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第二皇子に婚約破棄されてしまった公爵令嬢は某伯爵と甘くとろけるようなキスをする
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私の知り合いもその理不尽極まりない言葉に弄ばれた。まったくどうして男という生き物は思いやりのないぞんざいなセリフを好き勝手にのたまうのか。次は私の番だというわけである。まったく死んでくれればいいのに。手術には「矢」が伴うという。ぜひとも大病を患ってその「矢」の餌食になってもらえないだろうか――本音である。
「ナオミ・スレイマニ! 私はいまこの場において、おおおっ、おまえとの婚約を破棄する!!」
本来であれば皇子とその婚約者である私とが永遠の愛を誓う場だったはずだ。なのに私が会場でパーティーの出席者と談笑している際に壇上からそんなふうに宣言されたのだ。普段はじつに弱腰で情けない男だが、だからこそ褒めておこう、皇子様。「婚約破棄」――きちんと言えたではないか、最後は多少どもってくれたが。
元よりお互いが好き合うに至らないことはわかっていた。その最中において、婚約相手――もはや「だった」というべき国の第二皇子は恐らく「よろしくやっていた」のだろう。「よろしくやっていた」――あえて古い表現を用いてみた。とにかく、私はこれで「公爵令嬢」以外の肩書きを持たなくなったわけだ。いや、「公爵令嬢」という地位はかなり恵まれているのだが、なにせ第二とはいえ皇子に「婚約破棄」を突きつけられてしまったのだ。しょうもない実績を作ってしまったことは間違いない。第二皇子には「死ね」とか「朽ちろ」と言いたい。少なくとも私はこの広く大きなパーティー会場において恥をかかされてしまったのだから。ほんとうに、まったく、気弱で軟弱で脆弱な男であるくせに、良くもまあしたり顔で述べてくれたものだ。この仕打ち、私は金輪際忘れない――なんていうのは嘘だ。私は馬鹿な男に執着するほど馬鹿ではない。
*****
幸福を得たい。
それは楽して生きたいということに通ずる考え方なのだろうか。
まあそんなことはどうでもよく、私は今日も乗馬クラブに通うのである。私は運動神経が良いとは言えないのだけれど、どうやら乗馬というものはそれほど器用さを要求されないらしい。私はいつもタイトな白いズボンを穿き赤いチョッキを着、競技会さながらのファッションで馬に乗る。「センスがいい」とトレーナーは褒めてくれる。悪い気はしない。なんでもうまいに越したことはない――と、私は思うのだ。
クラブハウスに引き揚げると、木製の丸椅子に座り、真っ白なタオルでしきりに額の汗を拭っている男性――というより男子がいた。私に気づくとニコッと笑う。紺色のズボンに白いシャツ。なにせ汗を拭いっぱなしなので暑苦しそうには映るのだけれど、爽やかさがないかというとそうでもない。
「お疲れ様です! ナオミ様!!」
あまりに大きな声であるものだから、男子の声はおなかにまで響いた。よって「うるさいわよ」――とは言わなかったけれど、しかめ面くらいは寄越してやった。男子はニコニコ笑っている。私が離れた位置の椅子に腰掛けても、ニコニコニコニコと笑みを深めながら見つめてくる。
「お疲れ様です! ナオミ様!!」
心がどうかしているのだろうか。
どうして同じセリフを二度吐いた?
「そちらに伺っても、よろしいですか?」
男子の申し出を拒みはしなかった。
私は狭量な人物ではないつもりだ。
男子が丸テーブルの向こうに座った。
笑顔の度合いがますます増している。
「ナオミ様!!」
あまりに大きい声だ。だから私は「静かにしゃべりなさい」といよいよ注意した。
「そもそも、様ってどういうこと? あなたは私よりも家柄が――」
「はい、そうです! ウチは伯爵家です! ダメですか!!」
「だ・か・ら、声が大きいって言ってるじゃない」私は吐息をついた。「そもそも論、伯爵家だって立派でしょう? 卑屈になる必要はないわ」
「でも、僕、下ですから!」
「だから、そんなのはどうでもいいんだってば」
「下ですから!」
「どうしてその事実を知っているのにことのほか愚直なのよ……」
私は右手を額にやり首を横に静かに振ったものの、この伯爵家の男子についてはかわいらしいなと思った。たぶん、私より二つか三つ、年下だろう。ああ、そうだ、私はもう二十歳になったんだっけ。早いところ立派な夫を見つけないと両親はうるさいだろうなぁ……。
「ナオミ様!!」
「だだ、だから、あなたはいちいち声が大きいのよ」
「声が大きいことだけが自慢です。ダメですか?」
「いいえ。声が大きいのはいいことよ。男としての器の大きさを如実に示しているわ。でも、時と場合を選びなさいよね」
「やったー!」
「だから――」
「ナオミ様!!」
「な、なによ?」
男子は立ち上がり、いきなりバンッと丸テーブルを両手で叩いたのである。その音の高さに私はびっくりし、思わず身を引いた。下手をしたら椅子ごと引っ繰り返ってしまったことだろう。
「ナオミ様!!」
「だだだっ、だからなによ?」
「僕と付き合ってください!」
「は、はあ?」
「やっぱり地位の話でダメですか?」
「そんなこと、誰も言って――」
「でしたら、付き合ってください。僕、ナオミ様のことがとても好きなんです。あ、ちなみに僕はもう伯爵です。父が早くに亡くなり、きょうだいもいませんから、位を継いだんです」
伯爵うんぬんのくだりはさておき、あまりに気持ちの良すぎる告白だったからだろう、クラブハウスにいるニンゲンらが「おぉーっ」と声を上げながら拍手した。
「ま、待ちなさいよ。そんな勝手が許されるわけが――」
「明日、迎えに伺います」
「どど、どこによ?」
「決まっています。あなたの屋敷にです。馬を走らせます」
「あ、あなたねぇ」
「なんですか? なにか問題がありますか?」
「ありまくりよ。迷惑よ。馬で来られたら。目立つじゃない」
男子はにこりと笑った。
「僕はエアーズといいます。これからよろしくお願いいたします」
仰々しく頭を下げてみせた、エアーズとやら。
だれも訊いていないのに、堂々と名乗ってくれるとは。
「だったら馬鹿っ、エアーズ。声のボリュームを絞りなさいっ」
「大きな声を出したほうが伝わるだろうと思って」
「馬鹿っ」
「そうです。僕は馬鹿なんです」
エアーズは「あははははっ」と馬鹿みたいに笑った。
*****
白馬に乗って現れたエアーズである。
「どうです? 真っ白でしょう?」
「芦毛の馬は年を重ねると白くなるって聞くわ」
「でもこの馬はまだ全然若いんです。そういう馬もいるんですよ」
「だからって、なに?」
「ただの雑談です。乗ってください」
腕を引き上げてもらって、エアーズの後ろに乗った。
「どこに連れて行ってくれるのかしら」
「今日は晴天です」
「そんなの見ればわかるわ」
僕はやっぱりナオミ様が大好きです。
前を向いたまま恥ずかしがる様子もなくそう言い、もうそんな言葉は聞き飽きたのだけれど、自分でもわかるくらい赤面してしまった。
「しっかり掴まっていてください」
「う、うん」
両腕を腰に回す。
引き締まった腹部の筋肉が腕に男を告げてきた。
*****
そこは一面の鈴蘭畑だった。
その見事さ、美しさに、気づけば私は「わぁ」と声を上げていた。
「綺麗でしょう? 僕にとっては秘密の場所です」
エアーズのその声で我に返り、私は強がるようにして「そ、そうね」と慌てて答えた。
「僕はやっぱり、ナオミ様が好きです」
「それはもうわかったわよ。もともと地位だって気にしていないわ」
「でも、僕じゃあ癒やせない傷もあるんじゃないかなって、不安です」
「ああ、皇子にフられちゃって件のこと?」
「僕もあの場にいたんです。あれは酷いと思いました」
私は――白いワンピース姿の私は、服が汚れるのも気にせず、緑の草むらに座った。隣にはエアーズ。立ったまま、「ほんとうにあんなの最悪です」と口惜しそうに言った。
「でも、結果的に婚約、破棄してもらえて良かったわ。あんなのと結ばれるなんていま考えてもぞっとする話だし。見損なってもらえてほんとうに良かったのよ。家の幸せのためじゃなくて、私は私で自分の幸せを掴みたかったりするし」
「ずっと一人でいらっしゃるつもりですか?」
「えっ」
「僕と一緒になってくださいませんか?」
しつこいわね。
そう言って、私は笑った。
「エアーズ、あなたが私のなにを知っているというの?」
「これから知ります。あなたのことを、知りたいです」
「馬鹿ねぇ、あなたは」
私はまた少し笑った。
「キスをしてはいけませんか?」
「あらまぁ、即物的だこと」
「立ってください」
二つも年下のおぼっちゃんがなにを言うの?
そう思いながらも、私は腰を上げた。
――エアーズがゆっくりと、腰に両腕を回してきた。
「大好きです、ナオミ様」
「ほんとうに、私のなにが、あなたを惹きつけたのかしら」
私の瞳から涙が溢れる。
なんだかんだで悔しいんだ、やっぱり。
一度は見初められ、それを引っ繰り返されたことが。
俯けた顔がくしゃくしゃになる。
顔を上げるよう言われ、そのとおりにした。
――キスをした。
*****
エアーズの妻となった私は、自分でもわかるくらい、まめまめしく働いている。小さな家で二人きりで暮らしている。そろそろ子どもを――そんなふうに、エアーズは言う。私は「いつでもいいわ」と返事をしている。愛する夫とあいだに生まれる子。愛せないわけがない。
なお、もはやどうでもいい話ではあるのだけれど、第二皇子は結婚に失敗したらしい。美人で鳴らす侯爵家の令嬢と一度は結ばれたものの、伝え聞いた裏情報によると、三下り半を突きつけられたらしい。第二皇子は馬鹿で、くだんの令嬢殿は立派だと思う。たしかに「あんな男」と一緒になったところで幸福なんて得られないだろうと思う。彼がこの先、幸せな人生を送れなかったとしても、それは「ざまあ」だ――嘘だ。私はそこまでひとでなしではないつもりだ。
いまでもときどき、二人で鈴蘭畑に出かける。
そのたび、私はエアーズの唇の甘さを知る。
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