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潮風のノルマ
今日も誰かが黄昏れにやって来る。
「ハイヤー!」ダミ声が響いた。
「ハイヤーじゃありませんよ。タクシーです。どちらまで?」
「幸せ行きよ」
「じゃあ海までですね」運転手はトップギヤに入れた。
「あなたどっかで見た事あるね。有名な人?」
「昔ね。もう声が嗄れてしまった歌姫よ。もう歌えないの。知ってんでしょ?」
運転手は何も言わず、ミラーを見て肯いた。
歌姫はハスキーな声で、昔の話を作り話に変えていた。
「着替えたって、あなたは変わらないわよって言うの。その人、ちょっと鼻が曲がってたわ」
「病院に喪服で行ってやったの。いい気味よ」
「私、赤いジュエリーしか身に付けないのよ。あの人が嫌いって言ったから。目に毒でしょ?」
「お酒臭いでしょう、私。一滴も飲んでないのよ」
「永遠にドレスを着て音楽の海を泳ぐの。時間を気にしながら歌うなんてまっぴらよ」
「私がスモークちょうだいって言ったら、付き人が私特注の煙草を渡すの。あの人生きてるかしら」
「今でも歌うと、嬉しくって、笑っちゃうの。どんな悲しい曲でもね」
「音楽の海で溺れ死んだの。本望だわ」
「声が嗄れるまで歌ったのよ。本望だわ」
「声が潰れるまで歌った・・」
時代の隅に置き去りにされた歌姫はふと黙った。
「私、ミラーに映ってる?」
「幽霊じゃあるまいし」運転手は少し笑い、ハンドルを切った。
「夜の海岸通りは静かですね」海沿いを滑る。
「人間に完全なものは作れないのよ。出来るのは神様だけよ。だから人間はそれを傷付けて生きるしかないんだわ」
海までもう少し。
「ここでいいわ」
運転手は歌姫を降ろした。
窓を開けて身を乗り出し、歌姫に聞いた。
「もし願いが叶ったらどうします?」
「アンコールは歌わないの」歌姫はそう言っただけで、海に歩いて行った。
海は待っている。待ってくれている。
運転手は後ろから、ただ砂浜に座って海を眺めている歌姫を見ていた。
何が見えているだろうか。
じっと見つめていれば、水平線も溶けて、誰もいない世界で一人になれる。
終わらない歌声を聞かせるのか。
運転手は煙草を取り出した。
ねえ、スモークちょうだい。
歌姫は煙草を持つように海岸に人差し指と中指を向けた。
それに気付くと、運転手は煙草をしまい、タクシーに乗り込んで去って行った。
次に乗って来たのは死んだピエロだった。
死んだピエロはずっと泣いていた。
どしゃ降りの雨の日だった。
「パレードでもあったんですか?」
黙って海まで向かった。
ワイパーが涙を拭くように右へ左へ流れていた。
運転手も知らない内に泣けてきて、ワイシャツの袖が透けた。
ピエロは泣き続けていた。
車が雨みたいに流れてく。
「梅雨でもねぇのに雨が・・!」
高速のドライブインに入れた。
「その人、死んでますけど?」
ファストフードの帽子を被った頭の悪そうな女が冷たく言った。
運転手はクラクションを鳴らした。
「可笑しいのに、笑えなくってねえ」
ピエロは死んでいるから肯きもしなかった。
「ようやく泣けるんですね」
運転手はハンドルを握ったまま、ピエロを振り返った。
「お客さん、もし願いが叶ったらどうします?」
笑ったピエロはまるで死に顔だった。
ピエロは転がり落ちて、渚で止まった。
顔だけは海へ向けて、その表情は見えなかった。
運転手は次の客を探さないといけないけれど、死んだピエロの後ろ姿をずっと見詰めていた。
多分、もう会えないから。
生きてみてもいいんじゃないか。
少し辛いけど。
運転手は吸っていた煙草を砂の上に落として、誰にも見られないよう砂の中に埋めた。
俯くように肯いた。
次にタクシーを停めたのは、考えるオブジェだった。
オブジェは鉄や複雑な形に隠して、何を考えているのか分からなかった。
まるで沈黙する打楽器だった。
知らないことさえ分からない。
「何でもアートですね、この頃は」
黙り込むオブジェは重苦しかった。
運転手は自然と真顔になって海へと走らせた。
「あんたの作者は、・・おっと、失礼」
運転手も咳払いをして黙り込んだ。
親指を立ててヒッチハイクをしている集団を追い越して、汽車のベルが聞こえた。
「で、もし願いが叶ったらどうします?」
運転手は考えるオブジェを違う目で見た。
海は認めてくれる。
鍵を外して、考えるオブジェを蹴り落とした。
オブジェを海の見やすいように砂に埋め、立ち去った。
明るくなった。
運転手はオブジェのその意味が分かった気がした。
ここは永遠の風景を見せるから。
最後の乗客は口を開けているペガサスだった。
「あんた神様の仲間でしょ? 何でこんな所にいるの?」
聞いても、ペガサスは口を開けて、目も虚ろだった。
「上ばかり見て歩くから、転ぶんですね」
そう言って、海へ向かった。
口を開けているペガサスは夢遊病のようで気がとがめた。
でこぼこの道を走っている時もペガサスは口を開けていた。
舌を嚙まないか心配だった。
「ねえ、もし願いが叶ったらどうします?」
矢が刺さって、潮風に折れかけたペガサスの翼が揺れていた。
飛んでペガサス。
ペガサスは天を蹴って、空を翔けていく。
太陽を触る。
運転手はそれを見届け、煙草を一服やり、「天使がいるなら、精神病になってるな・・」と呟いた。
今日も誰かが黄昏れにやって来る。
そして私は、生の讃歌を伝え続ける。
思い出探し。
「もし願いが叶ったらどうします?」
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