anthology

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もう何も言えない  僕は窓から、いつもの(みどり)さんを見ていた。今日は読書をしている。 緑さんは、時々、広い庭で、本を読んでいたり、鳥の声を聞いていたりする。 柔らかい芝の上で何を思っているのか僕は知らない。 ここは森の中の診療所だ。集まってくるのはみんな、治る見込みがない人だ。 それでもなんとか、楽しくやっている。 晴れた日なんかには、集って庭で昼食をとることもある。 緑さんはいつも来なかった。 緑さんは、患者や、職員からも、距離感を置かれていた。 緑さんはずっとこの診療所にいるらしかった。 新入りの僕は、まだ分からないことだらけだった。 たまに、皆の前に、車イスの緑さんが来ると、「緑さんだ」「緑さん」と口々に囁き出す。 僕は最初、何のことか分からなかった。 ただ、「緑さん」という名前だけを覚えた。 そんな緑さんの噂を耳にすることがあった。 「どんな病気も吸い取る」というのだ。 何故かは、分からないが、緑さんと少し過ごした人は皆、退所していくのだと。 僕はそのことをもっと知りたいと思った。 「治る」という、忘れかけていた言葉! ただ、そのことを誰かに聞くことは何となくはばかられた。 そこで僕は、すがるような思いを抱いて、緑さんと直接話してみることにした。 緑さんが一人で、庭にいるところに、僕は近づいて声をかけた。 蝉しぐれがしている。 緑さんは僕を見て、「安井(やすい)(まこと)さんね?」と僕の名前を口にした。 僕は何にも言えず、こっちを見上げている緑さんを見た。 緑さんは、何も触れないくらい色白で、静かな人だった。 僕は何て切り出そうか悩んだ。そうすると、緑さんが、「私の噂、聞いたんでしょう?」と持っていた本を車イスのポケットにしまい込みながら聞いた。 「はい。そうなんです。本当なんですか?」僕は早口になってしまった。 「多分、本当よ」そう言った緑さんの瞳は、悲しみに暮れていた。 「僕は治りたいんです! もっと、・・もっと、生きたい!」僕は頼むように言った。気付いたら、緑さんの細い手を触っていた。緑さんの手はとても温かかった。 「どうしてみんな、死を恐がるのかしら? 死は美しいものよ」緑さんは言った。 緑さんが車イスで庭にある池に行った。僕は付いて行った。 亀が寝てる。 「私が病院に入院していた頃、みんなみんな死んでいった。魂が脱ける時の解放感、私は感じたの。本当に自由になるんだって。その頃からかしら。私は人の病気を吸い込むようになった。でもまだ死ねないの。不思議な体ね」緑さんは静かな声で話した。 僕は何て言ったらいいんだろう。 静かに緑さんが僕を見た。 「あなた、死ぬのが怖いの? だったら、私が吸い取ってあげる」と言った。 「どうやって・・」僕は聞いた。 「私と少し話をするだけでいいの。少しずつ少しずつ話せば、分かるわ」緑さんは言った。 それから、僕は緑さんと話をするようになった。 ありきたりなことや、そうでないこと、色んなことを話した。キリがない程。 緑さんはいつも、「そう」とか、「なぜ?」とか静かに話を聞いてくれた。 それから、見る見る内に、僕は良くなっていった。 時折訪ねる医者も首を傾げる程だった。 緑さんは木の梢にいるみたいな人だ。 何も会話がなくなった時、緑さんは、「もう大丈夫ね」と言った。 毎日、血色が良くなる顔を鏡で見るのが楽しみだった。 退所が受理された。 僕は家族と久しぶりに抱き合った。 緑さんのことは言わなかった。 何だか緑さんを傷付ける気がしたからだ。 街を歩いてみた。 皆、見知らぬ人みたいだった。 定期的に診察のため診療所に戻る。 緑さんは知らん顔をしていた。 緑さんのことが気にかかって仕方なかった。 幾月か経って、診療所に行くと、緑さんの部屋に列ができていた。 僕は中を覗いた。 暗い、日光だけが差し込む部屋に、寝ている緑さんが医者と看護士に囲まれていた。 臨終の時だ。 僕は分かった。 「緑さん!」僕は思わず声に出した。皆がこっちを見た。 緑さんは動かず、こっちを見なかった。 僕は、列を押しのけて緑さんのそばに寄った。 僕は医者を見た。 医者は首を振った。 「緑さん・・」僕は緑さんの手に触れて、揺り動かしてみた。 緑さんが目を開けることはなかった。 あの時の様に、手はとても温かかった。 静まり返ったその部屋。 死に包まれていた。 緑さんは、吸う息よりも吐く息の方が静かに大きくなっていった。 皆が緑さんが死んでいくのを見つめていた。 なんで人は死ぬんだ。 僕は涙を流した。 緑さんの口が小さく開いた。 僕は緑さんの顔を見た。 緑さんの瞼の奥の瞳が違う世界を見ているのを感じた。 緑さんは微笑んだ。 その後、緑さんは静かに息をひきとった。 死の床についた緑さんは運ばれていった。 入所している人達が一斉に出て来て列を作り、緑さんを並んで見送った。 僕はその時、神を感じていた。 それは、忘れない気持ちになった。 もう死ぬことが怖くなくなった。 元気になった僕は街を歩く。 人に知られたくないこともある。 僕は無口になった。 街を歩いているとふと思うようになった。 僕は冬のようになりたい。 なぜかは分からない。言葉で言えない。
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