春一番はまだ吹かない

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「ふふ、おそろいだね」 ふわっと桜の蕾が綻んだような笑顔を前にして、あぁ、春だなと思った。 中弛みの時期と呼ばれる高校二年生に進級したばかりの頃、先生達からのありがたいお言葉に辟易していた僕の世界に、彼女がやってきた。 「委員会一緒だよね?これからよろしくね」 花の香りを纏う長髪の君。一年生の頃から緑化委員会に入っていたという彼女は、何の比喩表現でもなく花の香りがした。美人で気立てが良くて、いつも柔らかな表情で話しかけてくれる彼女を好きになるのに、そう時間はかからなかったと思う。それと同時に、彼女が恋愛事を意図的に避けているのだと気づくのにも。 彼女は自分に対してあからさまな好意を向けている人の所へは近づかない。それが相手に希望を抱かせないようになのか、好意を向けられるのが嫌だからなのかはわからないけれど。委員会で一緒だった三年生の先輩は、彼女が別の担当区画に立候補することで避けられていた。いつも明るくてクラスの皆に好かれている山城くんは、席替えで隣になったけれど黒板の見えにくさを理由に彼女とは席が離れ離れになった。他の人たちもそうだ。彼女を好きになった人達は、彼女から事ある毎に徹底的に避けられる。 その訳が知りたくて、一度彼女に質問したことがある。曰く、桜は直ぐに散ってしまうから、との事だった。彼女の母は華道家で、彼女もまた幼い頃から華道を習っていたらしい。彼女が身の回りの事を花に例えて話すことはよくある事だった。彼女の言い分がつまりどういうことかと言うと、恋は直ぐに終わってしまうから恋人を作る気は無い、そういうことだった。彼女にとっては、恋の蕾を開かせることすらさせたくないのだろう。残念ながら、それを知るころには僕の恋の花はとっくに咲いていたけれど。だが、それを知られてしまえば僕の恋の花はお終いだ。彼女は僕の桜を生けて飾ってはくれないし、僕が自分で手折ることも出来ない以上桜は僕の心の中で咲き続ける。どうせ咲き続けるのなら、せめて彼女の傍にある方がいい。 だから僕は彼女への好意を隠すことにした。元々表情にはあまりでない方だったし、距離感さえ気をつけていれば好意を隠すことはそれほど難しい事じゃなかった。おかげで僕は今も彼女の友人で居られている。 彼女と出会ってから二度目の春。学校長に頼まれて彼女が生けたという桜は、校長室の前で見事に咲いていた。桜の花がほとんど散って葉桜になっても尚、彼女の桜は一等美しかった。 その桜を前に立ち止まった僕の顔を、隣に立つ彼女が覗き込む気配がした。分かっている。移植ごてやら何やらが入ったダンボールは二人がかりで持っても重いのだから、早く委員会の倉庫に持っていくべきだ。けれど、何だかこれだけは言っておかなければいけないような気がした。 「桜の花が、散らなければいいのに」 儚いものなんか嫌いだ。どんなものだって終われば最後には寂しさだけが残る。散り際が美しいのなんて結局物語の中だけで、美しい時が続くなら誰だってその方が良いに決まってる。恋だってそうだ。彼女が嫌わないくらいに、恋が美しいものなら良かったのに。 「君の桜なら、散らないんだろうな」 「あなたのは散っちゃうの?」 「……散らせないよ」 「ふふ、おそろいだね」 春だ。彼女の嬉しそうな笑顔で、また桜の蕾が綻んでいく。暖かくて、眩しくて、泣きそうになるくらい美しくて、心が満たされて溢れそうになってしまうから、僕はまたきゅっと口を結ぶ。桜をこの嵐のような激情で散らしてしまわぬように、静かに心の奥へ押し込めて、しまい込む。彼女に僕の桜が咲いていることを気取らせないように、深く、深く。 春一番はまだ吹かない。彼女が桜を咲かせないうちは。
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