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サイファ
セナの消息が不明になって、翌年には一族に子どもが9人生まれていた。うち、3人は純血種だったが、その強さはやはりセナを超すほどのものではなかった。
セナたちの行方が分からず、アンジェリッタは怒り狂っていた。
「サイファを連れてきなさい!」
「でもまだ研究の途中で」
「お黙りっ、私に逆らおうとでも言うの!?」
さすがにサイファの尋問のことはアルフレッドには言うつもりはない。アルフレッドがサイファをことさらに気に入っていることくらい、アンジェリッタは知っている。だが我慢にも限界というものがあるのだ。
冷たい石牢に連れ込まれたサイファは窓から外を見ていた。ここから飛び降りれば重傷は負っても死にはしない、と理性的に考える。
アンジェリッタはどういうつもりなのだろうか。研究が遅れればそれだけ人間に捕まっているヴァンパイアが苦しむだけだ。さすがにその遅れをアルフレッドが見過ごすわけがないというのに。
アンジェリッタが入ってきた。結い上げた黒髪がつやつやとした輝きを放つ。美しい女性だ、彼女は。だが微笑みを浮かべたことのない子の目に、相手はいつも屈してしまう。
(これのどこにアルフレッドは惹かれたのだろう)
サイファでさえそう思う。美しさはヴァンパイアの世界では単なる装飾品でしかない。となれば、やはり血統のためのみか。現にセナが生まれたのだから。
「待たせましたね」
「いえ、別に」
「どうぞお座りなさい」
「では」
これから自分がアンジェリッタになにをされるのか、サイファには想像がついていた。自分の消えた記憶を掘り起こされるのだ。
九州から戻って四国に飛び、北海道に飛んだ。関東支部には行く予定だったが、予定が狂って行かずじまいだった。一度この国に帰って研究所に戻り、そして日本へとまた旅立った。その辺りの記憶に自信が無い。時間系列も曖昧だ。きっとそこをアンジェリッタは突いてくるだろう。セナとどう繋がっているのか、それを知りたいに違いない。自分にさえ無い記憶。それをこれから、ぐちゃぐちゃに搔き回され、引きずり出される。
だがこれには危険が伴う。記憶破壊が稀に起きるのだ。元に戻ることなく、記憶は混乱したまま治療の術もない。自分にそれが起きれば、今取りかかっている弛緩剤の対抗薬の試験薬の制作は大幅に遅れるだろう。それも数十年単位で。それでも国に戻ってきた。今の段階の対抗薬よりももっと優れた薬を作りたい。
ただ、サイファにも隠れた能力がある。会っていないはずのシバが残した小さく圧縮された記憶。それがやんわりとしたゼリー状の玉に包み込まれて、サイファの頭脳の奥にしまい込まれている。そしてそれが開かれるのは2年後なのだ。朝比奈一家にも、同じように時間差で蘇るように記憶の封印をしてきた。シバから受け継いだ能力だ。
「今日呼ばれたわけは分かっているのでしょうね」
「ええ。先日の日本との何度かの往復で曖昧になった私の記憶の検査だと思っていますが」
「聞くのは一度きりです。あなたは意図してその記憶を失っていませんか?」
「いいえ。それはあり得ません。そんなことをすれば研究に支障が出ますから」
アンジェリッタの目が燃え始める。まるで物理的に脳の中に指が入っていくような錯覚を起こさせる。それは激痛だ。もしかしたらアルフレッドが求めたのは彼女のその技かもしれない。それが証拠に、セナには母の能力が効かない。なぜなら、その能力を使うことは無いが同じことがセナにも出来るからだ。
みしり、と頭骨が音を立てたような気がした。脳のひだの間に入って来る生々しい指の間隔。記憶を繋ぎ合わせているデリケートな脳のシナジーを一枚一枚引き剥がされていくような、そんな苦痛。今まで積み上げてきた知力とその結果がかき乱されていく……
サイファの記憶は混乱していた。可憐な少女が何度も頭に浮かんでくる。それが誰なのか分からない。サイファは何度も絶叫した。記憶が混ざる。幼い時の鹿の角。脳を撃ち抜かれたマデリーノ。咄嗟に川に押し倒したセナの体…… セナのトラウマは川で溺れたせいではない。その時に真っ赤に染まった川の流れに沈み込んでいたからだ。マデリーノの死が、水を通してセナの目に焼き付いていた。そのセナの体を覆い隠すように水底に沈めた自分……
「アンジェリッタ、何をしている!」
出かけていたはずのアルフレッドの出現に、アンジェリッタの幻の指はサイファの脳からずるりと抜け落ちた。そのまま床に倒れてしまったサイファをアルフレッドは自室に運ばせた。
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