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「待った待った。逃げなくてもいいじゃない」  事件現場からずいぶん離れ、今二人が立っている路上に人の気配はない。家と家の隙間、広い通りからはちょうど死角になるような場所で対峙する。  湊は少年の腕をつかんだまま、努めて柔らかい笑みを浮かべて優しく話しかけた。 「どうして逃げたりしたの。おれたち警察に姿を見られてまずいことでもあった?」  責める風ではなく、1+1の答えを尋ねるような口調で問う。少年はにらむように湊を見つめると、あいている左手をパーカーのポケットに突っ込みながら口を開いた。 「ごめんなさい、刑事さん」 「え?」  次の瞬間に起きたことを、湊は即座には理解できなかった。  腹部に違和感を覚える。それが強烈な痛みだと気づくまで、たっぷり二秒の時間を要した。 「……ぁ、……?」  激痛が全身を駆け抜け、息がつまる。腰から下の力が徐々に抜けていくのを感じる。  少年の左手が、湊の腹になにかを勢いよく食い込ませてきていた。  呼吸を震わせながら視線を落とす。白いワイシャツに、生ぬるい鮮血が染み出している。  少年の手には折りたたみ式のサバイバルナイフが握られ、その鋭い切っ先が湊の腹に突き刺さっていた。少年は強く握っているナイフの柄を左方向へ九十度回転させる。腹の肉を容赦なく(えぐ)られ、湊は表情をおもいきり歪ませてうなった。 「刑事さんに恨みはありません」  少年の口調は異様なほど落ちついていた。 「でも、今はまだ捕まるわけにはいかないんだ」  少年がナイフを引き抜く。深紅の血液がまるで噴水のように腹から流れ出し、少年の羽織っているグレーのパーカーを一瞬にして赤く染め上げた。  怯むことなく、少年は湊の腹に二撃目を加えた。このときになってようやく、湊は少年によってこの狭い路地へ誘い込まれたことに気がついた。住宅を囲むブロック塀が、今まさにここで起きている惨劇を見事に目隠ししてくれている。最初から湊のことを襲うつもりだったらしい。賢い子だ。 「き、み……、こんな……」  ついに立っていられなくなり、湊はアスファルトの上に膝からガクリとくずおれた。痛みはとうに麻痺していて、呼吸もままならず、意識は今にも遠のきそうだ。 「わかってください」  目を閉じる直前、少年は倒れる湊の頭の横にしゃがみ込んでささやいた。 「家族のためなんだ。金がないと、僕らは」  なにを言い返すこともできず、湊は静かに目を閉じた。アスファルトのひんやりとした感触が頬を伝う。  おれ、死ぬのかな。  ようやく刑事になれたのに。刑事になって、まだ二ヶ月しか経ってないのに――。  どうせ警察官になるのなら、刑事になりたいと思っていた。事件の被害者を一番近くで支えられるのが刑事という仕事だから。  短い刑事人生だったけど楽しかったな、なんて思いたくない。やり残したことが多すぎる。  それでも、からだはまるで動かなかった。生きたいという湊の意思はむなしくも届かず、こんなにも苦しいのに、息が吸えない。  湊の瞳は、二度とこの世界の風景を映すことはなかった。  ただ、意識が途切れる直前、遠くに若い女性の声を聞いた気がした。  ――未練たらたらだな、おまえ。  顔の見えない、けれど口はすこぶる悪いその女性の言葉を最後に、湊の意識は深い闇の向こう側へと落ちていった。
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