anthology

21/26
前へ
/26ページ
次へ
ホテル パラドックス ある夜半、思い立った。 僕は未来の自分の小説を読んだことがあるんじゃないのか。それを思い出してるんじゃないのか。 ある種、言い知れない恐怖を覚える。 僕は何一つしていないのと同じではないか。 スランプだ。 缶づめにされて小説が書けるものか。 パソコンを開いたり、閉じたりして、私はコンビニに行った。 アルカリ乾電池と観賞用のユーカリの苗を買って歩いていた。 私が泊まっているのは、「ホテル・ミス・サンシャイン」だ。 このひなびた寒村に唯一の大きな建物だ。 何故ホテル・ミス・サンシャインなのかと言うと、海岸で行われるこの村の恒例の行事で、ミス・サンシャインに選ばれた女が女将をしているからだ。 何十年か前の話だろう。建物も古いし、何より女将の化粧が古い。 「スランプだなー」私は呑気に呟いた。 またか。デジャ・ヴュだ。 デジャ・ヴュはほんの少し未来が見えたような気になる。 思い出せる。 この頃、多いな。 昔を見てるみたいだ。 私はこれからどうなるか知ってる、ような気がする。 ホテルに着いて、またパソコンを開けたが、何も思い付かず、閉じた。 ユーカリのポットをパソコンの裏に置いた。 夜風呂にでも行ってみるか。 スランプは背泳ぎを途中で止めたような感覚になる。 トランスが長く続かないように、スランプも長くは続かない。 私はそうタカをくくっていた。 脱衣所に入ると、アヒルの玩具を踏んづけてしまった。どこかの子供が忘れていったのだろう。 中には、常連客らしい中年の男性が服を脱いでいるところだった。酒を飲んでいるのか、顔も赤いし、足元も頼りない。靴下を脱ぐ時にフラついている。 私は眼鏡を外し、浴衣を脱いだ。 「あんた、見ない顔だね」話しかけられた。 「ええ、まあ」私はよく見えない目でその人を見、笑った。 「あの女将、色っぽいだろ?」赤い顔をしたおじさんはそう言って、イヒヒと笑った。 「ええ、まあ・・」私は笑い返した。 私達は同じタイミングで風呂場に入ることになった。 「そうかい。小説ねえ・・」おじさんは大して興味も無さそうに話している。 「神様ってのはな、温泉に入りに来た俺達と一緒さ。大事なところは隠してる」 「正に神秘ですね」 「あんた、話分かるねえ」と言って、またイヒヒと笑う。 あれ? またデジャ・ヴュだ。 この景色を前に見た。 そんなはずないのに。 変わり映えない日常がそうさせるのか。 「何だい? 考え事かい?」いきなり無口になった私にそう聞く。 「いえ、ちょっと・・」 「スランプかー。でもいいねー、やる事があって。でも、無理しちゃダメよ」女言葉になっておじさんが言う。 湯に浸かって、同時にあーあと大きな息を吐く。 「あんたいい男だねえー。俺も昔はなあ・・」おじさんがため息を吐く。 「何ですか?」 「何言うか忘れちゃったよ」おじさんは黄色いタオルで顔を拭く。もう大事なところは隠していない。 「歳取るとダメだね。思い出せないことの方が多くなっちゃう」 「まるで孤独な人と、物語。この世界と何の違いがあろうか」 「ん? それ何?」 「僕の好きな短編の台詞なんです。何て言ったかな」 「歳取るには、まだ早いよ」おじさんはそう笑って、サウナに入っていった。 「体綺麗にしときなよ。いつあの女将に寝込み襲われるかも知れないからさ」と言い置いて。 「この頃すぐ忘れるなあ・・」 既視感。 この景色を前に見た。 そうか、僕は帰り道にいるのか。 帰り道にいるのか。 僕を生んでくれてありがとう。 自室に入って、「孤独な人と物語」を書いた。思いつくままに。 こんな事、前にもあった。 目の錯覚か。 こんな景色を前に見たような。 僕は知ってた。 僕は一本のライターに過ぎない。 花火も花も美しいと思わなかった僕が、今、朝日の輝きに感動しています。 私は朝日に仏を見ました。 ホテル・ミス・サンシャインも悪くない。 お母さん、産んでくれてありがとう。 「人生、捨てたもんじゃないぜ。な?」湯上がりのあのおじさんの言葉を思い出す。 「火照ってる?」 気弱になった時にはいつもお母さんを思い出す。 お母さん、あなたが私の家です。 ラッシュ。 スランプの果てにデジャ・ヴュ。 小説が面白いように運ぶ。 あの暗いホテル。 私は今でも思い出す。 あのホテルが私の子宮だったのだと。
/26ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加