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03 @2013年、東京、大手町
@2013年、東京、大手町
明はオフィスで働くのが好きだ。無機質なビルの中で無機質なツールに囲まれ、淡々と手を動かす。何に悩むこともなく、何も考えなくていい。
仕事さえ真面目にしていれば、この空間ではすべてが許される気がする。
なにか悪いことがしたいわけでもないのだけれど。
監視されているわけではないが、人の目があるので、だらけすぎることもない。
働いているだけで、他のことは頑張らなくてもいい。そんな言い訳をもらえるような気がしている。反対に仕事をしていなければ、生きていていいのかというほどの罪悪感に包まれる。
自分はほんとに平凡で小さな小さな人間だと思う。
明は手を止めて、窓際のある席を見つめた。
誰も座っていないその席は、きれいに片づけられ、窓からの午後の陽を浴びていた。
明がじっと空席を眺めている様子を確認しながら、井上彩夏が近づいていく。
「紫村さん」
明が一瞬びくっと体を揺らし、椅子を回して、彩夏を見上げた。
彩夏はいつものようににこやかに笑っていた。
「ちょっとお願いしても、いい?」
「もちろん」
明も笑って応える。
派遣社員として、大手出版社であるK出版で働き始めて一年が経つ。
いろんな仕事を抱え忙しいはずなのに、彩夏はいつもにこやかで柔らかい。
派遣とわかれば態度を変える人も少なくないのに(正社員がほとんどおらず、契約社員や派遣社員で回っている出版社でもだ)、彩夏は誰に対してもフラットな態度をとっていた。
当たり前のことかもしれないが、忙しさや職場の小さなトラブルの中でも、それを守れる人はとても少ないので、明は彩夏のことがとても好きだった。
「毎週月曜に出してもらってる売上表なんだけど、昨日までのデータで更新してもらっていい? 直近のデータを反映したものを、明日の朝の会議で使いたいんだ」
「あ、はい」
「今日中に出せるかな?」
「ぜんぜん大丈夫です」
「助かる~。ありがと」
彩夏がほっとしたように笑う。
できる人間に仕事は集中する。
ひとつの予定がずれれば、他の予定が動かなくなる。
表には出さないが、彩夏だっていっぱいいっぱいなのだ。
彼女の手助けが少しでもできればと思い、明は笑う。
「ぜんぜん。仕事ですから」
彩夏の視線が、さきほどまで明が視線を向けていたデスクで止まっていた。
「吉行さん、ですか?」
「あ、うん」
「急な異動でしたよね。寂しいですか?」
「あ、うん。まあ、唯一の同期だからね」
「仲良かったですもんね」
「まあね。でも、仕方ない。異動は奴の希望だから」
「福岡でしたっけ?」
「そう、福岡。実家があるんだよね」
彩夏が少しだけ視線をずらし、机の側の窓の外を見る。
その先に吉行の居る福岡があるのだろうか。
「へえ」
「結婚して、お母さんのいる地元に戻って」
「親孝行ですね」
それには答えず、彩夏がふっと鼻で笑う。
そのちょっと皮肉な様子を見て、明はちょっと驚く。
明の視線に気づき、彩夏が慌てて笑った。
「そうね。お嫁さんを連れて、女手ひとつで大学院まで出してくれたお母さんのいる地元に戻って。でも・・・」
「でも?」
「なんでもない。さ、仕事しないと。さっきのやつ、お願いします」
「あ、はい」
彩夏がにこやかな表情を浮かべたまま、明から離れる。
彩夏の背中が遠くのデスクの間に沈んだことを確認して、明は再び吉行涼介の座っていた机を眺めた。
そこに吉行が座り、電話をしていた姿を思い出した。
明はしばらくの間、記憶の中の吉行の姿をなぞった後、彩夏に頼まれた仕事をするために、パソコン画面に向かった。
エクセルの中に並んだ数字に集中していたとき、スマホが短く振動する。
ズボンのポケットからスマホを取り出すと、新しいメールが届いたと通知が出ていた。
明は、スマホを操作し、誰からのメールか確認する。
送信元はJOとなっていた。
JO、さん?
「あ」
明は椅子から立ち上がり、廊下に出る。
少し進んだところにあるドアから非常階段に出た。照明が弱く、少し薄暗い非常階段の踊り場で明はスマホを眺めた。
メールは簡潔で、でも内容のはっきりとしたわかりやすいものだった。
こんにちは。
仕事中かな?
お疲れ様です。
この前はどうも。良かったら飯でも行きませんか?
余計な修飾の少ない文面を、明はいいなと思う。
ふと席で仕事をしていた吉行の姿が頭に浮かんだ。
明はスマホを操作し、JO宛てにメールを打った。
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