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ひゅるりと風が通り抜けて、目の前をピンクの花びらが横切る。見上げてみれば、灰色の空を覆い隠すように、桜が咲き誇っていた。
ゆっくりと落ちる花びらを掴もうと手を伸ばせば、手のひらに乗ったのは透明の雨粒だけだった。
雨の冷たさに我を取り戻したように馬鹿らしくなって、また歩き出す。
そういえば、あの子は桜が嫌いだと言っていた。理由はなんだっただろうか。
パーカーのポケットからスマホを取り出して、SNSにログインする。真っ黒のアイコンをタップした。最後の投稿は半年前。死にたい、消えたい、もう嫌だ。スクロールすれば、心の闇をすべてさらけ出すような文字が並ぶ。
つらいね、と言い合って、お互いの傷を舐めていた。けれど、その傷が癒えることはなかった。わたしのものも、あの子のものも。画面に浮かぶ文字は温もりも優しさも、どうせ伝えやしない。それだけの関係だった。
歩道の隅に止まったわたしの前を、たくさんの車や色とりどりの傘を差した人達が通り過ぎていく。
「さくら、きれいだね。」
舌足らずの幼い声が聞こえて、わたしはスマホから顔を上げる。
黄色のカッパと黄色の長靴。臆することなく水溜まりに足を突っ込んでいる。光だらけの瞳が映すのは、桜と母親らしき女性だ。楽しそうな女の子の声に、周りの人達も一瞬空を見上げる。
「そうだね。でも、雨が続くらしいから、すぐに散っちゃうんだろうね。」
「え!」
女の子は母親の言葉に心底驚いたのか、小さな口を大きく開けた。
「ざんねんだねえ。」
そのあと、ため息を吐く。行き交う大人達を真似しているのだろうか。その目には疲れや諦めなど微塵も籠っていなかったけれど。
知らない女の視線にも気づかず、女の子は母親と手を繋いで去っていく。
黄色のカッパの後ろにくすんだ背中が重なって、わたしはもう一度桜を見上げる。
ああ、思い出した。あの子が桜を嫌いな理由。
桜は、いつだって注目の的だ。つぼみの時も花を開く時も、散りゆく時も。短い間だけ花を咲かせて、風に吹かれて散っていく時は儚く美しいものだと人々の目を奪う。
それが羨ましくて、同時に憎くてたまらない、と。いつの日か、あの子は言った。
どんな時もいろんな人の目を奪う。その時、人に踏みつけられた名前も知らない雑草の命が終わることだってあるのに、人の視線はずっと桜にある。
そんなの、ずるいじゃない。
彼女の叫びが文字になって、その文字を映し出す画面を見た時、わたしは悲しくなった。たしかにそうだ、と思った。
人はどんな時だって美しいものを求める。醜いものや惨いものからは目を背けようとする。それは仕方のないことだけれど、仕方のないことだからこそ、とても苦しい。
桜が散ったら、ニュースになる。春が終わったみたい、と誰かが口にする。桜の在り方だけで、わたし達は話を繋ぐことができる。
けれど、あの子の死はニュースにならない。ほとんどの人が知らないし、興味も持たない。きっと口にしたら、そんな暗い話はやめて、と顔をしかめられてしまうだろう。
半年前から、彼女のアカウントはなにも更新しなくなった。日々の愚痴や妬み嫉みも、稀にある幸福も、なにも伝えなくなった。
あの子がとんでもなく幸せになったのなら、救われたのなら、それはきっといいことだと思う。きっと、じゃなくて、いいことだ。けれど、それは、わたしが惹かれた彼女が死んだということでもある。血を吐きながら、時に自分を傷つけながらも生きて、誰にも言えないことをネットという広い海に吐き出す。その海の中で、わたしは彼女に目を奪われていた。現実世界で笑顔で幸せに過ごす彼女は、わたしの好きなあの子じゃない。
こんなこと思うなんて、酷いだろうか。酷いだろうな。
無意識のうちにずっと唇を噛んでいたらしい。血の味がした。
『桜が散っちゃった』
新しく投稿した。なにかの反応が届く前に、スマホの電源を落とす。
雨が強くなり始めた。足元に舞い落ちた花びらを踏んで、わたしはまた歩き出す。
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