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母との対話
初めてのヒートは1日で終わった。
2錠目の薬を飲み本を読み始めると夢中になってしまったようで、身体の違和感はいつの間にか治っており僕の様子を心配して見に来てくれた母は昼食も取らずに本を読み耽る僕を見て呆れてしまった。
「初めてのヒートなんだからもっと緊張感持ちなよ」
頬を膨らませながらそんなことを言われても少しも怖くない。
「母さんは緊張した?」
「父さんに全て任せた、かな」
頬を染める母が幸せそうで自分は間違ったのかと不安になるけれど、次の母の言葉に驚く。
「母さんね、自分がΩってヒートが来るまで気付かなかったんだ」
母は子どもの僕から見ても庇護欲をそそるΩらしいΩだ。
ビスクドールのような木目の細かい肌に黒い髪と瞳。何もしていないのに紅を引いたような唇。子どもを2人産んだようには見えない華奢な身体。母に似た僕は幼い頃からΩだと認識されていたため母もそうだったのだと思っていたからだ。
「母さんさ、自分はβだって思ってたんだよね。
高校生の頃は陸上やっててさ、日焼けしてるし小さいし、ちょこまかしてたせいか小猿って言われてたくらい」
今まで知らなかった事実に声も出ない僕をよそに母が話を続ける。
「うちは両親そろってβだし、小猿って言われるくらいだから外見だってねぇ…。
高校受験の前に受けた検査でもβだったから全く気にしてなくてさ、部活の後でシャワー浴びたり銭湯行ったり普通にしてたし。
だから最後の大会でライバル負かした時に相手が思わず出した威嚇フェロモンに当たっちゃって、ヒートが来ても何が起こったかわからなくてね」
「そのライバルって、もしかして」
「そう、父さん」
情報過多で頭が追い付かない。
父は常に冷静で母のことを慈しんでいる様子しか知らないし、そもそも表情筋がほとんど動かない人だからむやみやたらと威嚇フェロモンを出しただなんて想像もできない。
「あれは今思うと挑発し過ぎたって言うか、大学に進学したら陸上をやめるって言った父さんに腹が立ってちょっと色々言い過ぎたんだよね」
少し遠い目になった母に何を言ったか聞くのはやめておく。いくら高校生だったとはいえ、あの父がそんな風になるなんて余程のことを言ったのだろう。
「で、普通なら萎縮しちゃうはずなのに身体が熱くなっちゃって、気が付いたら父さんに囲われてた」
「囲われてたって、省き過ぎだから」
「でも、本当にそれしか…。
全く覚えてないし、今だに思い出せないし、後になって〈暫定β〉で急激にフェロモンを受けた事によってΩになったって言われても受け入れられなくてさ」
母には母なりの葛藤もあったのだろう。
軽い感じで言ってはいるものの、頭の中ではどうすれば伝わるのかを逡巡しているようだ。
「急にΩになったわけだから当然薬なんて持ってないし、そもそも薬を出すにもどの薬が合うのかも分からないし。
責任を感じた父さんが付き合ってくれる事になったらしいんだけど、その辺の経緯は今でもよくわかってない」
そう言って苦笑いを見せる。
Ωのヒートは薬で抑えることも可能だけど、人によって効き目が違うし副作用も違う。1番確実なのはαの精を受けることで、それはどんなΩでも同じだ。
「目が覚めたら負けたまま陸上をやめるって言ったライバルが自分を抱きしめてて、おまけに服も何も着てないってなんの罰ゲーム?って思って笑いそうになったんだけど、冷静になると怖くなって…」
そう言った母の顔色はあまり良くない。
「母さん、辛いならこの話やめよ?」
「大丈夫。今話さなかったらもう話す気にならないと思うし」
弱々しく微笑んだ母は、どこからどう見ても庇護欲をそそるΩだった。
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