毎朝私はあなたのために卵を焼く

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「永山ちゃん、何か顔色悪くない? 大丈夫?」 「いえ、大丈夫です」  ダメだなあ。大森さんにも心配かけちゃった。  トイレに行こうと立ち上がったその時だった。  目の前の景色がぐにゃりと曲がった。  踏みとどまろうと右足に体重をかける。けれど……、その後の記憶が私にはなかった。  頭の中がぐるぐると回る。  早くやらなくちゃ。  仕事から帰ったら、ご飯作って、掃除して。  何の為に? 誰の為に?  ねえ、ユメさん教えてよ……。 「……ちゃん、永山ちゃん、大丈夫?」  気がつくと、目の前にあったのは、大森さんの心配そうな顔。  いつの間にか私は応接室のソファーに寝かされていた。 「……すみません。大丈夫です」  慌てて起き上がろうとする私を、大森さんの大きな手のひらが優しく押さえ込む。 「無理しないで。まだ横になってて」 「永山、今日はもう帰って休んで良いぞ」  課長の言葉に私は「すみません」と小さく頷いてみせる。  心配げに覗き込んでいた他の社員達も自分のデスクに戻っていく。 「頑張り過ぎないで。ゆるゆるで良いんだから」  ユメさんと同じ大森さんのセリフに、今まで堪えてきたものが一気に溢れ出てくるような気がした。 「私……。亮君の為に一生懸命やってるのに……」  溶け出した黒い塊は、涙となって目尻から溢れ出す。 「だから、永山ちゃん頑張り過ぎなんだって」  額に当てられる大森さんの大きな手は、何だかお母さんのそれを思い出した。 「でもユメさんにはできるのに……。一生懸命ユメさんの真似をしてみても、全然終わらないんです」 「えっ?」  頭をヨシヨシしてくれていた大森さんの手が止まる。 「……もしかして、永山ちゃんって『主婦のたまご』ちゃん?」 「どうして私のアカウント名を知ってるんですか?」  私は思わず体を起こす。 「……ずっと心配だったのよ。永山ちゃんも『主婦のたまご』ちゃんも無理してるんじゃないかって」 「えっと……。大森さんは、もしかして……ユメさん?」  大森さんは何だか恥ずかしそうに、ふふふっと笑った。 「もっと若くて可愛い子だと思ってた?」 「いや、そういう訳では……」 「いい歳して可愛い小物とか好きなのよ」  そうか、午前だけの時短勤務なら、晩御飯にも時間をかけられるし、小物作りなんかの趣味の時間もとれる。勝手にユメさんは私と同じフルタイム勤務だと思ってた。 「ブログで使ってる写真は全部で撮ったものなんだ。あそこだけはいつも綺麗にしてるの。いつも部屋中あんなに綺麗にしてたら疲れちゃう。洗濯大変だから普段はランチョンマットなんて使ってないし。あれは撮影用」 「そう……なんですか」 「でもランチプレートは使ってるよ。便利だし気分上がるし。それで良いんじゃないのかな? その人にとって大切なものには手間ひまかけて、そうじゃないものは手抜きする。人によって大切なものは違うんだし」  そうだ、ユメさんのコンセプトは、『適度な手抜きで快適な毎日を!』だった。  私の大切なもの……。 「旦那さんだって、永山ちゃんが好きで結婚した訳でしょ?」  荷物を取りに戻ると、スマホにメッセージが入っていた。 『昨日はゴメン。久しぶりに、帰り待ち合わせしようか? お詫びに奢ります』  最後だけ丁寧語になっていて、思わず笑ってしまった。  了解と入れようとして手を止める。  そうだ大森(ユメ)さんにも無理しないで、って言われたばかりだ。  時には手を抜い(あまえ)ちゃって良いのかも。 『こっちこそゴメン。でも、ちょっと具合が悪いから家で食べたいな』  そうメッセージを入れたら、亮君も仕事中な筈なのに、『早く帰ろうか?』だとか『プリン買って帰る』なんて、すぐに返信をくれた。 「うん。美味い、美味い」と言いながら私の失敗料理を食べてくれる亮君の笑顔。  私にとって、それが一番大切なものの筈だったのに……。  そんな当たり前の事を忘れるところだった。  次の土曜の朝には、また焼き過ぎのオムレツを作ってあげよう。ケチャップのハートマークもつけて。        〈完〉
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