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 はじめてそれを目にしたとき、彼女は単に、 「ペンキが塗り替えられた?」と思ったらしい。  それくらい『白』が際立っていたのだろう。秋の日の遅い夕暮れで、外灯は灯っていたが、辺りは決して明るい状態とはいえなかったようだ。場所は右上曲がりのT字の三叉路。Tの上部線に相当する右側の一本道は駅前商店街に至り、もう一本は数百メートル先で環状道路と打つかっている。  彼女が気になったのは、Tの上部線を支える支柱の先端部に描かれた『止まれ』の文字だったようだ。その文字がTの字の下方部から歩いてきた彼女には白く浮かび上がっているように感じられたという。それで「ペンキが塗り替えられた?」と。  もちろん、そういった標識文字(というのか?)の中には自ら発光するものもあるし、また蛍光塗料が混ぜてあれば外灯の明かりを受けて輝いて見えるはずだ。  でも実際には……。 「そうね、白そのものが浮かび上がっているように感じたから、真新しいペンキが塗られたと脳が印象を補完したのかもね」  彼女は語る。 「あんまり記憶はないんだけど、ああいう文字って、所々が禿げて地のコンクリートの濁った灰色が透けて見えるのが普通じゃない? そういうイメージが頭の中にあったから、その瞬間、ペンキが塗り替えられたのか、って感じたんじゃないのかな」  しかし、その文字の変化は派手なものではなかったようだ。 「近くを歩いていた他の人たち――そんなに多くはなかったけど、二、三人ってところかしら――は気にしていなかったみたいだしね。でも、そんなもんかなと思って、マンション……っていうか、私設共同住宅の壁を見てみると――ええと、文字を見ていた視線を上げた先のT字の連結部の向こうに建っていたモノなんだけど――の壁が、やっぱり薄く浮かび上がって見えたんだよね。建物をぐるっと囲む高さ二メートルくらいの石垣風の壁の上のドウダンツツジの生垣と、その上のフェンスの隙間からふわっと覗いて(彼女は首を捻りながら)浮かび上がって見えるっていう具合……」  その全体的な印象は? 「そのときは特に綺麗だとも、逆に怖いとも感じなかったけど……。すぐにその場を去ってしまったし……。買い物して、家帰って、料理して、食べて、寝て、忘れたわ」  にこやかな笑み。 「そりゃ、そのときには気がついているわけありませんでしたからね。ごく限られた地区とはいえ、全世界で同時多発的に『それ』がはじまっていただなんて……」  その後、当該地域は半径約二キロに亘って封鎖されている。 「あの『止まれ』の文字の一帯が、ゾーンとか、区画とか、領域なんて呼ばれるようになるのは、それからずっと後のこと。五年以上、先の話ですからね」  国の要請により、近傍に建設されていた賃貸アパートやマンションから強制的に移動させられるまで、彼女と付近の住民たちは『それ』の変化を普通に眺めてきたという。 「だって別に害はないし……。調査の人たちが増えてきたのが通行の邪魔だった――最後の方はかなり――っていうことはありましたけど……。でも気味悪がっていた人たちは、さっさと引っ越していったみたいですよ。現代の化け物屋敷、夜光るマンション――って、よく見ると昼にだって白が浮かび上がって見えるんですけどね――が怖い人たちは、さっさと……」  その現象が発見・認知された最初の頃、種々の噂が立ったらしい。 「調査の人が調べても、全然そんな結果は出なかったらしいんですけど、放射能が混じっているから光るんだ、とかね。今時、夜行塗料にだって放射性物質は使われていませんよ。その昔のラジウムとか、それよりもずっと安全だったけどプロメチウムが使われていたのは一九九〇年代の初期くらいまででしょ?」  他にもさまざまな憶測が飛び交ったようだ。 「流言飛語ばっかりだったですよ、最初の頃は……。ペルセウス流星群の仕業とか、宇宙人とか、神様とか、他にもいろいろありましたけど、まあ、ご想像にお任せします。いわゆる心霊スポットのような扱いでしたね。あそこの周辺みたいな都会の住宅地――っていうか、山の手では――なかなかレジャー・スポットにするのは難しかったんでしょうけど、ベトナムとか中国の奥地、それにカリフォルニアの内陸の方とかに発生した『領域』は一時――って、今もか!――観光地化されているでしょう。テレビで報道を見たことがありますよ。何もないんですけどね。ただ白いだけで……」  しかし、その白い色の謎を有識者たちは未だに解くことができないのだ。 「自然現象が新しくひとつ観測された、それじゃ駄目なんですかね。もちろん何がしかの原因はあるでしょう。地震だって、雷だって、雪だって、日蝕だって、初めて発見/観測されて記録/再確認されるまでは、この世にない現象だったわけでしょう? それに観測されたからには引き返しはできませんよね。記録されたからには、なかったことにもできない。ああ、でも月は円板だ根本主義者は今でもいるか?」  舌で上唇を舐めながら、 「えーと、変化の進み方はですね。一言で言えば、簡単なんです。白いもの、あるいは白い要素を持ったものが、純粋により白くなっていったんですよ。たまたま最初に気がついたのが『止まれ』の文字でしたけど、あれがもし赤ペンキとか青ペンキで描かれていたら、何も変化は起こらなかったと思います。でもたとえば、オセロゲームの白とか、壁の一部の白もそうですし、標識の囲い、一部の電信柱、キッチン、ワイシャツや夏向きスーツ、ホワイトチョコレート、砂糖、塩、それに想像できるものすべてが、たとえどんなに色褪せていても、白としてそれそのものの中に戻って来たんです。最初に浮かび上がって見えたのは、たぶん、それが本物の白だったからでしょう。で、おかしな言い方かもしれませんが、抽象の『白』ではなくて具象の『白』、っていうか、逆かな? これは学者さんたちも認めているようなんですが、抽象そのものの具象化っていうか、生命化っていうか、どうやらそんなようなことが起こっているらしいと考えられたんで封鎖された……んじゃないかとは思っています」  抽象の具象化とは? 「たとえば光だったら観測体に認識できるすべての波長――あえて色っていいませんけど、色は人間なら人間っていう特殊な生物の光感知器官が受け取った情報を情報処理システムである脳がそういうふうに分類しているだけですから……。魚や虫の中には紫外線みたいに人間にとって可視光線以外の光を認識するものもあるんですけど、彼らが見ている色を人間は見ることも想像することもできません――を全部合わせたものが『白』ですよね。そういう『白』は、名前は白でなくとも、あるいは名前がなくても構いませんが、具象の『白』です。反射光の方でいえば、ノートのページ部分の『白』とか、ジンチョウゲの『白』など、大きさや形や色彩的な幅/広がりを持ったものが具象の『白』ですよね。でも色の『白』は抽象の『白』です。色という概念自体が抽象化されたものですから。うーん、これが赤とか青だったら、波長の広がりで、たとえば虹の色が文化圏によって同じではないでしょう。日本では七色だけど、ネイティヴ・アメリカンだったら六色だとか、アフリカの一部の部族では八色で、フランス、ドイツ、メキシコのマヤ族が五色で、日本でも古代では五色だったというように、もっとわかりやすく表現できると思うんですけどね」
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