ムーンライズ

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 夢中になって食べていたら、視線を感じてハッとした。  お店のお兄さんと目が合った。  彼はカウンターの中には居なくて、少し離れた席で、テーブルの上を整えていて……ていうか、俺のことすごい見てるんだけど。  それも、なんだかほんのり微笑みながら。  急に気恥ずかしくなって、まだ口の中に残っているさくらんぼの種をどうしようか、なんて考えてしまう。 「おいしいです」  目が合ったのに、あっちが視線を外してくれないから、俺はそう伝えた。実際まじで美味いし。  普段の俺はそこまで社交的じゃないけど、なんてったって今は酔っ払いだし。 「ありがとうございます」  お兄さんは、肩をすくめて微笑んだ。  え、なんか照れてる感じ?  目を逸らさずに俺をガン見して来たくせに、照れたように微笑む様子が、なんだか急に可愛らしいひとに見えてくる。  その時ちょうど、ドアが開いて、客が入ってきた。思わず時計に目をやってしまう。  10時10分。  正しく時間を守っている、本物のお客さんだ。 「いらっしゃい」  お兄さんは俺に会釈すると、お客さんを迎えに向かう。 「え、もうお客さんいるんだ、珍しいね」  その女の人は慣れた感じでカウンター席に座ると、ちらりと俺を見て言った。常連さんごめんなさい。みたいな気分になる。  その後も、お客さんが定期的に入ってきて。お兄さんと親しげに会話を交わしてる。  アットホームな感じのカフェだったんだな。  あっというまに空になったグラス。  クリームの混じった氷をストローでかき回して。氷の溶けたほんのり甘い水を啜る。  ストーブに温められて、スベスベでふかふかの革のソファーに沈み込んで。まだ立ち上がりたくないし、なによりも帰りたくない。  グループのお客さんは少なくて、個々にやって来た人たちが、それぞれに知り合いみたいで。談笑する声が聞こえて、店は幸せなザワザワで満ちている。それも心地が良くて。俺はよそ者だけど。それでも十分すぎるくらいに居心地がいい。  アクシデントみたいに飛び込んだ店だったけど。今ここに座っていることが、すごくラッキーだなって、思った。  そこまで考えて、ふっと明日からのことが頭に浮かんで。まだ、ラッキーだなんて事を考えるのかって。自分で思っているよりも自分の精神がお気楽で驚いた。  ソファに体を投げ出していると、そばに人が立っているのに気がついた。見上げると店員のお兄さん。 「お下げします」 「あ、はい」  にっこりと微笑むとグラスを持ち上げるお兄さん。  店の席は七割埋まっている。  ああ、飲み終わってしまった。席、空けなきゃだよな。  だけど、この心地よくて温かい場所から、まだ出たくない。ひとりぼっちの家に帰りたく無い。それすら、もうすぐなくなってしまうんだ。  店員さんの背中を見ながらそう思った。  あんまり長居したらきっと迷惑だし。出なきゃ。  そう思うのになかなか立ち上がれないでいた。 「どうぞ」 「え? 頼んで……」 「新メニューなんですけど。試してもらえませんか?」  不意に目の前のローテーブルに、マグカップが置かれた。 「えっ?」 「サービス、っていうか、お願いなんです……もし良ければ」  見上げると、さっきのお兄さんが俺を見下ろしていた。柔らかい口調で微笑んでいる。まるで帰りたくない俺の気持ちを見透かしたようだ。 「えっ、あ……ありがとうございます」 「少しアルコール入ってますけど、大丈夫ですか?」 「あ、はい。頂きます」  目の前には、湯気の立ち上るマグカップ。甘いチョコレートみたいな香りがする。それに、オレンジ……?  香りに誘われてマグカップを持ち上げると、口を付ける。  それは、オレンジのリキュールの入ったホットチョコレートだった。 「……うま」  ビターなチョコドリンクに、爽やかなオレンジの香り。だけど、喉を通る時にアルコールを感じる。大人の飲み物だ。  しっかり甘くて、だけどほんのりビターでめちゃくちゃ美味しい。  試飲だからなにか感想を言わなくちゃと見上げると、もうお兄さんはいなくて。もうカウンター席のお客さんと談笑していた。  ありがたさを噛み締めながら、俺はそれを時間をかけてゆっくりと味わった。  酔いは覚めることがなくて、まだふわふわとした思考の中。時々、明日からの不安が急に襲って来て押しつぶされそうになる。  その度に甘いドリンクで喉の奥へと押し流した。
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