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蛍のいた時間
本浦の七夕彦は、その日も立ち人会に参加して、祭山の笑橋の袂まで来ていた。
風流なものを歌に詠む道楽者の集まりは、メランコリックな七夕彦にはうってつけだった。
笑橋の袂にはよく蛍が出ると言うので、行ってみたらまだ昼前で、一行は勝手に歌を詠んだり、仔犬と遊んだりしていたが、七夕彦だけはじっと、蛍が出そうな叢を小川越しに見詰め、短冊と筆を握り締め、立ち尽くしていた。
変な奴もいるものだな、と皆は思っていたが、そのままにした。
やがて日暮れになって、ポツポツと皆も小川越しに叢の見えるところに並んで待った。
宵闇が近付くと、ほれ来た、見えたか? 等と言う声が聞こえ出した。
いち早く見つけたものは、我先にと出来損ないの歌を詠み、皆に聞かせては、満足そうな笑みを湛えた。
七夕彦はまだ動かなかった。
つと、七夕彦の目の前で、蛍の光が舞った。妖しく光るその光に浮かされたように、短冊も筆も投げ打って、七夕彦は消えては光るその蛍を追った。
追う挙句、小川に足をすくわれ、尻餅をついても、空を掴み、宙を握り、夢中で小川を追った。
七夕彦は遂に、蛍の集まる叢まで突っ込んで行こうとしたので、笑っていた皆も慌てた。
「やれ、お前。何をしている」その声に、ハッと我に返ったように、七夕彦は自分が小川の中にいるのを見て、皆を見て、呟いた。
「何だ、美人局か」
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