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11 @2023年、東京
@2023年、東京
カフェの大きく明るい窓からは、渋谷駅周辺に建っている高層ビルが何本も見える。
それらはブルーの窓ガラスに包まれ、ある面は陰り、ある面は太陽の光を強く浴び、弾き返している。
明は、周囲を見渡した後、視線を下に向けた。
スクランブル交差点は、いつものように多くの人が行き交っていた。
信号の指示にしたがって、小さな虫のような人間たちがわーっと双方向に流れ、交差し、ぶつかることなく進んでいく。
規則正しく、その流れが繰り返される。
明は飽きることなく、時間を忘れ、それを眺め続けた。
昼下がりのカフェでのんびり過ごせるなんて贅沢な時間だと思った。
仕事は忙しいが、数年先までスケジュールは埋まっている。
生活にかかるお金の心配をすることもなくなって、ずいぶん時間が経つ。
仕事の悩みはあるが、これをずっとやっていきたいと思える仕事を得たのだから、何をして生きて行こうかと将来に悩むことはなくなった。
なくなってみると、それにかけていた時間がいかに多かったかを思い知った。
明は視線を外から中に向けた。午後の渋谷のカフェでは、ノートパソコンを広げて仕事をしている人が多い。
安いファーストフードの店なら、学生や若いカップルに溢れているが、それよりいくぶん単価の高いカフェにはビジネスマンやビジネスウーマンが集っていた。
自分もああやってパソコンに向かって仕事をしていた。
派遣生活を抜け出せたのも、あの人のことがきっかけだったと思い出す。
明は再び外を見た。スクランブル交差点の信号が変わり、急いで白線をまたぐ人たちの群れが、駅に向かって流れはじめた。
**********
高校ではいつも絵を描いていた。
ベランダに出て、校庭で制服のままサッカーやバスケットボールに興じる男子学生たちをスケッチして過ごした。
雨が降れば、窓際の席を借りて、窓に流れる雨粒を描いたりして時間をつぶした。
教室内では、おしゃべりをしている女子生徒やプロレスごっこに夢中な同級生たちがいたが、明はその群れに加わることはなかった。
田舎で育ち、ゲイであることを隠すのに必死だった。ボロが出ないように、友達も作らず、いつも一人でいた。
絵を描くことが得意だったから、そこに逃げ込んだのだ。
東京に出てからは、スケッチの代わりに漫画を描くようになった。
小さな賞をとって、編集者とやり取りもするようになったが、なかなかデビューすることはできなかった。
編集者からは、
「うーん、ほんとに絵は上手いんだけどなあ、ストーリーがなあ、これじゃ、ちょっとお話になあ・・・ほんとに絵は最高なんだけど」
などと言われ、
「原作の人と一緒に仕事するのはどう?」
と度々すすめられたが、
「はあ、その・・・ 考えてみます。ありがとうございます」
と返すばかりで、前に進めなかった。
自分で考えたものを形にして世に出したかったし、誰かとイメージを共有し、作品を作り上げていける自信もなかった。
時間は過ぎるばかりで、三十を過ぎていたし、閉塞感に包まれていた。
自分の選んだ道が間違いだったのではないか、方向転換を考える時期なのかもしれないと悩み始めていた。
運よくストレートで芸大に合格して東京に出てくることはできた。東京では友達もできた。
でも、ひみつを抱えたまま社会に出るのは怖くて、絵が得意だったし好きだったし、漫画家を目指した。動機が甘かったのかもしれない。
絵はいいんだけどねと言われ続け、誰かと一緒に仕事をする自信もなくて、バイトや派遣で職場を転々として、疲れていたし、もう漫画家はダメかもしれないと、そればかりを思うようになった。
そんな頃、あの人に出会った。
派遣先で仕事をしていると、強い視線を感じた。
顔をあげれば、いつもあの人がこっちをじっと見ていた。見返しても、そらすことはほとんどなく、ただ、こっちを見つめていた。
切ないような、悲しいような、怒っているような、必死なような、そんな視線だった。
あの人に出会わなかったら、漫画家にはなれていなかったと思う。
「ごめん、遅れちゃった」
大きな明るい声がして、目をあげると、彩夏が立っていた。あの頃と変わらず、悪いものを弾き飛ばそうとするような、強い笑顔だった。
「ひさしぶり」
「おひさしぶりです」
言葉を返し、笑い返した。
「やだあ、敬語止めてよ」
「つい働いてたときの癖で」
彩夏とは同い年だが、派遣先の担当社員だったので、敬語で接していた。
「あのときもため口で良かったのに。うちの会社、雰囲気緩いし」
彩夏はずっと笑いを浮かべたまま、続ける。
明はほんとに変わらないなと、その彩夏の顔を見ていた。
彩夏は、明の前に腰を下ろし、近寄ってきた店員に「同じものを」と注文する。
「元気だった?」
「はい、まあまあです」
「どんな漫画書いてるかは、まだ教えてくれないんだよね?」
「はい」
明は笑ってごまかす。
「残念」
「でも、あの会社で、漫画家になったこと知ってるのは彩夏さんだけです」
「そうなの?」
「はい」
「それは、うれしい」
彩夏は運ばれてきたコーヒーに口をつけた。
「もう十年か」
「十年ですね」
「私たちももう43か」
「43ですね」
「ベテランだ」
「ベテランです」
二人で笑い合う。
「あの頃、私たち33か。十年か・・・」
彩夏が言葉を切り、外を見た。明がさっきまでそうしていたように、スクランブル交差点の人の流れを面白そうに眺めている。
「彩夏さん」
「なに?」
「聞きたいことが」
「はいはい、なんでも。あ、でも言っとくけど、私、結婚してないから。そーゆー質問はなしね」
彩夏は照れくさそうに笑った。
彩夏のように仕事のできる女でも、そんなふうに未婚であることをウィークポイントに思わなければならない世間の定説がほんとにくだらないと思う。
「はい」
「で?」
「福岡に異動した吉行さんのことです」
彩夏の表情が曇る。
こっちをまっすぐに見ていた吉行涼介が急にオフィスから居なくなった。それで自棄になってBLを描いた。それが編集者に認められてデビューできたのだ。
今があるのは、吉行のおかげだと言える。
明は続けた。
「いま、どう過ごしてるのかなって」
「涼介は・・・」
彩夏の口が急に重くなる。
その名を口に出せば、吉行の姿がページをめくるように、頭の中に広がっていく。こっちをまっすぐに見ていた、あの強い瞳。
BLは自分のことを描くようで、それが嫌でずっと避けていた。
でも、やっと掴みかけたと思った『恋のようなもの』を急に失って、もうどうにでもなれと思って描いたのだった。
「涼介は・・・」
彩夏は、意味をもたすように、小さく息をはいた。
「死んだわ」
「え?」
絶句する明を見て、彩夏は続けた。
「二年前、福岡で死んだわ」
吉行が死んだ。死んでいた・・・
譲の顔が浮かんだ。
仕事だけではない。吉行が消えてから、自分の手に入ったものは。
吉行が消えてからの十年の間のことが、頭の中を駆け巡る。
嬉しかったこと、忘れていたこと、楽しかったこと、苦しかったこと、忘れたかったこと、すべてを振り返りながら、明は何も言えず、硬い表情で彩夏を見つめ続けた。
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