシの管轄だしな。ただ、それを進めると困るという声も、正直、内々にあってな・・。」 大臣は腹を割って話してくれていると、尋は察した。そして、 「楓さん・・ですか?。」 と、単刀直入にたずねた。大臣は仰天した。 「知っておったのか?。ワシと彼女のことを。」 今度は逆に、尋の方が仰天した。まさか、単に投げかけた質問に、それ以上のゴシップが帰って来ようとは。しかし尋は、 「いえ、初めてお会いした例の座敷にいたのが彼女で、その後、彼女の実家の辺りに仕事で出向いた時、あの辺りが工事の際に引っかかってくるエリアかなと思いましたので。」 と、仕事のいきがかり上での出来事と、サラッと流そうとした。 「そうだったか・・。ちょっとマズいことを口走ったなあ。まあいい。君には話しておこう。」 しかし、大臣は殊の外、その話については特に抵抗無く尋に打ち明け始めた。 「ま、話せば長いが、実はかなり以前から、ワシは彼女と懇ろになってな。色香だけじゃ無く、なかなかの才女でな。」 「はい。」 尋は大臣が語る以上に、既に彼女のことは知っていたが、それを悟られまいと、淡々と返事をした。 「で、そもそもは、あまり実家のことを良く思ってはいなかったらしいんだが、やがては自分が継ぐことが決まると、ワシにあの辺りの工事の差し止めをいってきてな。じゃが、それよりも前に、工事の話は決まっておったからなあ。彼女の願いを、ワシの一存でひっくり返しては、何もかもバレてしまうし、何より、そんな恣意的なことで国政を歪めていいのかという話にもなりかねんしなあ。苦慮はしたよ。で、結局、それは出来んと、彼女には謝ったんだが、それ以来、我々の仲は・・・、」 「そうでしたか。立ち入ったお話を、どうもすみませんでした。」 尋は大臣がわざわざそんなことまで話してくれたことを申し訳無く思い、何となく詫びた。今は自身が彼女の男であるという負い目も幾分あった。 「いや、キミが謝ることでは無い。他にいい出せず、ワシも悶々としとった所でな。聞いてくれて、有り難うよ。」 大臣は、本当に気のいい人だった。腹に何も無いとは、正にこの事だった。しかし、尋には一つ、腑に落ちないことがあった。 「あの、大臣。立ち入りついでに一つだけ伺いたいのですが?。」 「ん?、何だね?。」 「先ほどの、工事の中止が出来ない旨を彼女に伝えた件なんですが、それは、いつ頃ぐらいの話ですか?。」 尋は、彼女が自分のことを大臣に引き合わせようとしていたのに、実は大臣との関係が終わっていた点に、何となく矛盾を感じていた。普通なら、そういう間柄だった男に自身を引き合わせるだろうかと。 「うーん、確か、一年ほど前のことだったかな。それが何か?。」 「いえ。ちょっと思い当たることがあったもので。別に大したことでは・・。」 そういって、尋はその話題を止めた。 「さて、総裁選も終盤です。最後の詰めに入りますか。」 「うん、そうだな。あ、ちょっと待ってくれ。」 大臣はそういうと、隣の部屋にいる秘書官達を呼び入れた。そして、二人は過去のことよりも、今目の前にある最大の課題に、みんなと取り組んだ。  最終日、尋は省の仕事を早退して、議員会館周辺で大臣の呼び出しを何時で設けられる体制を取っていた。情勢は殊の外、優勢らしかった。しかし、一旦大臣の側に付いていたと思われた議員の動向が不安定になっている現象が起きていた。尋は早速大臣の部屋に呼ばれた。尋は岡持を持って、大臣の部屋に駆けつけた。 「毎度おー!。」 「おう、ご苦労さん。」 今日は奥の部屋の戸は開けられたまま、秘書官や関係者が慌ただしく、いき来していた。 「さーて、腹ごしらえをしておくかな。」 「はい。」 二人は尋が持って来たランチを食べながら話をした。 「あの、票のいき先が不鮮明なのは・・?。」 「ああ。切り崩し工作じゃよ。こういうことには付き物だ。いくら立派なことを謳っても、確約や念書を取り付けても、やはり最後に物をいうのはコレじゃからな。」 そういうと、大臣は左手の人差し指と親指で小さな輪を作ると尋にだけ見えるように示した。尋は、なるほどと頷いたが、 「やはり、大臣の方でも・・?。」 と、表沙汰には出来ない質問をぶつけた。 「無論、ワシはそんなことはしとらんよ・・。と、いいたいところだが、ワシに聞こえんように、周囲が気を利かせて動いてくれているというのは、あるかな。ワシ一人の所帯では無いし、ワシがこうしておることで、関わるみんなが食えている訳だからな。ま、しかし、万一のことがあったら、一切の責任はワシが被る。そういうもんじゃの。大臣なんて。さ、食おう食おう。」 それを聞いて、あらためてこの人は凄い人だと、熟々感心した。大一番を前に、自身の置かれている立場、身の処し方、そして何より、愛嬌を決して忘れない、見事なまでに担ぎ上げられるべくして生まれた神輿なのだと、尋は思った。尋は食事をしながら、この戦いは、各議員が投票を行う数秒前まで続くのだと、あらためて感じた。隣の部屋では電話が引っ切りなしにかかり、それが終わると、秘書官達はまたすぐに別の所へ電話をかけていた。そして、 「では、いって参ります。」 と、アタッシュケースを片手に出かける秘書官、 「戻って参りました。OKです。」 「ご苦労さん!。」 と、協力を取り付けるべく奔走するスタッフの声が丸聞こえだった。  選挙終盤の本丸では、いちいち票集めの裏取引など隠し立てしている暇も無いのであろうことは、尋にも察しはついた。しかし、それにしても、余りにもあからさまであったことに、 「流石にこれはマズいのでは無いか?。」 という感慨が頭を過りつつも、これこそが、この世界の本質、安っぽい正義感では物事は動かないと、尋自身も腹を括った。 「どうだね?、尋君。」 「はい。検察が知れば、飛び付いてくるでしょうね。」 「そうだな。だから万一、内情が知られたとしても、騒動が最小限になるように根回しもするんだが・・、」 「それをやっては、おられないと?。」 「ああ。もし、尻尾を掴まれたら、向こうからアプローチしてくる。挙げる前に、揺さぶりをかけてくる。」 「脅し・・ですか?。」 「いや。れっきとした交渉だ。ヤツらも役人だ。昇進に必要な足場固めを求めて、常に動いている。ま、そういう餌場でもあるかな。選挙というのは。」 「餌場ですか・・。」 こういう状況も、角度を変えれば、もたれ合い、あるいは腐敗と呼べなくも無いのだろう。しかし、それを改善すべく、声高に正義を謳うのも、尋には何か安っぽく思えた。 「さて、此処まで知り得たキミは、一蓮托生という訳だな。」 そういうと、大臣はニヤリとした顔で尋を舐めるように見つめた。しかし、尋は既に腹を括っていたので、 「勿論です。」 と、あっさりと答えた。 「ははは。冗談じゃよ!。キミをそんな目に遭わせるものか!。どこまでも豪胆なヤツよ。ははは。」 尋は一瞬、肝を冷やした。と同時に、なんと清々し悪党なんだろうと、大臣のお茶目な言動に更なる親近感を覚えた。自分には決して迷惑をかけない、最後まで自らが責任を取るという姿勢が、こんな状況に置いてさえ顔を見せた。 「さて、此処から先は、深入りせん方がいいだろう。色々、有り難う。協力に感謝するよ。」 そういうと、大臣は尋の手を取って固く握手を交わした。 「こちらこそ。どうも、色々有り難う御座いました。では、幸運を。」 まだまだ慌ただしい状況が続きそうではあったが、尋は自身を選挙戦のスタッフと位置付けてはいなかった。あくまで、大臣の知恵袋的なスタンスでいようと思っていた。後は翌日の投票日まで高みの見物を決め込もうと尋は考えていたが、自身が思うほど、周囲は彼を放ってはおかなかった。小に戻ると、 「先輩、この番号に連絡をくれという方から二度電話がありましたが。」 「そうか。有り難う。」 後輩が手渡してきたメモの番号は、興信所の友人のものだった。尋は受話器を取って電話をかけようとしたが、 「ま、オレの選挙戦は、もうお終い・・かな。」 そういいながら、受話器を置いた。しかし、大臣のところで動き回っていた秘書達の余熱のようなものが少なからず尋を突き動かしていた。尋は仕事を終えて省を出ると、近くの公衆電話から楓さんのいるであろう座敷に連絡を取った。 「もしもし、尋です。忙しいところ、ゴメン。」 「ううん。いいの。何?。」 「今日、会えるかな?。無理だったらいいけど。」 「うーん、少し遅くなるけど、十二時ぐらいで、どう?。」 「OK。解った。じゃあ、後で。」 尋は近所の書店で時間を潰した後、例の喫茶店で閉店間際までコーヒーを飲みながら、彼女を待った。 「お客様、ラストオーダーになりますが?。」 「あ、ゴメン。もう出ますから。」 そういうと、尋は支払いを済ませて喫茶店を出た。と、そこに、 「御免なさい。待った?。」 と、小綺礼な洋装姿の楓さんが駆け寄ってきた。 「ううん。他で時間を潰して来たから。」 「そう・・。」 二人は言葉少なに歩きながら、近くにあるホテルの入り口まで来ると、チェックインした。部屋に入るなり、二人は激しく抱き合った。と、その時、尋は石鹸の香りに混じって、微かに覚えのある匂いを感じた。 「白檀・・?。」 すると、 「先にシャワー浴びてきていい?。」 というと、彼女は上着を脱いで浴室に入っていった。まあ、仕事帰りに直接では無く、一汗流してから来るのは不思議では無い。あるいは、仕事柄、一度誰かと会ってから此処へやって来るのも、無い話ではない。だが、あの香り、白檀の香りは、偶然だったのだろうかと、尋の心はざわついた。そうこう考えているうちに、バスタオル姿の彼女が戻ってきた。 「じゃ、ボクも。」 尋は全てを洗い流そうと、浴室に向かった。そして、こざっぱりした表情になって戻って来ると、二人は寝室で激しく求め合った。心なしか、優しく求め合う人間的な風では無く、まるで野生そのもの本能に忠実な荒々しさが、二人のうねりに拍車をかけているようだった。そして、燃え盛った炎が閃光を放ったかと思うと、二人はそのままベッドに倒れた。そして、互いに優しく口付けを交わしながら、 「ねえ、大臣先生、勝てると思う?。」 と、いきなり総裁選の話題を振ってきた。 「どうして?。」 「だって、アナタ、ブレインとして協力してたんでしょ?。」 「いや、そんな大層なものじゃ無いよ。ただ大臣と時折話してただけさ。」 「そう・・。」 彼女は何か尋が素っ気ない様子なのに気付くと、 「アタシね、実は、大臣先生の女だったの。」 と、いとも簡単に白状した。尋は一瞬迷ったが、 「へー、そうだったんだ。」 と、極力、小芝居と気付かれないように、声のトーンに気をつけて返事をした。 「あら、あんまり驚かないのね?。」 「まあ、こういう界隈で暮らす者は、色々あっても然りじゃ無いのかな。」 「ふーん。そんな風に思われてるなんてね。」 尋の様子は、何かと彼女には不自然に映っていたようだった。そして、少し不満げに、 「焼かないの?。」 と、上目遣いに尋を見つめながら、彼女がたずねた。 「焼くって、キミと大臣のことを?。」 彼女はじっと尋を見つめていた。 「うん。そりゃ、何とも思わないといえば、嘘になるかな。でも、今聞いたところだし、キミの魅力に、いい寄らない男の方が少ないんじゃないのかな。」 尋の言葉を聞いて、彼女はようやく微笑んだ。そして、 「アナタって、不思議な人ね。そんなに性に対して大らかだなんて。」 彼女がそういったとき、 「それは違うよ。」 といいながら、彼女を抱き寄せて唇を重ねた。そして、 「ボクはキミだけさ。」 と、少し微笑みながら、しかし、真剣な眼で彼女を見つめた。すると、 「馬鹿。」 と、彼女は目を潤ませながら、照れ笑いを浮かべた。しかし、その奥には微かに戸惑いが覗われた。 「さて、明日は開票作業か。あ、さっきの返事だけど、ボクはやっぱり、大臣には勝って欲しいとは思うかな。勿論、協力したってのもあるけど、あの人なら、本当に現状を変えながら、新たな未来をマジで創っていきそうな気がするな。」 そういいながら、尋は帰り支度を始めた。 「そうね。いい人であるのは、間違い無かったしね。」 彼女も、意味深な表現をしたあと、それでも大臣の事を暗に応援している様子が窺えた。二人は身支度を調えると、部屋を出る間際に再びキスをした。 「じゃ。」 「ええ。」 二人はそういうと、時間差を置いて別々にホテルから出て、別々の方向に歩いていった。別れ際の挨拶に、尋は再会の言葉を加えなかった。帰り支度の祭に、自身のカバンの中身が僅かに変わっているのに気付いていた。 「詮索も芝居も、得意じゃ無えな。オレ・・。」 彼女は確かに魅力的だった。同時に、彼女には尋について何かを知ろうとする必要性があったのだろう。状況証拠がそれを自ずと物語っていた。そんな葛藤の中で、ステディな関係では無く、程よく距離を置くことが、今の尋に出来る精一杯のことであった。尋は裏通りを歩いていると、 「よう。」 と、横を通り過ぎる車の中から声をかける人物がいた。 「何だ。オマエか。どうした?。」 旧友の探偵だった。 「それより、オマエ、こんな時間にこんな所で、何してたんだ?。ああ、いわなくても大体察しはつくよ。それより、これからちょっと面白いショーが始まるけど、見にいくか?。」 そういうと、旧友は尋を助手席へ誘った。 「ショーって?。」 「ま、いいから見とけって。」 旧友は建物の陰に車を止めると、前にある料亭に目を遣った。すると、五分から十分刻みに、スーツ姿の男達が荷物を小脇に抱えたまま、忙しく出入りしていた。 「何だ、ありゃ?。」 「実弾ってヤツさ。現ナマだよ。」 「金か。」 「ああ。最後の最後まで、票集めに必死なのさ。」 旧友は仕事柄、この時期にこのようなことが起きるのは、お見通しの様子だった。すると、 「あ!。」 見覚えのある秘書官が出入りするのを見つけて、尋は思わず声を上げた。 「撮ったりしてんのか?。」 「するかよ。そんな危ねえ。だが、他所は知らねえよ。」 確かに、料亭の周囲には旧友の車と同じように、距離を開けて停車している車が何台もあった。そして、中には誰かが乗っていて、何をするでも無く、ただ様子を窺っているようだった。 「金のあるところは、赤外線暗視カメラで撮影中だろうけど、オレは依頼の無いことはしない。もし勝手にネタを拾って、それを元に近付いても、だたの脅迫罪だからな。オマエも気をつけろよ。もし、ご執心の大臣が総裁にでもなったら、オマエは確実に被写体候補ナンバーワンだぜ。」 「よせよ。オレには、そんな興味なんか無えさ。」 「オマエが無くても、周りが放っておかねえよ。」 「さて、オレは明日早いから、この辺で帰るぜ。じゃあな。」 そういうと、尋は旧友に別れを告げて、車を降りて歩いていった。 「それにしても、みなさん、まあ、大変なことで・・・。」 尋は、まるで人ごとのように呟くと、タクシーを拾って、そのまま帰っていった。今後、自身の身に降りかかることなど、知る由も無かった。  翌日、尋が出勤すると、備え付けのテレビの前には既に人だかりが出来ていた。 「何だ、こりゃ?。」 尋がたずねると、 「総裁選ですよ。知らないんですか?。」 後輩が不思議そうに尋を見た。 「あ、そっか。」 尋は前日までにやるべき事はやったという自負と、それ以上は何かやったところで、どうなるものでも無しといった感じで、自身のデスクに付くと、仕事を始めた。 「先輩、どうなると思います?。」 「知るかよ。そんなこと。」 「え?、だって、だって先輩は大臣の子飼いだったんでしょ?。」 「何だそりゃ?。」 尋は自分が大臣に呼ばれて留守をしている間に、そのようなレッテルを貼られていたことに不快感を示した。 「ま、好きにするさ。」 尋が仕事を始めると、もう一人、みんなの騒ぎを他所に、斜め向かいのデスクで冷静沈着に仕事をしている同僚がいた。尋は彼の存在が少し気になったが、そのまま仕事を続けた。投票は午後からだというのに、省内は仕事をさぼる口実でも欲しかったかのように、ちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。確かに、新たな組閣後、担当大臣が替わってしまったら、人事を含め、省内がガタつくのは必至だった。だが、そのことを、官僚達がとやかくいったところで仕方が無い。公僕とは、人事が定まって以降も、従順に仕事をする存在。そのことに、何ら変わりは無いと尋は考えていた。昼の休憩に入ると、騒ぎは心なしか大きくなった。 「どっちが勝つか、賭けようぜ!。」 「オレは大臣に!。」 「オレは若手に!。」 節操がない状況を尻目に、尋はとっとと昼食のために中座した。 「どうも。」 と、尋は食堂のスタッフに一礼すると、定食を選んで空いてる席まで運んだ。どうやら此処でも選挙戦を待っている連中がテレビの前に陣取っていた。尋は黙々と、焼き魚と白米を交互に食べながら、 「やっぱり、此処の飯は美味いよなあ。」 と、一人、堪能していた。そして、食べ終わってお茶を飲みながら、 「このまま戻っても、此処と同じく、騒ぎ・・かな。」 仕方なく、尋はその場でゆっくりと茶を飲みながら、テレビから一番遠い席で状況をも守ることにした。やがて、報道特番がはじまると、 「おー!。」 という、妙に低い歓声が上がった。尋は昨日までのことを思い出しつつ、 「まあ、賑やかしの選挙戦、別に勝たなくてもいいとはいってたけど、最後には、大臣もスタッフも真剣そのものだったなあ・・。」 と、気がつけば自分も内心、大臣が勝つことを暗に望んでいた。しかし同時に、例の切れ者代議士の顔を思い出しつつ、 「虎視眈々とは、ああいうのを、いうのかも知れないな。」 と、現実的には若い彼が勝つシナリオを具体的に描いていた。そして、投票作業が終わると、票の集計が静かに行われていた。画面の中も食堂内も、妙な緊張感と重苦しさが漂っていた。そして、 「えー、集計結果を報告いたします。」 みんなは固唾を呑んだ。尋は一人、食堂の茶碗で茶を飲んでいた。すると、 「おーっ!。」 「マジかあ!。」 と、どよめきとも歓声ともつかない声が食堂内に響いた。何と、大臣が僅差で切れ者代議士を下したのだった。尋は思わず茶を零しそうになった。 「・・・何が起きたんだ?。」 尋は狐につままれたような表情で、固まってしまった。そして、少しずつ正気を取り戻すと、一人静かに状況分析を始めた。 「確かに大臣は、才覚はある。人柄もいい。しかし、寝技はあまり上手くない。実直さの勝利か、包容力の勝利か、それとも実弾が効いたのか・・。解らんなあ。」 「以上をもちまして・・・、」 尋の黙考を他所に、投票終了のアナウンスと、後の万歳三唱が流れる中、テレビ前にいた連中は続々と昼休みを終えて各部署に戻っていった。食堂には尋一人が取り残された。 「ま、天が大臣に味方したってことか。」 そんな風に落とし所を見つけると、尋は食べ終わった食器を厨房の所まで持っていった。すると、 「おめでとうございます。」 賄いの女性スタッフが声をかけてきた。尋はお礼をいうのも妙な感じがして、気後れした。すると、 「アナタが大臣のところにせっせと食事を運んでたでしょ?。その後で、毎回、大臣先生が直接来られて、ご馳走様でしたって、礼をいいに来られてたんですよ。」 と、此処でも大臣の人柄を覗わせる話と聞くことが出来た。それを聞いて、 「そうでしたか。どうも有り難う御座いました。」 と、尋は大臣に代わるでも無く、ひとりでに礼をいった。と同時に、 「だから、選ばれたんだ。なるほどな。」 と、一人でしみじみと込み上げてくるものを噛みしめながら、部署に戻っていった。お祭り騒ぎは終わり、これで静かに仕事が再開出来ると思った尋は、斜め前の同僚が席を外しているのに気がついた。 「あれ?。彼は?。」 尋は近くにいた後輩にたずねた。 「それが、何か電話がかかってきた途端、血相を変えて出ていきましたよ。」 とのことだった。このとき、尋には言葉には出来なかったが、妙な予感のようなものを感じていた。  大臣の与党総裁の就任会見や、その後の首班指名等の頃には、省内もすっかり元通りに落ち着いていた。誰がやって来るのかさえ解れば、後はスタンスを決めて仕事に取り掛かる、それが役人の関心事だった。尋もいつも通りに仕事を片付けると、さっさと帰って、これまでの疲れを癒やそうと思っていた。と、其処へ、 「おい、尋君、出前の連絡がまた来てるぞ。」 と、課長が慌ただしくやって来た。 「え?、またですか?。勘弁して下さいよ。」 そういうと、尋はそのまま省を出ると、食堂へは寄らずに、大臣の執務室まで直行した。そして、記者団が張り付いているドアの辺りまで来ると、 「ちょっとすいません。失礼します。ちょっとすいません。」 と、間をすり抜けながら、ドアの前まで来てノックをした。 「失礼します。尋です。」 記者団は、彼が何者か、全く解らなかった。と、ドアが開き、 「あ、尋さん。大臣がお待ちです。どうぞ。」 と、秘書官が出迎えてくれた。カメラマンはドアの隙間から少しでも何かを撮影しようとしたが、ドアはすぐに閉められた。 「この度は、御目出度う御座います。」 と、尋は部屋に入るなり、秘書達にお祝いの言葉を述べた。すると、全員、尋の方を向いて、 「この度は、どうも有り難う御座いました。」 と、にこやかに、そして、深々と礼をした。尋が恐縮していると、 「おお!、待ってたぞ!。ささ、こっちへ。」 大臣が待ちかねたように、尋を奥へ誘った。 「大臣、この度は、ご当選、御目出度う御座います。」 と、尋は一礼した。すると、大臣は静かに尋の元に歩み寄ると、 「いや、我々の勝利だよ。御目出度う。そして、有り難う。」 と、尋の右手を固く握って握手した。 「今日は、出前持ちの格好では無いな?。」 「はい。この後、食事会やら宴席で、大変でしょうから。」 「はは。相変わらず、気が利くなあ。実は、その通りなんだ。なので、申し訳無いが、余り時間が取れなくてな。しかし、キミにはどうしても会って、共に祝いたかった。」 そういうと、大臣は戸棚の奥に仕舞ってあった、如何にも高級そうな酒とグラスを二つ持ってくると、瓶の封を開けて、それをグラスに注いだ。 「スタッフとはもう乾杯は済ませてある。これは我々だけの祝杯だ。そして、キミへのお礼の杯だ。」 そういうと、大臣は片方のグラスを尋に差し出し、もう片方のグラスを持つと、グラスを軽く当てて、二人で乾杯した。これまで飲んだことの無い芳醇な味わいと香りが、尋の口いっぱいに広がった。 「わーっ!、流石に美味いですね。」 「うん。ワシも飲むのは初めてだが、これは凄いな!。こういう時だからこそ、なお美味い。正に美酒だなあ・・。」 「本当ですね・・。」 二人はゆっくりと酒を味わった。 「キミの口車に乗せられて、此処までは来た。だが、本番は此処からだ。」 大臣はしみじみと語った。 「乗せられたのは、ボクの方です。ボクはこういう政にな全く疎い人間でしたが、何か妙に絆されて、ついお手伝いしたくなりました。」 「正直なところ、キミはワタシが勝つと思ったか?。」 大臣は尋の目を見ながらたずねた。 「いえ、現実的には厳しいとは思いました。しかし、」 「しかし?、」 「勝利の女神が清々しさを望まれるのだったら、可能性はあるかなとは、考えてました。」 「ほほー。まあ、確かに、妙な駆け引きは一切しなかったというか、こちらから蹴ったからなあ。逆に、誰が本気なのか、よく見えた戦いだったよ。それを元に、そのまま組閣に入れば、最高の布陣で臨めるな。」 そういいながら、大臣はグラスに口を付けた。そして、 「どうだ。キミも大臣に名を連ねる覚悟は出来たか?。」 と、突然尋にいった。尋は思わず、口にした酒を吹き出した。それを見て、 「ああ、勿体ない。ははは、冗談だよ、冗談。」 大臣は愉快そうに笑った。尋も吹き出した酒を拭きつつ、二人して大笑いした。 「では、大臣。ボクはこれで。」 尋は、大臣のタイトなスケジュールに配慮して、早々に執務室を引き上げた。帰り際、大臣以下、全てのスタッフが、再びにこやかな表情で、深々と頭を下げた。尋も祝いの気持ちを込めて、深々と頭を下げると、部屋を後にした。すると、 「ちょっとおたずねしますが、大臣とはどういうご関係ですか?。」 と、尋は待ち構えていた記者団に、早速取り囲まれた。 「えーっと、あ、そうだ。ただの飲み友達です。」 と、酒臭さを隠しても仕方ないと思いつつ、尋は思いつくままに、記者団にそう答えた。記者達が呆気に取られていると、 「では、ボクはこれで。」 といいながら、再び記者の間をすり抜けて、元来た道を帰っていった。ほろ酔い気分に浸りながら、尋は帰りの道すがら、 「一晩で景色ががらりと変わることも、あるってことかな。ま、オレには関係無えや。」 そういいながら、妙に温かい心持ちで歩いていった。空には微かに雲のかかった月が浮かんでいた。  少なからず楽しい気分を自分一人で味わうよりも、 「ちょっと連絡を取ってみるか・・。」 と、尋は楓さんに公衆電話から電話をかけてみた。 「すいません。楓さん、今日お座敷お休みにしてるんです。」 以前に連絡先を聞いていた置屋の女性がそう答えた。その後も連絡は取ってはみたが、メッセージを残しても返事が来ることは無かった。そんな日が数日続いたある日、尋は大臣の組閣の様子を職場のテレビで見ていた。 「いよいよ、始まるのか・・。」 尋は停滞していた日本が、少しずつ動き始める様子を想像していた。と、そこへ、外出先から戻ってきた同僚が尋の横を通り際に、ニヤッと笑いながら尋を一瞥した。総裁選終了後は慌ただしく席を立って、顔を合わせることは無かったが、今日は妙な余裕さえ見せていた。尋は気にせず仕事を続けようとデスクに戻ったが、また課長がやって来て、 「尋君、キミに緊急の用事だそうだ。」 と、電話が入っているのを伝えた。また大臣、いや、総理からかなと思いつつ、尋は電話に出た。 「もしもし、尋です。」 「オレだ。」 声の主は旧友の探偵だった。 「どうした?。」 「今すぐ抜けられるか?。」 「ああ、別に構わんが。」 「下で待ってる。」 そういうと、旧友は慌ただしく電話を切った。尋も何事かと思い、後輩に暫く席を外す事を告げると、一階に下りていった。 「よう。どうした?。」 愛想良く右手を挙げる尋とは対照的に、旧友は尋の腕を掴むと、大きな柱の陰に引っ張り込んで、 「お前、何をやった?。」 と、真剣な表情で尋をじっと見つめてたずねた。 「何って、選挙のことか?。」 「ああ。」 「別に、挨拶回りの順番とか、イメージ戦略とか、そういう話し合いぐらいかな。それが何か?。」 旧友は辺りを見回して、誰も近くにいないことを確認すると、 「大臣、挙げられるぞ。」 と、深刻そうに尋に告げた。 「何だそれ?。一体、何で?。」 尋は余りに突然なことで、何が何だか見当が付かなかった。 「確かに選挙に実弾は付き物だが、今回、総裁の椅子を手に入れるのに、相当な額が動いたんじゃないのか?。」 「いや、それは無いだろう。仮にあったとしても、通常の額程度じゃ無いかな。で、その情報、何処から?。」 尋は怪情報の可能性も考えつつ、旧友に尋ねた。すると、 「検察だよ。」 「検察?。」 「ああ。通常なら絶対に漏れない。だが、オレの出身母体を知ってるよな?。」 「検察庁だったよな。」 「そうだ。だから、一大スキャンダルが世に出る前に、仲間がオレに連絡をくれた。」 尋の表情も、一変して険しくなった。 「でも、嫌疑は何だ?。」 「ま、買収の線だろうな。ただ、問題はその資金の出所だ。大臣先生、建設業界と随分昵懇だったろ?。その辺りからの資金の流れが克明に漏れたらしい。お前、確か、最近建設絡みの仕事、担当してたよな?。」 「ああ。」 「に加えて、今回の総裁選。何かタイミングが良すぎると思ってな。」 「内通ってことか?。」 「うん。通常なら、よくある献金ってことで迂回路でも噛ませば済むことだが、今回は狙い撃ちのように情報が出て来たらしい。お前の身辺で、最近、変わったことは無かったか?。」 旧友がそうたずねると、尋はここ最近にあった妙な出来事を彼に話した。省内での書類を誰かが勝手にトレースしていた件や、切れ者代議士と対峙した件、そして、この際と思い、尋は楓さんのことも彼に打ち明けた。 「お前、随分脇が甘いな・・。それじゃあ、どこから何かが漏れたとしても、おかしくないな。」 「おい、オレはこの件に関しては白だぜ。実行部隊が忙しく動いてる様子を端で見ることはあったが、今携わってる仕事や大臣との関係を含め、何も受け取ったりはしてねえぞ。」 「だろうな。だが、この世で最も証明するのが難しいことって、知ってるか?。」 尋の潔白をアピールする言葉を他所に、旧友が妙なことを聞いてきた。 「証明するのが難しい?、何だそりゃ?。」 「無かったことを、無いと証明することだ。あったことを無いといっても、無かったことをあるといっても、それは虚偽だ。しかし、そこには真偽は別として、あったということを証明する行為が入るから、既に起きていたことを語るか、あるいは作ることが可能だ。だが、無かったという真実を証明する方法は無い。」 「じゃあオレは、嵌められたってことか?。」 「まだ解らんが、そうなる可能性は高い。」 「じゃあオレは、どうすれば・・って、考えた所で仕方ないな。だって、何も無えんだからな。ま、来るなら来いって感じかな。」 尋は暢気に構えていたが、旧友は深く眉間に皺を寄せて、 「検察の調べはキツいぞ。ま、お前はのらりくらりといく作戦だろうが、絶対に音を上げるな。いいな。」 「何でだ?。根負けして、ゲロしてもおかしくないんだろ?。だったらオレは別に正義を貫くつもりも無えし、捏造された調書にサインしても不思議は無いよな?。」 「そんなことしたら、お前のキャリアに傷が・・、」 飄々とした尋の表情を見て、旧友はいいかけた言葉を飲み込んだ。 「そういうのは、お前には関係無かったな。」 そういうと、彼は尋の肩をポンと叩いて、その場を立ち去ろうとした。が、急に立ち止まると、 「余談だが、もし彼女が一枚噛んでたとしても、恨むなよ。」 そういい残して、彼は立ち去った。  そのニュースは、日付をまたぐとすぐに報じられた。 「現職大臣、事情聴取。」 朝刊の見出しは、どれも一斉に同じものだった。早朝、出勤前の尋の部屋にも、訪問者があった。呼び鈴の音と共に、 「すいません。警察の者です。」 と、魚眼レンズに手帳を提示する刑事の姿が数名あった。 「はい。」 尋がドアを開けると、 「アナタ、総理とご関係がありましたね?。」 「はい。」 「では、こういうのはご存じですね?。」 そういうと、刑事は建設業者が多額の献金を総理に渡したとされる領収書のコピーを見せた。 「いえ、それは知りません。」 「しかし、覚書の欄に、アナタのサインが記されているんですが。」 「はあ?。」 尋は提示されたコピーをあらためて見直した。すると、確かに尋の筆跡らしきサインが、其処には記されていた。 「ほう・・。巧妙に出来てますねえ。」 「巧妙に見えるのは、アナタ自身でサインしたからでは無いですか?。その辺りのついて、伺いたいことがありますので、署までご同行願えますか?。」 「それは、任意同行ってことですかね?。」 「そうです。」 「解りました。」 この時、尋は自身が全くの潔白であり、徒労に終わるのは寧ろ警察の方だと考えていた。総裁選に絡んで、以前から妙な動きが周囲にあったことは織り込み済みではあったし、何が起こっても不思議では無い奇妙さも承知してはいたが、まさか自身が貶められようとは、想像だにしなかった。尋は着替えを済ませると、警察の車両に乗って、署まで一緒にいった。尋は車を降りると、そのまま取調室まで案内された。よくドラマで見るような、灰色を基調とした室内と、窓に嵌められた鉄格子が一般社会からの隔絶を際立たせた。部屋には取り調べを行う刑事と発言を筆記する刑事の二人が陣取り、質問者の刑事は尋の出生や個人に関する情報を事細かに聞きだした。尋は何ら包み隠さず、聞かれるがままに淡々と答えた。 「さて、本題に入りますが・・、」 刑事はいよいよ、偽造された領収書のことについてたずねてきた。尋にしてみれば、全く身に覚えの無いもだったが、それでも、そのことを証明するのが困難なことは、友人にいわれて知っていた。 「あの、これがワタシの書いたサインでは無いということを証明するのは、ワタシの側が行う必要が無いものですよね?。しかし、アナタ側はワタシにそれをさせようとしている。そういうことですね?。」 尋は核心を突いた質問を掲示に投げかけた。刑事は一瞬、顔を引き攣らせて、黙り込んだ。家に詰めかけられた時は、領収書の送り主の名をちゃんと見てはいなかったが、あらためて見てみると、 「あ、例の熊か!。」 と、その名を見て愕然とした。彼が大臣と昵懇なのは周知の事実であった。何より、尋自身もそのことを当事者達から十二分に聞かされていた。故に、これ位のことがあっても、全く不思議では無い。寧ろ、当然の如く出て来たものだろう。だが問題は、誰が尋を嵌めようとしているのかだった。そして何より、今目の前にいる人物は、その手先であるといわんばかりの不自然さであった。しかし、自身の無実を訴えつつ巨悪と戦うという構図は、尋の脳裏には無かった。自身がその渦の中にいることを、尋は知っていたからだった。組織の利益に従順な者達が求めるのは、真実では無く、描かれた通りになる結末だった。尋の推測では、誰がどのような絵図を描いたかの、おおよその見当はついていた。そして、その結末に、如何なるものを求めているのかも、見当はついた。 「刑事さん、これ、ワタシが書いたってことにすれば、どういうことが起こりますかね?。」 尋は妙な質問を刑事にぶつけた。当然、刑事は困惑した。そのような申し出をされるとは、全く予想していなかったからだった。 「ま、その領収書に関しては、贈賄または収賄の共犯ということにはなるな。」 「刑事さん。今、その領収書に関してはって、仰いましたね?。」 尋は、刑事の不用意な発言を聞き逃さなかった。 「ああ。そういったが、何か?。」 「ということは、他にも嫌疑がかけられている、そういうことですね?。」 尋は鋭く突っ込んだ。 「いや、何も、そんなことはいってない。」 刑事はしらを切ろうとしたが、時既に遅しだった。 「あの、じゃあ、取り敢えず、全部の嫌疑を列挙してくれます?。早く片付いた方が、刑事さんも気が楽でしょ?。」 音を上げるまで返さない構えであった刑事は、さらに困惑した。もう為す術が無い。すると、刑事は尋のいいなりになった。 「よし、解った。ちょっと待ってろ。」 そういうと、刑事は一端席を外し、数冊の調書を持って来た。 「本来は、一つずつの事件に関して取り調べを行うのが筋なんだが・・、」 そういいながら、刑事は全ての嫌疑に関して、尋が仲介的な役割を担っていると述べた。あまりの策略っぷりに、 「へー、こりゃ凄いなあ・・。もしこれが事実だとしても、一度にこれだけ携わることは物理的に不可能だなあ・・。」 と、尋も呆れながら感嘆した。此処まで来ると、陥れ方が杜撰としか思えないほどの、真に荒いシナリオだった。そして、全ての嫌疑について尋が目を通すと、 「これらって、全てワタシが仲介したに過ぎないってことになってますよね?。」 「ああ、そうだが?。」 「じゃあ、もし、これらをワタシが全て手動して、ワタシ自身が行ったってすれば、これらの事件に関して逮捕、起訴されるのはワタシ一人ってことでいけますか?。」 尋は奇妙な申し出を刑事に行った。 「何だと?。全てをキミが被るっていうのか?。」 「ええ・・、というか、ワタシがしたことです。そう、調書を訂正しておいて下さい。」 尋は、目の前の刑事達は、所詮、手先にしか過ぎないことを知っていた。彼らは事件が立証されれば、面子は立つ。ただ、そうすることで、尋を嵌める策を練った連中は、その後に控えた大物の逮捕というシナリオは叶わないことになる。尋は其処を狙った。 「うーん、キミはそれでいいのか?。」 「はい。というより、その方が、アナタ方にとっても都合がいいでしょ?。もし、ワタシを皮切りに、さらに大事になっていったら、事は長引くし、アナタ方の上の者が首をかけて動かざるを得なくなる。そうなると、政局も混迷して、国全体に不安が広がる。もし、その流れが治安の安定を損ねることにまで及んだら、アナタ方の威信にも関わるし、何より、アナタ方の最も望まない国家の形になると思うんですが?。」 これには刑事達も度肝を抜かれた。取り調べを行っている刑事は筆記の刑事に耳打ちをし、そして、二人は難しい顔をして黙り込んだ。 「あの、ワタシは完全に自白したので、取り調べをスムースに行って下さい。さっきいった線で、全て認めますので。逃亡のおそれ等があるとお思いなら、拘留してもらっていいですよ。」 尋のあまりにも淡々とした態度に、刑事達はますます混迷を深めた。 「ちょっと待っていたまえ。」 そういうと、刑事達は取調室を出ていった。流石に気が抜けたのか、尋も、 「ふーっ。」 と溜息を吐きながら、肩の力を抜いた。 「それにしても仕事が速いな。ヤツら。どうしても、大臣を失脚させたいから、躍起になってるのかな。」 そういいながら、尋は窓の外を眺めた。日差しが真っ直ぐに尋に差し込んでいた。そのまま、もう誰も戻ってこないのでは無いかと思うほどの時間が過ぎた。すると、 「待たせてすまなかった。キミに会いたいという人が来ている。」 そういいながら、一人の刑事が戻ってきた。そして、その後ろを一人の男性が付いて来た。 「こんにちは。大臣の顧問弁護士をさせてもらっている者です。」 「あ、どうも。」 二人は初対面では無かった。尋が出前で伺った執務室で、何度か顔を合わせたことがあった。尋と弁護士は互いに軽く会釈をした。 「キミには弁護士と接見する権利がある。二人でよく話し合うといい。」 刑事がそういいながら部屋を出ようとした時、 「あの、ワタシは権利を行使するとは一言もいってませんが?。」 と、尋は相変わらずのスタンスを貫こうとした。しかし、刑事が尋に近付いて、耳元で、 「頼むから、弁護士さんと話をしてくれ。な?。」 と、尋の肩に手を置きながら、右手で尋を拝むような格好で、そういった。余程困っているであろう刑事の様子を見て、 「解りました。」 と、尋は承諾した。そして、部屋には尋と弁護士の二人きりになった。 「この度は、とんだ目に遭わせてしまって誠に申し訳ないと、大臣、いや、総理が仰ってました。」 「いえいえ、そんな。」 弁護士は大臣からの言葉を尋に伝えた。尋は恐縮した。 「もしこのまま、アナタが逮捕されるようならが、当然、それは不当逮捕なので、アナタはすぐに釈放されます。何の心配も要りません。」 そういうと、弁護士はすぐにも尋を自由にする手続きを行おうとした。しかし、 「あの、ですが、それだと贈収賄の事実だけが宙に浮いてしまって、結局何らかの形で争うことにはなると思うんですが?。」 「まあ、それはそうですが。」 「じゃあ、さっき刑事さんにも話したんですが、ワタシが一切を行ったって線で、いってもらえませんか?。」 と、尋は逆にこの状況を利用しようという考えを弁護士に伝えた。弁護士は驚きながら、 「それをアナタにさせてはならんと、大臣は辞職の用意をしてお待ちです。」 と、実直な大臣の決意を尋に伝えた。しかし、 「でしょう?。だからです。恐らく、大臣もワタシの考えを理解しておられると思うので、此処は、国家安寧のためにも、その線でいきましょうと、もう一度大臣にお伝え願えませんか?。」 と、尋は相変わらずひょうひょうと、刑事に示したのと同じスタンスで弁護士に語った。弁護士は、やれやれという表情をしながら、 「何度か拝見した時から感じてましたが、アナタと大臣は、本当に、似た者同士ですな。先々までお考えになられて、誠に頭の下がる思いです。」 そういうと、弁護士は尋に向かって深々と頭を下げた。それを恐縮する尋に対して、 「解りました。今のお言葉、大臣には伝えておきます。ワタシは一端引き上げますが、決して悪いようにはしませんので、どうぞ、ご心配無く。」 そういうと、弁護士は尋の手を取って、固く握手を交わした。 「では、よろしくお願いします。」 と、尋は弁護士を見送りながら言葉をかけた。すると、 「もし、アナタが大臣になられたら、いや、そうで無くても、ワタシはアナタにお仕えします。では。」 そういうと、弁護士は一礼して部屋を去った。そして、入れ替わるように、刑事が一人入ってきた。 「あの、証拠隠滅の恐れとか、そういうのがあるようでしたら、ワタシはこのまま拘留されておきますが?。といっても、ワタシの方には最初から証拠は無いんですけどね。」 と尋がいうと、 「いえ、今日はそのままお帰り頂いて結構です。」 と、刑事は態度を一気に軟化させた。 「え?、でも、このままだと、調書の辻褄も合わないでしょ?。それを相談しながら、書類送検しやすいように手直しをした方が・・、」 尋は気を利かせたつもりでいったが、刑事は困惑しながら、 「あの、兎に角、今日はお帰り下さい。現時点で既に、我々の遥か及ばないところで、事が動いているので・・。」 「そうですか。解りました。じゃあ、また必要な時は、すぐにお呼び下さい。すぐに伺いますから。」 と、尋は最後まで丁寧に対応した。  尋は狐につままれたような一日を過ごしたと思いつつ、署を後にした。すると、尋の目の前に、一台の黒塗りの車がサッと止まった。そして窓が開くと、 「尋さんですね?。総理から仰せつかりました。どうぞお乗り下さい。」 と、運転手の男性が尋を車内へ誘った。尋はいわれるがままに車の後部座席に乗った。 「この度は、飛んだご迷惑を・・。」 そういいながら、既に隣に乗っていた秘書官が深々と頭を下げた。 「いえ、別に・・。」 「今からご案内しますので。」 「ご案内といいますと?。」 「大臣、いや、総理のところに。」 尋はそのまま、首相官邸まで連れていかれた。車は表では無く、裏口付近に止められた。そして、官邸の内側からドアが開くと、 「ささ、こちらへ。」 と、尋は内部に案内された。 「へー。官邸って、こんな風なんだ・・。」 尋は初めての光景に若干、胸を躍らせながら、総理の執務室まで案内された。そして、何人かの人物が待ち受ける中、 「やあ、尋君。この度は誠にすまなかった。」 と、ドアを開けると同時に、大臣が尋に深々と頭を下げた。 「あ、いえいえ。そんな。」 尋があらためて恐縮すると、 「さ、兎に角中へ。」 と、大臣は彼を中へ誘った。 大臣と尋は応接室のソファーにL字型に座ると、 「本当にすまなかったな。尋君。」 と、大臣はまたも頭を下げた。尋は話の先を急ごうと、 「それより大臣。今回の件、明日以降のスキャンダル扱いは免れない可能性はありますね。」 と、翌日からの対策について話そうとした。しかし、 「いや、キミにこのような目に遭わせてまで、この席に留まるつもりは毛頭無い。就いて間無しだが、早々にも辞任会見を・・、」 と、大臣は男気を見せて、尋に職を辞する覚悟を示した。尋は少し困った様子で、 「あの、大臣。今からいうことを、よく聞いて下さい。」 そういうと、大臣は不思議そうな顔で尋を見つめた。 「警察の方にも、弁護士の方にもお話したんですが、このままボクが一切を行ったってシナリオが、現時点では一番いい落とし所かなと。」 尋の言葉に、そんなことをさせてなるものかと、大臣は真っ向否定しようとしたが、 「だから、話を聞いて下さいと。ね。」 尋は大臣を宥めて、話を続けた。 「今回の情報は、規模としては大きくないかもですが、タイミングは悪かったと。マスコミも喜んでるでしょうし、情報を掴んでリークした側も、恐らくほくそ笑んでるでしょう。だからこそ、その裏をかく必要があると思うんです。」 「裏?。それが、キミが全てやったというシナリオかね?。」 「そうです。」 「それでは、全く罪の無い人間を咎人にする行為じゃないか。」 「時には嘘も方便です。まだハッキリはしませんが、恐らく大臣の首を狙っている連中の察しは付きます。油断ならない相手です。彼らはアナタが失脚するのを虎視眈々と狙っています。しかし、もしその計画が失敗したら、逆に彼らの立場が揺らぐ。そうすることで、アナタの政権運営が実現します。」 「ワシの政権運営?。キミを貶めてまでか?。」 「貶めるというのは、ワタシの意に反して行われた場合です。しかしこれは、ボクから大臣に提案、いや、お願いしていることなので、貶めてることにはなりません。」 尋はそういったものの、善人の塊のような大臣は、そのような提案は到底受け入れられないといった表情で腕組みをした。  尋は柔和な表情で、大臣を見つめた。そして、 「大臣、まず、時間がありません。単刀直入にいいます。今、政権が政敵の手に落ちたら、元の木阿弥です。しかし、今回、彼らの意表を突いて、柵(しがらみ)の無い政権が誕生しました。そして、そのことに期待して、既に多くの人達が、その夢の上に乗っかっています。これは紛れもない事実です。」 「それはそうだが・・、」 大臣が何かいいかけたところで、尋はそれを遮るように続けた。 「最初にアナタにお会いした時、一緒に天下を取ろうといわれたのを、今でも覚えてます。そして、それが実現した。スタート地点まで来る手伝いが、例え僅かながらでも出来たかなと思ってます。そして、そのためには決して綺麗事だけでは無いというのも、皆さんのご苦労を端で見ていて十分に感じました。政(まつりごと)というのは、天下を取るというのはそういうものなんだというのも、ワタシ自身、学びました。その行為のある部分が現行法に触れるというのを処理する必要がどうしてもあるのなら、それを担う人間も必要です。」 「それをキミが担うというのか?。」 大臣の問いに、尋は黙って頷いた。 「幸い、連中はワタシに白羽の矢を立てました。彼らはワタシが抵抗して時間を要することを狙っているはずです。ならば逆に、この好機を逃す手はありません。ワタシ一人が全てを引き受ければ、時間の浪費は防げるし、彼らも一端ワタシを陥れようとした手間、引き下がる訳にもいかなくなる。つまり、こっちの思う壺です。」 そういうと、尋は大臣を見上げて、ニヤッと笑った。 「しかし、それではキミの人生が、」 大臣はなかなか首を縦には振ろうとはしなかった。 「大臣、ご存じでしょ?。ワタシに出世欲はありません。こんな形で一足飛びに国の中枢に関わる事が出来た方が、不思議すぎて面白いぐらいです。ですから、ここは一つ、ワタシの案に乗ってくれませんか?。」 尋の言葉を聞き終わると、大臣は腕組みをしながら、目を閉じて黙考した。そして、 「キミは、ワタシの一生の恩人だな。」 そういって、尋の申し出を受け入れようとした。すると 「あの、もし、今回の件を恩と思って頂けるなら、お願いが一つだけあるんですが?。」 尋は飄々とした表情で大臣にいった。 「何だね?、願いって。」 「楓さんの件です。」 「彼女の?。例の治水工事の件かね?。」 「はい。出来れば、彼女の生家がそのままになるよう、取り計らって頂ければ・・。あの辺りは、本当にいい温泉街です。」 大臣は少し意表を突かれたという顔をしたが、 「・・・解った。そのようにしよう。」 「有り難う御座います。これで、取引成立です。ですので、一生恩に着せるつもりなど毛頭ありませんから。」 そういうと、尋は大臣の手を取って握手をした。 「では、明日以降はお互いバタバタするとは思いますが、スムースに事が済むようにしますので。どうか、お気を付けて。」 そういって、部屋を出ようとした時、 「尋君。委細、了解した。キミの言葉にしたがって、ワタシはキミの案に、いや、キミに仕えさせてもらうよ。そして、君が望むような国造りをさせてもらうよ。」 そういうと、大臣は深々と頭を下げた。 「やめてください。大臣。ほとぼりが冷めたら、またどっかで一杯。ね。」 尋は足取り軽く、執務室を後にした。すると、中にいたスタッフが全員、 「有り難う御座いました。」 と、入り口に出て来て礼をした。尋は最後まで恐縮しっぱなしで、官邸を後にした。  翌朝からの喧しさといったら、尋常では無かった。報道陣が一斉に官邸に詰めかけ、大臣の就任直後にも関わらず、一大スキャンダルが起きたことを、まるで祭りの始まりのように報じ始めた。一方、尋は自らで警察に出頭し、再び例の刑事と相まみえることとなった。尋は取調室で、 「また、そういうことになりましたので、よろしくお願いします。」 と、刑事に頭を下げた。刑事は尋に嫌疑を説明しようとしたが、 「あの、どれ程の罪状が、どんな風にかけられているか、一括して見ることが出来ますか?。」 と、尋は刑事に申し出た。 「それは出来ますが、どうして?。」 刑事の質問に、尋は顔を寄せて、 「相手のシナリオに不備があったら、ワタシのことを逮捕も起訴も出来ないでしょ?。そうならないように、ちゃんとシナリオに乗って差し上げる必要が。ね。」 尋はそういうと、ニッコリと笑った。そして、 「どうやら、アナタは味方のようですが、検察が必ずしもそうとは限らない。だから、今のうちに、キッチリと供述調書を取っておいて下さい。よろしく。」 尋の腹の据わり方に、刑事は既に彼の側についていた。全ての罪を被るとしたら、下手をすると結構食らうことになる。なのに、これだけの申し出をしてくるとは。刑事は尋問というよりは、尋の推敲に付き合う形となった。  取り調べが続くうちに、刑事の心のにも、どの辺りまでが真実なのかをハッキリさせておく必要性に駆られていた。 「尋さん、アナタが全てを認めるというのは、いわば誰かを庇い立てしているということになるのでは?。」 尋はニッコリとしながら、 「あの、刑事さん。アナタにだけ申し上げますが、事の発端は濡れ衣なので、それが真実です。しかし、何も起きなかった訳では無い。だから、濡れ衣を着せようとする連中の思惑が、このような形になっている。で、アナタは立場として、その部分が立証されれば、体面は保たれますよね?。しかし、其処に既に歪みはある。無いものを認めて、立証してる訳ですから。でも、そのことをボクが争わずに認めるとなれば、アナタはそれを受けて、書類とボクの身柄を送検するしか無い。これは事実です。そして、ボクは争うこともしないし、寧ろ、感謝してます。不法行為の責任を誰かが取る。そして、そのことを了解して、決められた通りのことをするのに、何の依存も無い。そういうことです。」 そう、淡々と伝えた。すると、 「ワタシがこういうことをいうのは変ですが、あっぱれですね。」 と、刑事は小声で尋に伝えた。 「恐縮です。」 こんな具合に、ちょっと奇妙な取り調べは終了し、尋の身柄は地検に送致された。外の様子は、恐らく蜂の巣を数十個、いや、数百個突いたような騒ぎにはなっているだろうと想像しつつも、そのことを知る術は、尋には無かった。そして、尋はある一点についてのみ集中しつつ、検事の取り調べに臨んだ。 「アナタが尋さんですね?。」 「はい。」 尋は、極めて従順に検事の調べに応じた。警察での調書が綿密に作られたことを知ってはいたが、その後から今に至るまでに、どれような改ざんが成されても不思議では無かった。そして、もし、そのようなことがあっても、そこで争う姿勢を少しでも見せれば、相手の思う壺だということを、尋は解っていた。 「えー、調書によりますと、アナタはほぼ全ての現金の受け取りに関して、中心的な役割をしていたとなっています。それで間違い無いですね?。」 「はい。」 「其処に、虚偽がある可能性は?。」 検事が端的に聞いてきた。すると、 「申し上げた通りです。」 と、尋はキッパリと答えた。罪を減ずることが可能かどうかで争うことは往々にしてある。しかし、今は逆に罪を盛った調書を、検事に矛盾無く納得させる必要がある。その辺りの攻防がどのようになるか、尋は油断していなかった。ところが、 「やれやれ。してやられましたね。アナタには。」 「はあ?。」 検事は、調書の論理的矛盾点を根掘り葉掘りしてくるかと思いきや、あきれ顔でペンを置いた。 「尋さん。アナタは今、外の騒ぎをご存じ無いでしょう?。」 「ええ、勿論。知る由も無いですから。」 「政変前夜ですよ。そして、そのカギを今、アナタが握っている。」 「ボクがですか?。」 「そう。どちらが勝とうが負けようが、我々は真実のみ追究する。と、科学者のようにいいたいところですが、科学者とて、時として間違える。我々は我々の信ずる正義に基づき、職務を遂行する。しかし、今回はねえ・・。」 そういいながら、検事は背もたれにもたれて後頭部を撫でた。 「今日、ワタシが此処に来るまでにも、双方の息のかかった者から、様々な言葉が来ました。無論、そういうものに動かされずに行動するのが我々の務めですが。で、今回、ワタシがその任を仰せつかった。単刀直入にいうと、新総裁の政敵の息がかかった者では無く、ワタシにです。」 「はあ。」 この時点で、尋はまだ、目の前の検事が敵なのか味方なのかは解らなかった。しかし、 「そのワタシに、最大の功労者であるアナタに罪を確定させるべく送り出すことが、どんなに苦痛なことか、アナタには解りますか?」 この言葉を聞いて、尋は全てを理解した。 「そうでしたか。それはどうも、申し訳ありません。」 尋は深々と頭を下げた。そして、 「では、お互いの信ずるものを抱きつつ、それぞれのするべきことを真っ当しましょう。ね。」 そういうと、尋はこれまで以上に粛々と取り調べに応じた。面白半分で行っていたことが、時として誰かを苦しめることにもなると、尋は自身の行動に対して反省した。検事は眉間に皺を寄せながら調書を記していった。尋はその邪魔をするまいと、真剣に調べに応じた。そして、一通り調べが終わると、 「一つ聞いていいですか?。」 「はい?。」 「何故、アナタはこのようなことをするんですか?。ワタシはこれまでにも、誰かを庇おうとして虚偽の話をする者を何人も見て来ました。それもまた罪です。持ち込まれた証拠と供述内容だと、アナタの罪は確定するでしょう。それがどういうことなのか、ワタシも十分には測り得てはいない。だからおたずねします。どうしてこのようなことをするんですか?。」 検事はたずねた。  尋は自身の発言が全て証拠として採用されるのを理解した上で、言葉を選びつつ、しかし、誠意を持って答え始めた。 「検事さん、ワタシは大臣と会って以降、次第にあの人の人柄に惹かれていきました。初めは政治の世界にいる人特有の威圧感のようなものも感じてはいました。しかし、それはある種の職業病だったのかも知れません。大臣と話をするうちに、この人は、ワタシが抱く政治家像とは全く異なる、完全に利他的な人だという気持ちが、日増しに強くなっていきました。自分が天下を取るから、一緒に手伝ってくれという申し出を頂いて、困惑したこともありました。政に携わる人間が、その座を目指すのは、ある意味必然だとも思いました。しかし、あの人にはそういう所に手が届くための要素が欠けているようにも、正直感じていました。」 「要素・・というと?。」 検事が尋にたずねた。 「はい。狡猾さというか、そういう部分です。実直すぎるが故に、妙な駆け引きは出来ない。そんな風に思いました。しかし、周りの誰かのためなら、躊躇わず命すら投げ出す。それが容易に出来る人でもある。そんな人こそが、派閥や利己的な縛りに雁字搦めにになった政局を打破出来るかも知れないと、ワタシは考えるようになりました。そして、タイミング良く、あの人が順番的に総裁選の候補に選ばれました。こういうことは、実力や根回しもあるでしょうが、何より、運が重要です。なのでワタシは、その戦いに勝つための協力を約束しました。そして、委細を引き受けることにしました。」 「委細・・とは?。」 「その長所にある全てです。」 検事の質問に、尋は言うべき事だけ述べて、後は潔く裁きを受けるといわんばかりに、書類に目配せしながら、そういった。その様子を見ながら、検事は手で口元を押さえつつ、暫し黙考した。そして、 「これ以上、何が真で何が偽かを尋問しようとも、黙秘をする、そういうことですね?。」 検事が上目遣いで尋を見ると、尋は真っ直ぐに検事を見て微動だにしなかった。すると、検事は調書を閉じて、 「普通、こういう場で、この状況に置かれると、みんな自身のことや、その後のことを思い、次第に気弱になるものです。勿論、中には自暴自棄になる者もいますが、長続きはしない。しかし、アナタはそのどちらでも無いようですね。いわば、まるで殉教者の最後の様相ですね。申し訳無いが、アナタの今後には、過酷な時が待っているという事実は、伝えておかねばなりません。恐らく、承知でしょうが。ただ、想像以上に厳しいのも確かです。ワタシからの取り調べは、これで終わります。どうかお体、ご自愛下さい。」 検事はそういうと、立ち上がった。尋も同時に立ち上がると、検事に向かって深々とお辞儀をした。すると、尋の顔の前に、スッと検事の右手が差し出された。尋は顔を上げて、検事を見た。すると、彼は少し寂しげな感じではあったが、温かい眼差しで、優しく尋を見つめて微笑んでいた。それを見て、 「有り難う御座います。」 と、尋は目に涙を浮かべながら、差し出された右手を握りかえした。その後、尋の身柄が護送される際に、車外のけたたましい様子をカーテンの隙間から垣間見る以外、尋は世間の声を直接聞くことは無かった。新総理就任早々の一大スキャンダル、現役官僚の汚職と世間は騒ぎ立てたが、全ての罪を尋が被ったことで、総理はその座を退くこと無く、自身の理想とする国家像の構築に着手し始めた。そして、様々な手が尋に差し伸べられ、彼の救済を願う動きは後を絶たなかったが、尋本人が、その申し出を全て拒否した。彼は後に下された判決を粛々と受け止め、謂れ無き罪を償うべく、刑に服した。そして、再三の面会要請にも応じず、ほんの数人の相手と、書簡でのやり取りのみを行った。ただ一人の例外を除いては。 「お前も大したやつだよ。ホントによ。」 時折、興信所の友人が差し入れを持って、尋の元を訪れた。 「そいつは、どーも。」 「どうだい?、牢屋暮らしは?。」 「はは。質素で悪くは無いかな。」 「ところでな、オレがお前に会いに来てるのは秘密にしてたんだが、どうしてもお前と繋ぎを取りたいという人物が一人現れたんだが。」 友人の言葉を聞いて、尋はもしやと思った。 「彼女か?。」 「ああ。」 「何か聞いてきたのか?。」 「ああ。詳しくでは無いが。自分の口から、お前に話したいそうだ。どうする?。」 尋は窓から差し込む光を見つめた。そして、 「いや、いい。済まなかったな。」 そういうと、尋は友人に挨拶をして席を立った。それ以来、尋は楓さんのことを口にすることは無かった。長期刑でも無く、模範手でもあったため、尋の刑期は判決よりも短いものとなり、僅かな年月で出所の日を迎えることとなった。尋は係の者にお願いして、当日を人目に付かないように出ていけるよう、段取りをしてもらった。  収監される前に持っていた所持金と、所内での作業で得た僅かなお金を合わせて、尋は出所後、ひっそりとタクシーに乗って、そのまま駅へ向かった。行き先は西だった。鈍行に揺られながら、尋は塀の中からではない、何も遮らない車窓からの景色を存分に楽しんだ。もう誰も、自分のことを監視し続けることも、決められた時刻に全ての行動を規制されることも無い、本当に自由なひとときだった。自らが選んで、誰かによって作られたシナリオ通りに被った罪だったが、いざ自由を奪われた身になってみて、そのことの理不尽さを、尋は思い知った。体は健康的に過ごせたが、気を抜くと、精神は確実に削り取られるような日々だった。 「葉が色づいてるなあ・・。」 季節はどうやら、秋らしかった。やがて列車は駅に着くと、尋は人気が無くなるギリギリの所まで歩いていった。そして、とある山門の前に来た時、一人の僧侶が門前で枯れ葉を掃き集めていた。僧侶は尋にお辞儀をした。尋も釣られてお辞儀をすると、 「旅の方ですか?。」 と、僧侶がたずねてきた。 「ええ、まあ。」 尋は別に何も決めていなかったが、適当に返事をした。すると、 「よろしければ、どうぞ。」 と、何と、僧侶は尋を寺へと案内した。尋は恐縮したが、別に断る理由も無く、誘われるがままに僧侶に着いていった。そして、尋が鄙びた和室に通されると、僧侶が茶を持って現れた。 「どうぞ。」 「すみません。有り難う御座います。」 尋は温かい茶を頂いた。スッキリと澄んだ、心地良い熱さのお茶だった。 「何処か、いくあては、おありですか?。」 「いえ。特には。」 「そうですか。よろしければ、泊まってゆかれるとよいです。」 僧侶は宿の世話まで申し出た。流石にそれはと思った尋は、 「あの、それでしたら、此処で何か、お手伝いさせてもらえませんか?。」 と、僧侶に申し出た。僧侶は別に宿坊をしている訳でも、出家を望む者を預かる訳でも無かった。ただ、尋に宿を提供するつもりだけだった。すると、 「あの、和尚さん、お話を聞いてもらえますか?。」 と、尋は、自身の身に起きたことを、僧侶に語った。自身の何を証明するものも持たない者を泊めてもらうのに、尋はせめて身の証にと思ってのことだった。そして、一通り話し終えた時、 「なるほど・・のう。そのようなことが・・。」 と、僧侶は神妙な面持ちで話を聞いて、深く頷いた。すると、 「では、アナタは功徳を積まれたということですな。」 そういうと、ニッコリと笑って尋を見た。まさか和尚さんから、そのような言葉を頂けようとは、尋は夢にも思わなかった。あの時以来、心の中で何か蟠っていたものが少し取れたような、尋はそんな気がした。しかし、権力の中枢や、その周囲を取り巻く、得もいえぬ重たい何かや、そういうものが人の心も変えてしまう現実を数多見て来た尋の心は、やはり完全には癒えてはいなかった。それを察してか、 「では、此処に居られる間、すみませんが、色々とお手伝いをお願いしてもいいですかな?。」 と、僧侶は逆に尋に頼んだ。 「はい。是非。」 尋は嬉しそうに、僧侶の頼みを聞いて、その日の夕方から食事の支度、翌朝からは門前の掃除、それが終わると本堂の掃除、さらには読経と、雲水さながらの生活が始まった。規則正しい生活は、収監の際に身についていたので、尋は淡々と作業をこなした。しかし、食事の用意には、殊の外、驚いた。 「これが精進料理か・・。」 野菜と発酵食品のみで作られた、極めて質素な食事だったが、それは尋が今まで食べたことのない味わいだった。料理は苦手な方では無い尋だったが、シンプルな精進料理に、次第に心奪われていった。そして、ある日の夕食の際、 「ん!。これは美味い。」 と、いつもは黙々と食事を取る二人だったが、僧侶は思わず声を上げた。 「いや、失敬。本当は、食事も修行なんじゃが、アナタの作る料理は、本当に美味い。思わず喜んでしまいましたわ。ははは。」 尋も寺での食事は黙して行うものと思っていただけに、僧侶の反応にはとても驚いた。そして、味を褒められたことに恐縮した。 「やはり人間というのは、美味いものを食えば、嬉しゅうなるものですな。」 「はい。」 二人は時折、食事の際にも少し、言葉を交わすようになった。それから数ヶ月が経ったある日、尋は淡々と寺の作業を行っていたが、 「アナタは、これから、どうされるおつもりかな?。」 と、僧侶がたずねてきた。 「はい。出来ればこの地で働き場所を見つけようかと・・。」 「どういう仕事が、なさりたいかな?。」 「はい。出来れば、料理人を。」 「おお、それはいい!。それなら、打って付けの所がありまするぞ。」 僧侶はそういうと、尋をそのまま近くの料理屋へ連れていった。 「御免。店主殿はおられるかな?。」 「あ、和尚さん、いらっしゃい。」 お上さんらしき女性が僧侶と尋を出迎えた。 「逸材を連れて来ました。料理の仕事がしたいそうでな。」 そういうと、僧侶は尋を紹介した。  僧侶は尋の働きぶり、そして何より料理の腕前を十分に知っていたので、そのことを後から来た店主に伝えた。 「そうですか。それはそれは。では、もし宜しければ、此処で働いてくれますか?。」 「こちらこそ、宜しくお願いします。」 それ以降、尋はこの店で料理人として働くこととなった。僧侶は寺からの通いでもいいといってくれたが、これ以上世話になるのも申し訳無いと思った尋は、店の近所に小さな部屋を借りた。そして、寺で過ごした日々と同じく、朝早くから夜遅くまで、店の掃除、料理の仕込みから配膳、後片付けと、実に甲斐甲斐しく働いた。時折僧侶が訪ねてきては、他に誰も客がいないのを見計らって、刺身をあてに、一杯ひっかけていた。尋は初めこそ驚いたが、 「はは。何せ、生臭坊主でな。」 と、少し申し訳なさそうに、しかし、にこにこしながら料理に舌鼓を打った。静かな古都の隅っこにある小さな店で、尋はめきめきと料理の腕を上げていった。やがて月日は流れて、時代はグルメブームの真っ直中にあった。美味しい料理を出す店を求めて、メディアが挙って取材攻勢を、あらゆる店にかけていった。そんな中、とある料理番組で尋が働く店が紹介されることになった。鄙びた料理屋に、凄腕の料理人がいると、既に評判が立っていたのをテレビ局が聞きつけたからだった。気のいい店主は、二つ返事で取材を引き受けたが、始め、尋はそのことを知らなかった。 「尋さん。今日、此処にテレビの取材が来るそうですよ。」 「え?、ホントに?。」 一緒に働く後輩の料理人が、そのことを教えてくれた。長らく働く間に、尋の下には料理人が何人か付いていた。尋は正直、困った。テレビで店が取り上げられれば、かなりの宣伝にはなる。しかし、もし自分の姿がテレビに映し出されたら・・。尋は店主に、料理や作る姿を取材されるのは構わないが、顔は決して写さないで欲しい、あるいは、自分が作った料理を、後輩が作ったことにして欲しいと申し出た。 「うん、そのように、局の人にはお願いしておこう。」 店主は尋の様子を察して、快く引き受けた。  取材当日、 「こんにちは。先日、取材をお願いしてました、テレビ局の者です。」 そういうと、華やいだ衣装にきつい香水の匂いを漂わせたレポーターと、取材陣が数名、小さな店に入り込んできた。店主と奥さんが対応し、尋以下、料理人達は奥で料理の下ごしらえをしていた。すると、 「すみません。料理人の方も、こちらに来てもらっていいですか?。」 と、レポーターがそういうと、 「あの、若い子達を映してもらえませんか?。奥の彼は、人見知りなもんで。」 店主が尋を映さないようにお願いした。レポーターは、ディレクターらしき人物と相談して、その要望を受け入れた。そして、機材の準備が整うと、店の外観、店内、そして、調理場と料理人の姿を撮影していった。最後に、レポーターがカウンター席で料理を食べるふりを撮影すると、スタッフ達が出された料理を分けながら食べた。そして、一頻り取材を終えると、一行は帰っていった。店主はやれやれといった表情で、 「いやあ、それにしても、凄い匂いだったな。あの女性・・。」 と、店主は折角の料理の香りが香水に邪魔されていたのを、終始快く思っていなかった旨を話した。若い料理人達は、今回の取材が、いつ放送されるのかとそわそわしていた。そして、奥さんと尋は淡々と片づけ物をしながら、次の客が来るのに備えた。それから数日後、思いもかけないことが起きた。先日取材を受けたテレビ局の番組が放送されると、其処に何と料理をする尋の姿が映し出されたのだった。控えめな店主は、取材を受けたことを誰にも話してはいなかったが、テレビの効果は絶大だった。放送と同時に、予約の電話が殺到した。そして、 「いやー、尋さん、見ましたよ!。男前に映ってましたね。」 と、近所の常連客が早速、番組のことを話しに来た。 「え?。」 尋は驚いた。まさか自分の姿がこっそり撮影されてるとは。しかし、いくらいった所で、一度放送されたものは、後戻り出来ない。尋は極力俯いたまま、誰にも会わずに奥で料理をするよう努めた。すると、 「あの、男っぷりのいい板前さんは、いないのかい?。」 と、番組を見てやって来た客の中には、尋が目当ての者も結構いた。 「ええ、すいません。彼は今、他の用事をしてますので。」 店主や若い料理人達も、出来るだけ尋が人目に触れるのを庇おうとした。確かに、放送以降、店は予想を遙かに超える繁盛だったが、尋の心は晴れなかった。 「此処も、潮時かなあ・・。」 尋は久しぶりに寺に向かった。そして、世話になった僧侶を訪ねた。 「おお、暫くぶりじゃったな。」 「はい。和尚さん。実は・・、」 尋は、昨今の騒ぎと、そのことを切っ掛けに、尋を知る人物が訪ねてくるのではという話を、僧侶にした。  尋の話を聞いて、僧侶は顎を撫でながら、少し考え事をしているようだった。そして、 「其方は別に、逃亡者では無いし、何も逃げ隠れすることは無い。じゃが、喧しいのが苦手なら、それを避けて生きるのも、一つの選択じゃのう。一所に落ち着いて、其処で骨を埋めるのも生き方、流浪に人生を送るのも、また生き方。」 僧侶は、己の人生を如何に生きるかは、端がどうこういうものでは無く、自らで決め、自らで行動するものだと、暗にそのようなことを示していた。しかし、 「ま、何処かへ立つとしたら、其方の料理が食べられぬようになるのは、ちと寂しいがのう。じゃが、それが運命(さだめ)なら、仕方はあるまい。ただ、運命というならば、もう一つ。其方にはそのような、何か大きなものが纏わり付いて、その都度、そういうものと対峙し、闘うよう定められておるのかも知れん。もしそうなら、何処へいこうと、そのようなことは付いて回るじゃろう。そのことを、肝に銘じておくとよかろう。」 僧侶は尋のみに降りかかるであろうことを予測しながら、親身になって答えた。そして、 「留め立てはせんよ。好きなように生きるがよい。」 僧侶はそういうと、ニッコリと笑って尋を見つめた。 「はい。有り難う御座います。」 尋は何かいおうとしたが、胸が詰まって言葉にならなかった。そして、目頭を熱くしながら、深々と頭を下げた。  後日、尋は店の主人に店を辞める旨を伝えた。最初、主人も驚いてはいたが、 「そうか。まあ、アンタの腕なら、何処でいっても勤まるやろうし、繁盛もするやろう。独り立ちするには遅すぎるくらいや。」 そういって、快く了解してくれた。そうと決まると、尋は借りていた部屋を引き払って、旅立つ準備を始めた。そして、その晩、店主以下、店の仲間達がささやかな送別会を開いてくれた。いつもは尋が板場に立って料理を作るのを、今日は店主と仲間が作ってくれた。尋が主賓だった。静かに暮らす尋に、この街で起きたエピソードは僅かなものではあったが、気がつけば、もう何年もこの街で暮らしていた。後ろ髪を引かれる思いが無いといえば嘘になるぐらいに、尋はこの街に愛着も湧いていた。そして、仲間達にも。そうして、宴が終盤に差し掛かった時、 「ガラガラガラ。」 と、戸の開く音がした。其処には一人の男性が立っていた。 「あ、すいません。今日はもう、看板なんです。」 店主が外に立っている男性に告げると、 「あ、いえ。客じゃ無いです。こちらに尋さんって方は居られるかなって思いまして・・。」 聞き覚えのある声に、尋はふり向いた。 「あ、尋さん!。」 「・・・あ。」 それは、大臣の秘書官だった。すると、男性は急に目を潤ませながら、 「お久しゅう御座います。」 そういって、尋の元に駆け寄ると、両手を取って握った。 「随分、探しました。アナタがいなくなって以降、八方手を尽くして探しました。やっと、やっと会えました・・。」 男性は、嗚咽して言葉にならなかった。尋もその様子に、思わずもらい泣きをした。 「すいません。突然いなくなって・・。」 尋は、男性の肩に手を置くと、姿を消したことを詫びた。すると、ようやく落ち着いた男性が、 「いえ。いわれも無いことであんな目に遭われて、姿を消したくなるのも当然です。心中、お察しします・・。」 そんな風に、二人が話していると、店の人達は静かに片づけ物をして、 「外は寒いから、此処でお話しをされるといいですよ。」 と、店主が気遣って、そういってくれた。そして、二人を残して、みんなは表に出ていった。尋はカウンターに残してくれてあったお銚子から杯に酒を注ぐと、男性に差し出した。 「すいません。」 男性は大事そうにそれを受け取ると、一気に飲んだ。 「大臣は、お元気ですか?。」 「ええ。とても。」 尋の質問に、男性はしっかりとした声で答えた。 「アナタがいなくなってからというもの、大臣も、本気でアナタのことを探していました。ですが、暫くすると、これはアナタの考えでそうしたことだから、彼の邪魔をするのはよそうって、そう仰ってました。ですが、大臣がアナタのことを片時たりと忘れたことはありません。彼はワシの命の恩人だ。わしの生きている間に、絶対に彼に詫びる。それがワシの務めだと、そう豪語しておられました。」 相変わらず、大臣らしいエピソードだなと、尋は男性の話を聞いて、少し微笑んだ。そして、 「前にも色んな人にいいましたが、あれはボクが自ら進んで買って出たことですし、それが一番いいと思ってのことでしたから、大臣には何も詫びてもらうことはありません。お帰りになったら、そう伝えて下さい。」 尋はそういいながら、再び杯に酒を注いだ。 「良かったら、料理も一緒にお召し上がり下さい。美味しいですから。」 そういうと、尋は小皿に盛られた料理を数品、男性に差し出した。 「ボクは今、こんな風に料理をして暮らしています。それと、先に申し上げておきますが、訳あって、ボクは此処を立つことにしました。なので、今日が送別会です。」 尋がそういうと、子芋を箸で摘まんで食べようとしていた男性は、驚いた表情で尋を見た。と、その拍子に、小芋が箸から転げ落ちた。 「え?、折角こうして会えたのに、また何処かへいかれるんですか?。」 男性がたずねた。 「はい。残念ながら、此処も、ワタシのことも知られてしまいました。なので、騒ぎが大きくなる前に、此処を立ちます。」 尋が少し寂しそうな表情でそういうと、 「だったら、戻って来てくれませんか?。我々の、いや、先生の所へ。勿論、色んな感情がおありでしょうし、すぐにという風にはならないかも知れません。ですが、アナタは本当に、我々や先生が理想を掲げて政治を行う礎を築いてくれました。だから、お願いです。どうか戻って来て下さい。」 そういうと、男性はカウンターに両手をついて、尋に深々と頭を下げた。 「うん・・、すみません。やはり、それは出来ません。先生の理想が動き出す際に、烏滸がましいですが、その障壁を、ボクが被って居なくなることでスムースに出来たと考えています。ですので、それが完結系だと、ボクは思っています。何よりも、先生の理想が実現することで、確実に世の中が良くなっているのであれば、こんないいことは無いじゃないですか。そして、ほんの僅かでも、そのお手伝いというか、切っ掛けになることが出来たのであれば、それで十分です。後は、アナタ達が引き続き、先生を支えて、その活躍が続けられるようにしてあげて下さい。お願いします。」 そういうと、今度は尋が静かに頭を下げた。そこまでいわれると、男性もこれ以上、返す言葉が無かった。 「・・・そうでしたか。虫のいい話で、どうもすみません。尋さんの心中も理解せず、飛んだお願いをしまして。」 「いえ、そんなことは。」 「では、せめて、今度何処かへいかれて、その後落ち着いたら、またお会い出来ますよね?。勿論、静かな形で。」 男性は、役目とか、仕事柄とか、そういうことでは無く、ただただ、再び尋に会いたいと思っていた。恐らくは、大臣先生も同様であろうといわんばかりに。しかし、尋は男性の願いに、首を縦に振ること無く、静かに微笑んでいた。 「さ、今日は折角お会い出来たんだし、飲みましょう。」 そういって、優しくお茶を濁しながら、尋はまた男性に酒を注いだ。そして、男性はしみじみと杯を仰ぎながら、これが尋と会える最後なのだろうという寂しさと、今日、この出会いが一期一会なのだろうという静かな決意とが相まって、しこたま酒を飲んだ。そして、男性は酔い潰れてカウンターに突っ伏した。 「あら、潰れちゃったわね。」 店に戻って来た奥さんが、男性を見て、そういった。 「はい。」 尋が静かに返事をすると、奥さんは全てを察したかのように、 「後はアタシ達でしておくから、尋さんは出発の準備を。ね。」 そういって、尋にウィンクをした。 「すみません。では。」 「お返事頂戴なんていわないけど、また何処かで料理人を始めたら、少しは評判が立つようにしておいてね。こっそり食べにいくから。」 「はい。」 奥さんは粋な言葉をひろしにかけて、尋を送り出した。そして、表に出た時、 「今日まで、本当に、ご苦労さんやったなあ。どうも、有り難うな。」 外で待っていた店主が尋の手を取って、涙ぐんだ。 「尋さん。」 「尋さん。」 若い料理人たちも尋の傍らに寄ってきて、声をかけながら涙ぐんだ。尋も静かに頷いたが、涙を堪えることは出来なかった。 「有り難う御座います。本当に。有り難う御座います。」 寒々とした夜空の下で、涙の別れは暫し続いた。そして、月の明かりがいつまでも、優しく彼らを照らしていた。  それから何年かの月日が流れ、尋は気の向くまま、訪れた地で仕事を探しては、其処で暫く暮らすということを続けていた。そして、何か踏ん切りのようなものが付くと、再び其処を旅立って、新たな土地へと向かった。そうしていくうちに、尋の心の中から、次第に不必要なものが削ぎ落とされて、気がつけば、ただただ直向きに生きる、そういう生活になっていた。感情の起伏も穏やかになり、言葉少なにはなったが、出会った人に、いつもそっと寄り添う、そんな存在になっていた。そして、いつの頃からか、気付けば頭には随分と白いものが目立つようになっていた。 「もうすぐ、春かあ・・。」 とある山村で山仕事をしながら、尋はそろそろ、次の土地へいこうかと考えていた。別に、この地で何があった訳では無かった。ただ、気の向くまま、小さな渡り鳥が、フッと飛び立つように、自身の心の声を頼りに、物事を決めるようになっていた。旅慣れた尋の荷物は、もはや小さなカバン一つだけになっていた。尋はそのうち、そのカバンも持たず、手ぶらで何処へでもいけたらなと思っていた。  そして今、尋は辿り着いたとある長閑な山間部で、心地良い風を浴びながら、自転車をこいでいた。残念ながら、この景色も、このままではダムの底に沈んでしまうことになるのだが。しかし、尋がこの地に訪れて以降、事態は少しずつ変わりつつある。穏やかでで気のいい人達ではあったが、自分達の暮らしが奪われるとあっては、やはり立ち上がるしか無かった。だが、闘う術を知らない人達が例え決起したとしても、知恵の働く者が敵である以上、結果は見えている。闘いに疲れて消耗していく姿も、泣く泣く生活を放棄させられるのも、尋は見たくは無かった。すると、尋は公衆電話を見つけると自転車を止めて、胸ポケットから小さな手帳を取り出した。そして、ある電話番号を見つけると、其処に電話をかけた。 「プルルルル。プルルルル。はい、もしもし。」 「もしもし、オレ。尋。」 電話口の声が昔と変わらなかったことを確かめると、尋は自らを名乗った。 「・・・本当に、お前なのか?。」 「ああ。久しぶり。」 「お前が必ずかけてくると思って、この回線はそのままにしておいたよ。」 相手は、旧友の探偵だった。 「今もやってるのか?。興信所。」 「はは。流石にもうやってないさ。だが、状況次第じゃ、話は別さ。」 「そうか。じゃあ、少し頼みがあるんだが・・、」 そういうと、尋は旧友に、かつて後輩だった役人の所属先と、その人物が現在、誰に仕えているのかを調べるように依頼した。 「OK。お安いご用だ。じゃあ、調べが付いたら、情報はオレがそっちへ持っていこうか?。久しぶりに会いたいしな。」 旧友がそういうと、 「いや。分かり次第、連絡をくれるだけでいい。そうすれば、いずれオレからお前に会いにいく。」 「・・・そうか。解った。」 尋の言葉を聞いて、旧友は何か覚悟のようなものを悟った。そして、 「ところでな、お前が行方を眩ましてから、俺の所にも随分とお前を探すようにと、依頼が来たよ。勿論、一切引き受けなかったし、口も割らなかったがな。」 「そうか。すまなかったな。」 「いや、それはいい。だが、お前、本当に慕われていたぞ。総理なんか、自らお忍びで此処まで来て、何度も頭を下げて頼まれたよ。それとな、」 尋は黙って話を聞いた。 「楓さんも来たよ。何度となくな。」 それを聞いて、尋の表情が少し変わった。そして、何かいい出そうとしたが、尋は言葉を飲み込んだ。 「そうか。解った。じゃあ、また連絡する。」 そういうと、尋は電話を切った。尋は空を仰ぐと、ふーっと一息ついた。そして、 「さあ、いくか。」 そういいながら、再び自転車に乗って、店まで戻った。その後、いつものように客が来るのに備えて料理の下ごしらえをしたり、夜は夜で店が終わると、集まってきた住人達とダムのことについて話をしたりして過ごした。そして数日後、尋は例の公衆電話の所まで自転車でいくと、旧友に電話をした。 「もしもし、尋です。」 「よう。情報はバッチリだ。」 旧友は仕事が速かった。元後輩は、案の定、役人を務める傍ら、かつて総理の宿敵だった切れ者代議士の子飼いになっているらしかった。すると、 「で、全部、ひっくり返すか?。」 旧友がたずねた。かつて、尋に全ての罪を被せて、省から追い出した連中に一泡吹かせるのかと、暗に意思確認をした。しかし、 「いや、それはしない。あれは、オレが承知で被ったことだ。」 と、尋は淡々と答えた。 「そうだったな。まあ、そのお陰で、あいつら結局、自分の書いた絵図で、自分達が嵌まっちまったからな。総裁の椅子は遠のき、逆に大臣先生が見事に国家安寧の計を果たしたからなあ。」 「策士策におぼれる・・か。」 「ああ。そんなところだ。じゃあな。今度会う時は、こっちだな?。」 「ああ。じゃあな。」 そういうと、尋は電話を切った。そして、尋が店に戻ると、店主が出迎えた。「尋さん。話があるんじゃろ?。」 と、切り出した。尋は驚いた様子だったが、実際、その通りだった。 「・・・ええ。」 「うん。解っとるよ。アンタ一人で切り込むつもりじゃろ?。」 店主の洞察は、図星だった。すると、 「ワシも加勢に・・といいたい所じゃが、アンタのことやで、屈強な連中の中に飛び込む訳でもなかろう。それなら老いぼれのワシも、昔取った杵柄なんやが、頭脳戦は、どうもなあ・・。足手まといになっちゃあ、申し訳無いなあ・・。」 そういいながら、店主は恐縮した。 「お気持ち、どうも有り難う御座います。やはり、暫くは騒動めいたこともあるかも知れません。なので、アナタはそれに備えて、此処で踏ん張ってくれますか?。ボクは明日立って、決着を付けてきます。」 そういうと、尋は店主の肩に手を置いた。 「よっしゃ!。それなら引き受けた。そうとなったら、作戦会議や!。」 店主と尋は意気揚々と、店の中に戻っていった。そして、二人は厨房で料理の下ごしらえをする傍ら、真剣に明日以降のことを綿密に打ち合わせた。まるで少年のように目を輝かせながら。  翌朝早く、尋は起床すると、ラップトップからデータをダウンロードして、それをポケットに忍ばせた。そして、まだ暗いうちから徒歩で駅まで歩いていった。始発の電車が駅に着くと、中はがらんどうだった。尋は静かに真ん中の席に腰掛けると、静かに溜息を吐いた。電車はそのまま東に向かった。その後、幾つか列車を乗り継いで、尋は早朝の都会に着いた。其処は、尋にとっては何十年かぶりの景色だった。新聞配達やジョギングでいき交う人意外には、官庁街は誰もいなかった。そんな中、早い出勤の客のために、朝早くから開けている、とある喫茶店があった。尋は店名を確かめると、中に入っていった。そして、まだ誰も客が来ていないのを確認すると、一番奥の席に陣取った。 「いらっしゃいませ。」 ウエイトレスが注文を聞きに来た。 「コーヒー。ホットで。」 尋は注文を済ませると、近くにあった新聞を手に取って、読むふりをした。 「お待たせしました。」 「有り難う。」 運ばれてきたコーヒーは、実に芳醇な香りを漂わせていた。尋は一口含むと、その香りを堪能した。と、その時、別の客が入ってきた。 「マスター、いつもの。」 その客は、手慣れた様子で注文を済ませると、カウンター席に着いてカバンから手帳を取り出した。そして、今日のスケジュールを確認し出した。客はその作業に没頭していると、 「二時から総理と会合か。じゃあ、其処にオレも入れてくれ。」 と、突然、後ろに立っていた男が客にそういった。驚いた客は後ろを振り返った。 「せ、先輩・・!。」 客の後ろに立っていたのは、尋だった、後輩が慌てて立とうとした途端、 「話はまだだ。」 そういって、後輩の方をギュッと押さえつけて席に戻した。そして、尋は彼の隣に座った。 「どうして此処が・・?。」 後輩は相当動揺しているようだったが、 「それをいうなら、こっちのセリフだ。まあ、それはいい。手短にいう。ラップトップは持ってるか?。」 尋がそういうと、後輩は少し震えながら、カバンからラップトップを取り出した。すると、尋は胸ポケットから静かにUSBメモリーを取り出した。 「もう一度いう。午後二時の少し前に、スケジュールを組んでおいてくれ。拒否をするか、あるいは、誰かに知らせるかと考えてるんなら、そいつの中身を見てからにした方がいい。」 そういうと、尋はカウンターの上にメモリースティックを置いた。そして、そのまま元の席に戻って、コーヒーの続きを楽しんだ。動揺した後輩は、なかなかメモリーが上手くラップトップに差し込めなかったが、ようやく装着すると、中からデータファイルを開いた。すると、 「これは・・・!。」 後輩の表情が、見る見る変わっていった。其処には、かつて尋が無実の罪で起訴された際に行われたシナリオと、それを裏付ける種々のデータが事細かに記載されていた。後輩は慌てて尋が座っている席にいくと、 「何が望みですか?、先輩。」 と、血相を変えて尋にたずねた。尋は悠々とコーヒーを堪能しながら、 「さっきいったろ?。」 そういって、再びコーヒーを飲んだ。 「総理とあって、どうするつもりですか?。」 「それは、お前には関係無い。お前はただ、段取りだけしてくれりゃあ、それでいい。」 「無理です。総理が、いや、官邸が、そんなこと承知しません。」 「じゃあ、それを総理に見せりゃあ、いい。さて、此処は先輩のよしみで、オレが払っとく。じゃあ、またな。」 そういうと、尋は後輩の方をポンと叩いて、二人分の会計を済ませると、店を出ていった。後輩は慌てて席に戻ると、さっき開いたラップトップの画面を一番下までスクロールさせた。すると、 「0062・・・。」 さっき開いたファイルの一番下に、ファイルナンバーらしきものが書かれてあった。それは、既に六十一個の同じデータが、何処かに存在していることの暗示だった。 「くっそーっ!。」 後輩は小声でそういうと、ラップトップを閉じて、慌てて店を出た。そして、表に出ると、周りに誰もいないのを確認して、携帯をかけ出した。 「もしもし。官邸ですか?。ボクです。今、総理は?。」 後輩は、慌てて連絡を取った。総理は不在らしかったので、事のあらましを先方に伝えると、彼は直ぐさま官邸に呼ばれた。そして、タクシーを拾うと、彼は官邸に向かった。 「総理は?。」 「まだです。」 「くそっ、こんな時に。一体、何処へ・・。」 後輩は官邸に着くなり、秘書官と総理の所在について話した。彼はイライラしながら、喫煙室で煙草を吸っては外の様子を眺めた。それから一時間ほどして、総理が官邸にやって来た。 「よう。おはよう。どうしたね?。こんな早くに。」 総理は暢気に彼にたずねた。 「総理。実は・・・、」 彼はそういうと、総理と二人で執務室に消えていった。ドアの外から秘書官が盗み聞きをしようとしたが、あまりの小声に、何も聞き取ることが出来なかった。そして、十分後、執務室のドアが急に開いた。 「兎に角、彼を待つしか無いだろう。」 総理は神妙な面持ちで、後輩にそういいながら執務室から出て来た。 「かしこまりました。では。」 後輩は、バツの悪そうな表情で、総理の言葉を聞いていた。  その頃、尋は公園のベンチに座りながら、木々の木漏れ日に目を遣っていた。木の葉の陰に見え隠れする細やかな光りに目を細めながら、まるで気持ちを落ち着かせるかのように。 「いよいよ闘いの時かあ・・。いや、違うな。はは。」 尋の頭には白い物が目立つようになり、顔には幾つも深い皺が刻まれていた。ただならぬ月日の流れが、尋の表情を作り出していたことが十分に窺えるほどだった。そして、いつもは決してしないことを、尋は始めた。ここに至るまでの時の流れを、その道程で起きた出来事を一つずつ思い出しながら、気持ちを昂ぶらせては、落ち着きを取り戻す。そうやって、自身の心を奮い立たせつつも、決して冷静さを失わないように、自身の姿を見つめていた。すると、 「ブルルルル。」 尋の携帯が鳴った。 「もしもし。尋です。」 「よう。オレだ。」 友人の元探偵からだった。 「今、外か?。」 「・・・ああ。」 尋の声を聞いて、友人は何かを察したようにたずねた。 「来てるのか?。こっちに。」 「ああ。来てる。」 「お前、何をする気だ?。」 友人が少し慌ててたずねると、 「何もしないさ。ただ、話をしにさ。」 と、サッパリした様子で尋は答えた。 「本当だな?。じゃあ、大それた事は何も起きないんだな?。」 「こっちには、そのつもりは無いさ。」 「そうか。じゃあ、今晩会って、一緒に飲めそうか?。」 「多分な。」 「解った。じゃあ、事が終わったら、連絡をくれ。待ってるぜ。」 尋の言葉に、友人は安心した様子で電話を切った。尋は自分のことを心配してくれる友人に感謝しつつ、再び木々に目を遣った。そして、再び物思いに耽ると、 「さて、いくか・・。」 そういいながら、尋はベンチを立ち上がると、歩いて目的の場所に向かった。此処までの道のりは、頭の中では気の遠くなるほどのものだった。しかし、公園から目的地に向かう足取りは、自分でも信じられないぐらい、軽やかなものだった。約束の時間まではまだ少しあった。出来るだけ怪しまれない様に、身軽な服装に手ぶらな状態で、尋は官邸にまで歩みを進めていった。 「さて、もうそろそろ到着か、その前に、とっ捕まるか・・。」 尋がそう呟きながら官邸に近付くと、通りに一人の男性が立っていた。そして、その男性は尋の方に近付いてきた。 「先輩。本当に来たんですね。」 そういいながら、後輩は苦虫を噛み潰したような表情をしていた。 「公安の手によって、排除されるとは思わなかったんですか?。」 後輩はたずねた。すると、 「いや。全く。」 と、尋は少し不敵な笑みを浮かべて、後輩にいった。 「中で首相がお待ちです。」 そういうと、後輩は尋を連れ立って、外に立つ警備の者に挨拶をしながら、尋を中へ誘った。 「へー、こういう所か。官邸って。」 尋はまるで其処が珍しいかのようにいった。後輩は不思議そうな顔をした。すると、 「オレは此処に来る前に捕まっちまったからな。」 と、嫌味を込めて、後輩にいった。後輩は俯いたまま、尋を総理の下まで誘った。 「身体検査とかは、しないのか?。オレは不審人物だぜ。」 尋はそういったが、後輩と一緒に歩くことで、全てが顔パスで通過することが出来た。尋は愉快そうに嫌味をいったが、後輩はそれどころでは無いといった様子だった。そして、首相の部屋の前に来ると、後輩は重厚なドアをノックした。 「コンコン。失礼します。」 そういうと、後輩は尋を中へ案内した。 「尋さんをお連れしました。」 ドアを潜ると、中には首相以下、秘書官達が尋を出迎えた。 「暫くだったね。よく来てくれた。」 随分以前にあった時は、新進気鋭の切れ者代議士だった彼が、今ではすっかり首相の風格を漂わせていた。額に幾分、汗をかきながら、精一杯の笑顔を見せつつ。 「ご無沙汰してます。尋です。」 そういうと、尋は一礼した。すると、 「急にお邪魔して、どうもすみません。ボクからの用事は簡単なことなので、皆さんの前で、手短にお話しましょうか?。」 尋はみんなに聞こえるように、声を張りながら答えた。その様子に驚いた後輩は、尋を制しつつ、 「さ、先輩、こちらへ。」 と、首相共々、三人で執務室に消えていった。そして、後輩が尋をソファーに座らせ、その向かいに後輩が、そして、首相は総裁席に座った。 「よく来てくれたね。暫く。で、今日は一体、どういった用件があってのことかね?。」 首相は大きな机に両手を置きながら、少し前のめりで尋にたずねた。 「はい。彼から聞いて、もうご存じかとは思いますが、ワタシが住んでいる場所で行っているダム建設を、やめてもらえませんか?。」 尋は単刀直入に用件を伝えた。すると、首相は落ち着き払った様子で、 「うん、それは出来ない。と、もしワタシがいったなら、キミはどうするつもりだ?。」 と、尋にたずねた。尋はソファーから立ち上がると、首相の席までいって、 「はい。このまま帰ります。」 そういって、首相を見ながらにこやかに笑った。 「そのまま収穫も無く、黙って帰って、何も無し。そんなことはあるまい。」 首相がそういいながら、猜疑心に満ちた目で尋を見つめた。 「此処からワタシが帰ってからのことは、アナタには関係の無いことです。良い返事が頂けないのであれば、ワタシはこの辺で・・。」 そういって、尋は潔く部屋を立ち去ろうとした。 「待て!。キミも、相当狸よのう・・。」 首相は降参したといわんばかりに、尋を呼び止めた。 「キミは、自分が嵌められたと、そう思っておるかも知れんが、キミにまんまと、してやられたのは寧ろワタシの方だ。」 そういいながら、首相は思い出したくも無い、昔のことを語り始めた。 「キミが亡くなられた前総理に手を貸すまで、ワタシの優位は変わらなかった。永田町界隈では、既にその絵図が出来上がっていて、それを元にした国家作りが着々と進みつつあったんだ。それをだな、キミが余計な協力を前総理にしたばっかりに、ワタシは随分と恥を掻かされた。何が総裁候補ナンバーワンだってな。その後、ワタシは随分、冷や飯を食わされた。彼の長期政権が、殊の外、長かったからな。」 眉間に皺を寄せながら、恨み節を語る首相のその姿を、尋は淡々と見つめていた。そして、 「お言葉ですが首相、アナタに首相の席が回ってきたのは、いわば運否天賦でしょう。そして、その機会を早い時期に逸したのは、アナタご自身の才覚の無さ。恐らくは、そういうことでしょう。そのことをいくら嘆いても、それはご自身の不甲斐なさを露見するだけのことかと。」 「何だと!。バンッ!。」 尋の言葉に、首相は机を叩いて激高した。しかし、尋は微動だにしなかった。しかし、今となっては、例えどんなに尋に詰られようとも、最大の弱みを握られているのは首相の方であった。そのことを思い出した首相は、矛先を収めて、 「仕方が無い。取引といこうか。キミのいう通り、ダム建設の中止を実施すれば、例のものは無かったことにしてくれるんだな?。」 「首相。アナタは何か、考え違いをしてはいませんか?。ダムに沈む予定の、あの場所には、人々の暮らしがあります。確かに過疎化はしていますが、それでも、土地に根を下ろして、しっかりと息づいている人々がいます。そういう村々を、これまでも開発という名の下に、幾つも無くしていった。それはアナタも承知するところでしょう。しかし、今は当時のような建設ラッシュに肖る必要性も、ましてや、あの場所で治水も水力発電も行う必然性は無い。素人目にも明らかです。それを推し進めようとするのは、愚策以外の何物でも無い。と、ワタシはただ、そのことを伝えに伺っただけです。」 尋の言葉を聞いて、首相は再び立ち上がって激高しかけた。しかし、やはり彼は、尋の言葉を聞いて、自身の怒りを飲み込むより他に仕方が無かった。 「ふふ。キミのいう通りだ。キミはさぞかし、我々の愚行を見て、鼻で笑っているんだろう。まあいい。約束は果たそう。だから、キミも此処へ来たという事実は無かったということで。それでいいかな?。」 苦虫をかみつぶしたような表情で、首相はいった。すると、 「はて?、ワタシは一体、今、何処にいるのでしょう?。」 と、尋は首相と後輩の目の前で、三文芝居を始めた。そして、 「あ、其処の人、済まないが、ワタシを何処か外に連れ出してくれないか?。」 と、まるで記憶でも失ったかのように、後輩に頼んだ。後輩は、やれやれといった表情で、尋を外へ誘おうとした。と、その時、 「あー、最後に一つ、聞いてもいいかな?。」 と、首相が去ろうとする尋にたずねた。 「キミは濡れ衣を着せられ、投獄の末に、全てを失った。そして、そのことに対して、一切の反論を行わなかった。今日までは。それは一体、何故かな?。」 首相がそうたずねると、 「首相。いけませんねえ。そういう不用意な発言は・・。」 そういいながら、尋は胸ポケットから、小さな録音装置を取り出した。 「ワタシが用意した物など、証拠能力は何処にも無い。うろ覚えの走り書き程度ですから。ですが、首相、ワタシに濡れ衣を着せたことを知っているのは、ワタシと、その罪をなすりつけた当事者だけですよ?。」 尋はそういいながら、録音装置を右手に持ちながら、愉快そうに揺すった。 「そいつをよこせっ!。」 後輩が尋の右手からそれを奪おうとして飛び掛かった。と、 「ドカッ!。」 と、後輩は物の見事に執務室の絨毯に叩き付けられた。尋の一本背負いが見事に決まった。あまりの音の大きさに、外に控えていた秘書官達が部屋に飛び込んできた。 「どうしました?。」 その時、後輩は既に立ち上がっていて、 「いや、何でもありません。」 そういって、秘書官達を再び外へと追いやった。すると、 「心配するな。さっきのお前みたいに、アナタ達が何もしなければ、どうこうしやしないよ。」 尋はそういうと、録音装置を再び胸ポケットに仕舞った。 「そういえば、さっきの質問にお答えしてませんでしたね。」 そういうと、尋は首相の方に向き直って話し始めた。 「ワタシはとある宴席で、前総理にお会いしました。そのご、親交を深めるうちに、あの方が決して利己的では無い、むしろ利他的に生きておられることを、すぐに理解しました。ただ、権力の中枢近くで長年過ごされていたので、その界隈に蔓延る悪しき因習も同時に纏われていました。もし、何らかの気運が高まり、あの方に総理の席が巡ってくることになったとしても、いつ何時、寝首を掻かれてもおかしくない。しかし、そんな些末なことで、あの方の実現しようとする国造りを妨げるのは、実に勿体ない。そういったものを振り払う役割を担う人間が、どうしても必要になる。」 そういいながら、尋は首相の目を見た。 「ところが、幸いにして、まるでそういう役割を買えとでもいうような出来事が起きた。誰かが首相を陥れるべく、怪文書まがいのものを、永田町界隈にばら撒いた。あの方は、ワタシと共に国造りをしないかと持ち掛けてきた。正直、心が揺らぎました。ですが、そのためには、汚れ仕事おも辞さない人間がいてこそ、初めて成立すること。結果、ワタシはあの方と共に行動することは叶いませんでしたが、あの方と志を同じくして、共に信ずる道に進むことが出来た。あの方が理想とする国家の礎を築き、ワタシは影ながらに、そのお役に立てた。そう自負しています。そして、綺麗さっぱり、それで十分。ワタシとあの方とは、そういう関係です。」 尋はそういうと、部屋を立ち去ろうとした。 「あ、そうそう。其処に控えている、ワタシのかつての後輩がいますが、彼はなかなか優秀です。ワタシの知らない間に、ワタシが携わった書類の全てに目を通して、その形跡を消し去る名手です。普通なら、気付かれることはまず無いでしょう。そして、その結果が、ワタシの起訴と投獄です。実に見事でしたね。ま、それを機に、アナタが首相になるというシナリオは脆くも崩れ去りましたが。ですが、彼は実に忠実です。今頃になっても、ようやく総理の席を得たアナタにちゃんと仕えている。今後、どういう駆け引きや取引で、アナタの側に仕え続けるのかは知りませんが。ですが、アナタの部下としては、せいぜいそのくらいの者がお似合いでしょう。我々には全く必要の無かったことですが。では、失礼。」 そういうと、尋は後輩の方に手を置いて、彼を一瞥した。そして、その手を挙げると、後ろ手に手を振りながら、首相の執務室を後にした。後輩は両手の拳を握り締めたまま、黙って彼を見送るしか出来なかった。そして首相は、 「ふん!。よくもズケズケと。」 そう憤慨しながら、シガレットケースからタバコを取り出して、口にくわえた。それに気付いた後輩が、ライターの火を首相に差し出した。しかし、首相はその火を拒んだ。そして、一端くわえた煙草を手にすると、 「・・・だが、あれほどの男を部下に従えることが出来なかったのは、ワタシの技量の無さかも知れんなあ。ふふ。」 そういいながら、少し寂しそうに含み笑いをした。そして、 「おい、キミ!。キミは彼ほどに、何処までも辛抱強く、信を違えること無く、ワタシに仕えることが出来るか?。」 と、後輩の目を見てたずねた。すると、後輩は一度は目を逸らしたが、さっと向き直って、 「はい。何処までもお仕えします。」 と、首相の顔をみて、そう答えた。 「アホらしい。キミとワタシに、そんな関係が築けるものか!。我々は所詮、欲まみれ、これまでも、そして、これからも、そんな道を歩むより他にあるまい!。」 そういいながら、首相は後輩の顔を見た。 「・・・ですね。ふふふ。」 「ははは。」 そして、二人は互いの顔を見ながら、妙な具合に笑い出した。 「してやられたな。」 「はい。」 首相がそういうと、後輩も爽快そうに答えた。一方、官邸を後にした尋の元には、彼が来たことを知った、前総理の秘書官達が押し寄せた。 「尋さん!。」 「ご無沙汰しております。」 「何で連絡をくれなかったんですか?。」 みんなは口々にそういいながら、尋に抱きついた。 「はは。まあ、色々ありましたし。みなさん、どうも、すみませんでした。」 あまりの懐かしさに嬉し泣きをする人々に釣られて、尋もつい目頭が熱くなった。 「さて、ワタシはこれから前総理、いや、大臣の墓前に伺いたいと思うのですが、場所はどちらですか?。」 尋がそういうと、 「ええ。我々が案内しますから。」 そういいながら、みんなも尋に付き従った。そして、そのまま官邸の門を出ようとした時、一人の男性が門扉の横に立っていた。彼は尋の姿を見つけると、 「よっ。」 と、小さく頷いた。それを見つけて、尋も同じように、 「よっ。」 と、頷いた。そして、 「また後でな。」 そういうと、尋はみんなと一緒に、大臣の墓参りにいった。  尋がこの界隈から姿を消して以降、大臣は長期に渡って国を良くすることに、粉骨砕身勤めた。そして、海外からの圧力に屈すること無く、平和裏に国力をつけつつ、経済も発展の一途を辿っていた。尋の逮捕劇以降、大臣達は彼が一手にこれまでの罪を背負ってくれたことの重みを胸に刻みつつ、以後はどんな些細なことも、クリーンかつ誠実に行うよう、互いに誓い合った。そしてその結果、長期政権によって国は安定し、近隣諸国の何処よりも発展を遂げた。そして、その様子を、尋は新聞や訪れた先で目にしたテレビを見ては、一人静かに目を細めていたのだった。一行が大臣の墓前に到着すると、みんなは手を合わせた。そして、誰からとも無く、 「先生、ようやく尋さんがいらっしゃいましたよ。良かったですね。本当に良かったですね。」 そういいながら、感涙した。その様子を見ながら、尋は生前に再び大臣に会わなかったことを、心底詫びた。すると、 「尋さん、かなり以前に古都でお会いした時、そのことを先生にお話ししたら、もう今にでも飛んでいきそうな勢いでね。でも、その日が尋さんの最後の勤めの日だというと、彼は何時でも何処でも、一人ひっそり、誰かの世話をする、そういう格好いい人間なんだよなあって、そう仰ってましたよ。」 と、旧知の秘書官が、そういいながらしみじみとした笑顔を見せた。 「先生は、片時も尋さんのことを忘れたことは無かったです。そして、彼が何処かで頑張っているんだから、我々も頑張らないとなって、折に触れ、そう仰ってました。」 そんな具合に、大臣の尋に対するエピソードは、参列者から絶えることは無かった。そして、一頻りみんなが話し終えると、墓石を前にしながら、みんなは晴れ晴れとした顔で、再び手を合わせて拝んだ。そして、一行が帰ろうとした時、 「やっぱり、今も尋さんの居場所は、聞かない方がいいんですよね?。」 と、一人が尋にそっとたずねた。すると、 「いえ、此処からそう遠く無い、片田舎の峠で、飯屋の手伝いをやってます。」 と、尋は初めて、自分の居場所を伝えた。そして、 「訳あって、そこがダム工事で沈みそうだったので、それを止めてもらおうと、首相に陳情しに来ました。」 と、尋がそういうと、 「本当に、陳情だけですかあ?。」 誰かが尋にたずねた。すると、 「ははは。」 「ははは。」 「それだけのはずは、ねえ?。」 と、みんな大笑いしだした。そして、 「じゃあ、其処がダムに沈まなかったら、陳情は大成功って訳だ。」 「そうしたら、今度みんなで、ご馳走になりにいってもいいですかね?。」 と、みんな口々に嬉しそうにいった。 「ええ。是非。」 尋が快諾すると、みんなは歓喜した。これだけ時を隔てても、尋の功績を忘れる者は、誰もいなかった。そして、その人柄に触れ、数十年前に会ったことが、つい昨日のように思い出されたのだった。そして、尋は一行と別れようとしたとき、 「尋さん、これ、先生からお預かりしていたものです。どうぞ。」 そういうと、秘書官は封筒を尋に手渡した。中身はどうやら手紙らしかった。 「確かに受け取りました。どうも有り難う御座いました。」 そういうと、尋は深々と頭を下げた。同時に、秘書官も頭を下げると、直ぐさま尋の手を取って、 「また、必ず伺いますからね。では。」 そういうと、嬉しそうな笑顔を見せて、秘書官は去っていった。尋はその封筒を大事そうに懐にしまうと、携帯で友人に電話した。 「もしもし。尋です。」 「よう。今からいけるか?。」 「ああ。いいよ。」 二人は三十分後、かつて通ったバーで落ち合うことになった。尋は先程まで会っていた仲間のことを思い出しつつ、バーに向かった。石造りの外壁に、古びた重厚なドアが、西洋風な建物を彷彿とさせた。 「カランカラン。」 ドアの内側に着けられたベルも、昔とそのままだった。先にバーに着いた尋は、かつて座っていたのと同じ、カウンターの一番奥に腰掛けた。すると、 「ご無沙汰しております。」 と、白髪の老人が、挨拶をした。 「あ、マスター。お元気でしたか?。」 「はい。お陰様で。尋さんも、お元気そうで。」 マスターは尋のことをちゃんと覚えていた。何か注文はとたずねられたが、尋は連れが来るからと、飲み物を待ってもらった。すると、 「カランカラン。」 程なく、友人が到着した。 「よう。待ったか?。」 「いや。オレもさっき来たところさ。」 二人はかつてのように、バーボンのロックを頼んだ。 「で、今回の目的は果たせたか?。」 友人が率直に尋ねた。 「ああ。それは大丈夫だと思う。多分。」 「ということは、余程の爆弾を突き付けたってことか?。」 友人がそういうと、尋はニヤッと微笑みながら、 「まあな。」 と、短く答えた。 「おまちどおさまです。」 マスターが二人の前にコースターを置き、その上にバーボンのロックが注がれたグラスを置いた。そして、二人はグラスを持つと、 「じゃあ、久々の再会に。」 友人がそういって、二人は乾杯した。  長い間、二人は全く会っていなかった。尋も友人も、ぞれぞれ全く異なる場所で時を刻んできたことは、互いに語らずとも、その風体が全てを物語っていた。志を抱きつつ、巨大な組織に身を置いてはみたものの、そんな歯車の一部になることを共に良しとしなかった二人。そして、不器用ながらも、何とか此処まで辿り着いて、楽しく酒を酌み交わすことが出来た。それだけで十分だった。相当古く、懐かしい話を二、三しただけで、後はしみじみと酒を飲んだ。そして、 「大臣先生な、お前の居場所を本気で探そうとしたらしくって、オレの所にも何度も人が訪ねてきたよ。終いには、先生自らお出まししたくらいだ。」 「そうだったのか?。」 友人の言葉に、尋は驚いた。 「まあ、オレもお前の居場所は知らなかったし、先生もダメ元でオレの所来たみたいだけどな。で、いわれたよ。キミは本当に良き友をもっているなって。もし会うことがあったら、一生の感謝を伝えてくれって。そういってたなあ。」 そういうと、友人はグラスを仰いだ。 「そうか。そいつはすまなかったな。有り難うの方がいいかな?。」 そういいながら、尋もグラスを仰いだ。 「それとな・・、例の彼女の件なんだが、」 友人がそういいかけた時、尋のグラスを持つ手が止まった。 「聞くか?。」 友人は尋にたずねた。しかし、尋は何もいわなかった。 「今、近くの病院にいる。」 「病院?。」 尋がたずねた。友人は、彼女が入院をしているこ、友人の元にも再三訪れて、尋の居場所を聞こうとしたこと、そして、症状が思わしくないことを尋に伝えた。 「まあ、ああいう世界に生きる女性だからな。しかも、美しい上に才女だ。みなが放ってはおかなかっただろうし、彼女自身が進んで飛び込んだんなら、なおのこと、色んなことはあったろうな。オレも仕事柄、人様の生活を調査するうちに、パッと見ただけで、その人がどういう人生を歩んできたかが、解るようになっちまった。だから今は、もう辞めた。」 友人はそういいながら、グラスを飲み干した。 「器用に生きようとしたつもりでも、オレ達と同様、不器用だったんじゃないのかな・・。そうで無きゃ、お前のことを尋ねに、何度も来たりはしねえさ。」 静かに俯いて話を聞く尋をチラッと見ると、友人は胸ポケットから手帳を取り出して、一ページを千切った。そして、持っていたペンで何やら書き始めた。そして、それをカウンターの上に滑らせながら、尋の元に差し出した。そこには、病院名と番号が書かれていた。 「さて、ぼちぼちいくとするか。今度はのんびりと、お前のいる飯屋でご馳走にでもなりにいくかな。じゃあな。」 そういうと、友人は尋の方をポンと叩いて、勘定を済ませると先にバーを出た。尋は友人が残していったメモ紙を掴むと、それをポケットに仕舞った。 「マスター。ごちそうさん。」 そういうと、尋も店を出た。そして、夜空を眺めながら、この町での用事は全て済んだ。後は帰るだけ。そう考えていた予定が、少し変更になるなと思った。そして、酔い覚ましの夜風に当たりながら、尋は街路樹の下を歩いた。そして、 「此処か・・。」 尋は病院に着いた。友人から渡されたメモ紙にあったのと同じなの病院だった。尋は通用口から入ると、エレベーターホールに向かった。そして、四階のボタンを押した。エレベーターの中は、尋一人だった。階を表示する明かりを見ながら、尋は深呼吸をした。 「ポーン。」 到着すると、エレベータのドアが開き、尋は右に曲がると、長い通路を歩いた。 「四○七・・。」 小さく呟きながら、尋は一歩一歩、ゆっくりと歩いた。そして、その番号が書かれた病室に着くと、名前を確かめた。 「・・・楓。」 尋はドアノブに手をかけた。と、その時、 「・・ん?。」 中から人の話し声が聞こえてきた。尋はドアノブから手を離すと、そのまま通り過ぎて、突き当たりにあるソファーに腰を下ろした。そして、背もたれに持たれながら、 「此処まで来たんだ。焦ることはない・・か。」 と、噛みしめるように独り言をいった。それからどれぐらいの時間が過ぎただろうか。病室から一人の男性が出て来た。彼は辺りの様子を気にしながら、エレベーターの方に向かった。 「来てたか。やはり・・。」 尋はその後ろ姿に見覚えがあった。それは間違い無く、首相の姿だった。尋は何気によそ見をしている振りをしつつ、その場をやり過ごした。そして、彼の姿が見えなくなったのを見届けると、立ち上がって病室のドアノブに手をかけた。そして、ドアを開けた。 「あら、先生。何か忘れ物?。」 と、病室の奥から少し掠れた、しかし、確かに聞き覚えのある声が響いてきた。そして、 「こんばんわ。」 尋は彼女を、楓さんを見た。彼女ははじめ、誰が立っているのか解らない様子だった。そして、それが尋だと気付くと、 「あっ。」 と、小さく声を上げた。  浴衣姿の痩せ衰えた女性が、ベッドの上に座っていた。間違い無く楓さんだった。 「久しぶりです。」 尋は少し歩み寄った。すると、 「ちょっと待って。」 と、彼女は手で髪を整えつつ、身綺麗にしようと慌てた。尋はベッドの脇にある小さな丸い椅子に腰をかけた。そして、優しい眼差しで彼女を見た。 「どうして此処が?。」 彼女はたずねた。どんなに彼女が願っても、あの日以来、全く会うことの叶わなかった人物が、居場所も知らせていなかったのに、今急に、此処にいる。彼女には不思議でならなかった。 「会いたかったから。」 尋はそうとだけ答えた。すると、彼女は俯いて、そのまま黙ってしまった。 「全く会わなかったのに、急に来たら、やっぱり迷惑だったかな・・。」 尋は申し訳なさそうにそういうと、席を立とうとした。 「何で。何で今なの・・。」 何もかもについて、彼女がそう思うのは当然であった。しかし、尋はあまり時間が無いことを察すると、 「実は今、とある片田舎の峠で、料理人をしてるんだ。」 そういいながら、今日、この町にやって来た理由と、此処に来る前に官邸で何をしてきたのかを彼女に話して聞かせた。勿論、前総理が滞りなく職務を全うするために、とある人物が仕掛けた罠にワザと嵌まってみせた話も。すると、 「・・・そうだったの。」 と、静かにいった。 「アナタはアナタの正義を貫いた。やっぱり、尋さんらしいわ。」 そういいながら、やっと彼女は顔を上げて微笑んだ。しかし、すぐに表情は曇った。 「アタシはてっきり、自分の男性関係がアナタに知られたとばかり・・、」 彼女がそういいかけたとき、 「キミもキミの思いを全うしようと、懸命になってた。だろ?。なら、それでいいんじゃない・・。」 と、彼女がいいにくそうなことをこれ以上口にしなくていいように、優しく言葉を遮った。そして、彼女を見つめながら、懐かしそうに微笑んだ。随分痩せてはいたが、昔のあの艶やかで美しい面影は、そのままだった。すると、 「ザッ。」 彼女は急に尋に抱きついた。尋は彼女をしっかりと受け止めながら、ぎゅっと抱きしめた。彼女は尋の胸元で噎び泣いた。 「会いたかった。」 「ボクも。」 いつの間にか、尋の目頭も熱くなった。そして二人は抱き合ったまま、長い間何も喋らなかった。どれくらいの時が流れただろうか。ようやく尋が彼女の両肩に手を置いて、 「さて、誰か来るといけないから、もういくね。」 そういって、尋が立とうとした時、彼女は再び尋に抱きついた。そして、暑く長い口付けを交わした。そして、 「また、会える・・・?。」 と、彼女はたずねた。尋は微笑みながら、 「ああ。ボクはずっと峠の飯屋で料理を作ってる。そして、もう、何処へもいかないから。」 そういい残すと、小さなメモ紙に店の住所と電話番号を書いて、それを小さく折りたたむと、彼女に手渡して、その手をそっと両手で包んだ。 「待ってるから。」 「ええ。必ず。」 二人は微笑んだ。そして、尋は病室を後にした。建物を出ると、満天の星空だった。尋は空を見上げながら、これで自分の中に長い間横たわっていた何かから、解き放たれたような、そんな気がした。そして、一番輝く星を見つめながら、 「どうか、どうか・・・。」 と、密やかに、そして、力強く願った。尋はその足で駅まで歩くと、待合室で始発を待った。 「さあ、帰るか。」 そう小さくいいながら、尋は自身を鼓舞した。  その後、随分と建設の進んでいたダム工事は、突如として中止が発表された。解体費用は随分と嵩んだようだったが、首相の肝いりとのことで、工事は速やかに行われた。あまりに突然のことに、工事で潤っていた連中は目を丸くしていたが、店の主人以下、昔なじみの連中は、 「とうとう尋さん、やってのけたのう!。」 そういいながら、互いに喜び合った。取りたてて特産品や産業のある町ではなかったが、その地に再び、静かな生活が戻って来た。変わったことといえば、峠にある小さな飯屋が噂を呼んで、今も客が絶えないというぐらいだった。ダムの一件以来、仲違いしていた村の連中も、そのうち尋が出す食事の上手さに、足繁く通うようになった。そして、 「なあ、尋さん、今日もボチボチ看板にするか。」 「ええ。」 店主がそういうと、何かを待つかのように、ずっと入り口の外を眺めていた尋は、仕舞支度を始めた。数日前、尋の元に一本の電話が入った。 「もしもし、オレだ。お前、彼女に何をした?。」 元探偵の友人からだった。何か急に希望の糸が繋がったように、自分の最後を覚悟していた彼女は、打って変わったように病院で節制と運動を続け、退院して行方を眩ましたとのことだった。 「さて。明日も頑張るか。」 そういいながら、尋が暖簾を仕舞おうとした時、ふと向こうに誰かが立っているような気がした。すると、 「こんばんわ。」 一人の痩せた女性が微笑みながら、そこに立っていた。 「・・やあ。さ、どうぞ。」 尋は再び暖簾を元に戻すと、彼女を店の中に誘った。夜空にはかつて見た星が、一段と光り輝いていた。
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