やっぱり桜が嫌い

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やっぱり桜が嫌い

『さまざまな こと思い出す 桜かな』と詠んだのは松尾芭蕉だったか。  青空を背景に、薄ピンク色の花びらが映える。ブルーシートに仰向けに寝転がりその光景を眺めていると、芭蕉の句じゃないがこの季節にまつわる過去の記憶があれこれ甦ってくる。  一番古いものは小学校の入学式だ。式の真っ只中、緊張からか尿意を催した。ところが回りは知らない人ばかりだったので気後れしてしまい、誰にも言い出せないまま我慢の限界に達して漏らしてしまった。しばらくの間は小便小僧と揶揄されたのは今でも嫌な思い出だ。  次は小3へと学年があがるころ、それに合わせて引っ越すことになった。父が転職したからだ。親の勝手な理由で転校を余儀なくされたことに憤りを覚えたし、せっかく仲良くなった友達と離れ離れになるのは辛かった。  小5の春になると両親が離婚し、父に引き取られた。後に彼から聞かされた話によると、母はもともと父の転職には反対だったようで、それを押し切って転職したものだから、そこから夫婦関係がギクシャクし始めた。止めを刺したのが母の浮気だ。それが発覚すると彼女は父と僕を捨てて他の男の元へと走ったらしい。  そして小学校の卒業式。どの女子からもプロフィール帳への書き込みを頼まれなかったことがショックだった。  中学の卒業式ではもう会えなくなるかもと思い勇気を出して好きな子に告白したのだが見事玉砕。  中二の春には花粉症デビュー。  高校の入学式は流行りのインフルエンザに罹ってしまい出席できず、卒業式でも今度は別の型のインフルエンザに罹ってしまい欠席。  大学に入るとサークルの新入生歓迎会でむりやり酒を飲まされ急性アルコール中毒になって病院に担ぎ込まれた。その様子を誰かが撮影していて動画をSNSに上げたために炎上。いきなり大学から謹慎を言い渡された。  それでもまあ無事卒業し、小さな出版会社に就職できたものの、この季節にたびたび起こるアクシデントのせいで僕は春が嫌いになり、延いてはその象徴でもある桜が嫌いになった。  それにもかかわらす、今はこうして花見の場所取りを押し付けられている。  どこかから歓声が聞こえてきた。もう宴が始まったところもあるようだ。  あたりの様子を伺おうと体を起こしてぎょっとなった。  ブルーシートは一本の桜の木の根元に広げてあった。その端のほうに見知らぬ男が座っていたからだ。くたびれたスーツ姿の中年が一人、ひざを抱えてぼんやり木を見上げている。いつからそこにいるのか全く気づかなかった。 「あの、すみません」  声をかけてもこちらを見向きもしない。だらしなく口をあけたまま、桜の花を見つめている。  僕は少し苛立ちを覚えながら、 「すみません。ここ、僕たちの会社が場所取りしてるんですけど」  それでも男は無視を続けるので、語調を強めた。 「ちょっと。うちのブルーシートから出て行ってもらえますか。警察呼びますよ」 「おい」  背後からの声に振り返ると会社の先輩がいた。集合時間が近くなったので来たのだろう。なぜか彼はしかめっ面を作り、しかりつけるような口調で言葉を浴びせてくる。 「お前、なんてところで場所取りしてるんだよ」 「は?」 「なんだよ、知らないのか?」 「なにをですか?」  先輩はひとつため息をついてから、 「三年前、リストラされたどこかの中年サラリーマンが、その腹いせに会社が花見用に場所取りしてあったこの桜の木で、首吊り自殺したんだよ」  まさか……と思いつつ、恐る恐る先ほどの男のほうを振り返る。  初めて視線が合った。彼はにっこり笑って会釈をくれてから、すっと消え去った。  やっぱり桜は大嫌いだ。
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