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切子
「フウッ」辛夷美波音は熱い息を吐いた。
茅の輪くぐり。
くぐったらその半年健康でいられる。
「姉ちゃん、早いい」妹の美咲だ。
家族とは不思議なものだ。全く違う場所で会っていたなら友達にもなりやしないのに、一緒に暮らしている。
多分、私たち姉妹は違う地球から来たのだろう。
高い山の麓から。
「わあ」
空が大きい。
もう夏が出てる。
短いな春は。
これはそんな私と美咲との二ヶ月間の習作だ。
「そんなに急に咲かない」
都内某所三鷹周辺。
私は美咲を迎えに行く。
グレーの帽子をとってやると、懐に顔を寄せた。
「よしよしして」
「いいこいいこ」
美咲は幼稚園の年長さんだ。
ひまわり組。
「ぞうさん組が良かったな」手をつなぐと美咲が言った。
「ハバナイスデイ!」幼稚園のみんなに美咲が挨拶した。
昼月が青い地球を何よりも物語っている。
今日から夏休みだ。
次は母から言伝てられたスーパーに寄る。
「豚こまに・・」
「豚こま、豚こま」
両親が共働きなので鍵っ子だ。
「姉ちゃん、胡瓜買っていい?」
「出盛りだからね」
「ミソつけて食べるの」美咲は胡瓜を何本か抱いている。
カゴに入れて清算を済ませる。
透明なポケットバッグに今日使う分のお金が入っている。
おつりを受け取ってチャックで閉める。
自転車に乗って中学生たちが買い食いをしている。
「お前ら、何小だよ」
「西小」
六年生。
この夏で12歳になる。
中学生たちはまだヘラヘラ笑っている。
このスーパーのメンチカツは美味い。
桜もさっぱりして、家に着いた。
平屋。
モルタル造り。
奥ゆかしき住居。
お母さんのママチャリが塀に立てかけられている。
「それがそうもいかんのですわ」おじいちゃんの話し声が聞こえてきた。
いつもは昼まで寝てるのに珍しい。
ランドセルを置いて、買って来た食材を冷蔵庫に入れる。
「胡瓜、食べていい?」
「まだ少し待って」
あり物で何か作る。
「メンマがあるから焼きうどんにしようか」
「ギャッ!」
キッチンの明かりをつけた時、美咲が叫び声を上げた。
即座に抱き寄せて、明かりを消す。
美咲は光害病だ。
光を恐がる病気。
「不安?」髪を撫でながら聞く。
「目が火傷した」美咲は目をこすっている。
いつもつけてるグレーの帽子もすりきれた黒い帽子だ。
医者も匙を投げた。
「病理学的見地から言えば現代病でしょうな」
私たち家族は豆電球一つ下で暮らしている。
「しんなりしてきたらうどんを入れまーす」
「わーい」
おじいちゃんも胡瓜をつまんだ。
「誰と話してたの?」
「植木屋さん」
おじいちゃんはいつも黒ずんだババシャツに毛脛を見せている。
美波音はぬらりひょんだと思っている。
おばあちゃんは死んだ。
仏壇には欠けさせた茶碗が一杯。
美咲はおちょぼ口でツルツルと食べる。
外だけ晴れてる。
美咲には悲しい過去がある。
検査入院していた頃のことだ。
真っ暗な部屋でESPカードの実験をさせられた。
美咲は「波」とだけ答えた。
その理由は「姉ちゃんだから」
今も笑い種になっている。
「姉ちゃんが二人いたらいいのに」
縁側などというそんな気の利いた物はない。
「どうして?」
「そしたら姉ちゃん外で思いっ切り遊べるじゃん」
頭をよぎった。
美咲が倒れたと言うので私は学校を早退して隣の東幼稚園まで走った。
駆けっこで帽子が取れて倒れたらしい。
木陰に寝かせられていた。
唇の血色が悪い。
貧血を起こしたのだ。
「日射病かと思ったんですけどねえ・・」
徒競走では美咲の分まで走った。
お母さんはいつも一番に炭酸風呂に入る。
私と美咲は残り湯に浸かる。
「ちょっと日焼けしたね。耳の辺りが」
ブローしてあげると裸で走り回った。
灰色の空気を吸う美咲の気分はどんなだろう。
梅桃が庭木だ。
庭いじりが好きな母が周りを花で埋め、梅桃の手入れは祖父がする。
はしばみが揺れている。
ドヤドヤと人の庭に人が入って来た。
美咲は帽子を被り直した。
おじいちゃんの姿もある。
梅桃を揺らしたりしている。
「根曲がりを起こしてるからこのままじゃ立ち腐れちゃうよ」
花も終わった。
「これから実をつけるのよ」美波音は言い返した。
「それからでも遅くないのに」
「もう実はつけないよ」植木屋さんは言った。
「病気になる前に切ってやった方が木のためだ」
「ばあちゃんが好きだった木なんだけどな」おじいちゃんは落ち込んでいる。
「美咲はばあちゃん知らないだろ?」
おじいちゃんがおばあちゃんの話をするのは珍しい。
「ばあちゃんのこと覚えてるか?」
美波音は肯いた。
確か、優しい人だった。
美波音は思い出していた。
まだ幼い美咲は木に登りたがった。
「ようしきた」
お父さんはまだ黒かった帽子を取って、木に乗せてやった。
天然の日傘になってくれた木は、もうない。
雲の筋。
お父さんとおじいちゃんはカットグラスで晩酌を酌み交わす。
お母さんは五右衛門風呂の用意をして、湯の素を入れる。
22センチの身長差を追い越して、一緒に風呂に入らなくなるだろう。
そんな事を思うと寂しいなあーという気もする。
お父さんは時々、蛍族になる。
「すけこましって何?」
「大人になったら分かる」
「漫画で読んだ」
おじいちゃんの酸っぱい匂いのするババシャツと私と美咲の体操着が一緒に洗われている。
これからは毎日、短パンにTシャツだ。
ライターには東京たばこと書いてある。
「All need is love・・All need is love・・」風呂上がりに手をつないで、おじいちゃんの所望するビールを買いに行った。
二人とも髪はまだ濡れたままだ。
アンダンテで。
歩く速さで。
「ハウマニ」
「水は数えられないでしょアロットオブ・・」
今日は日帰りの海旅行の日だ。
美咲が楽しみにしていた。
おじいちゃんは「枝の修理」があるからといって来なかった。
海水浴場は芋洗いで、ごった返していた。
グレーの帽子に水着の美咲は水泳は無理で、砂遊びとか波遊びとか浜遊びが主だった。
黒いカラス白い水平線。
海水が冷たい。
お母さんは水着の上からTシャツで日に焼いていた。
ふわふわ浮いてる海月。
帰りに昼食を摂ろうとビーサンで歩き回った。
日影茶屋。
「名前もぴったりだ」
かきあげ弁当を美咲は三角食べをし、私は片付け食べをしていた。
どちらがいいのか分からない。
旅行から帰ると、枝が全部取り払われていた。
最後の日向ぼっこを美咲とした。
「なでなでして」
梅桃は養生してあった。
「蓑虫さんみたい」
宿題は作文が残っている。
枠が花で囲まれている。
卒業文集にでも載せるつもりなんだろう。
テーマは私の夢。
タイトルは「次女」にした。
医学者になりたい、と書いた。
彼女だけに。
私の光。
「中学になったら塾に通いたい」
母は二つ返事だった。
毎日新聞はイトマン事件で大騒ぎだった。
「今朝来た新聞に、金がない・・」
美波音は料理雑誌を読んでいた。
胡瓜にミソをつけて食べていた。
美咲はお昼寝だ。
ジャーが炊けた音にも目を覚まさない。
寝顔を見ながら考えた。
あの頃、母に、
「お化粧しないで」
「仕事いかないで」とベソをかいていたものだ。
横一線の雲。
洗濯物を干してる時、焦げ臭い。
急いで戻ると、平目の煮付けが干物のようになっていた。
「起きてたの?」
お腹が空いて火をつけたが、手が届かなかったらしい。
今日の昼はスーパーで買った食事パンにした。
もうすぐ登校日が近い。
不思議とリノリウムのあの匂いが懐かしくなるのだ。
公務員の給料日というが定かではない。
登校日は雨の途中だった。
傘かしげをして歩いていく。
真っ黒に日焼けした級友たちを羨ましいとは思わなかった。
雨は急にやむ。
ムワッとして暑い。
何て言うの、大気圧?
「あっちー」
暑いのは逃げられない。
光が止まっている。
南中。
垂直な飛行機雲。
光が滲んで見えなくなる。
やにわに目が見えなくなった。
お母さん、どこにいるの、お母さん、見えないよ、見えないよ、お母さん、私が見えないの?
肩パッドが落ちた。
気付くとお母さんが目の前にいた。
弱い明かりの中、母の顔は見えた。
「光った!」
美波音は家族や病気がないまぜになっておいおい泣いた。
言葉はいらない。ただ抱きしめてくれれば。
知らない朝。
外から帰って来るとシーフードヌードルの匂いがした。
ポテチのコンソメの匂いも。
「姉ちゃん!」
美咲は私の分まで泣いてくれた。
私の分まで怒ってくれた。
だからいい。
野分の風が吹く頃、夏休みが終わる。
梅桃の養生も剥がされた。
「これも天寿だよな」
梅桃が切り倒される時、おじいちゃんが泣いた。
老人にこんな涙が残ってたのかと思うくらいおじいちゃんは泣いた。
私が発病した時も泣かなかったのに。
美波音はグラサンをしていた。
「デザイナーは黒ばっかり着てるんだから」
手をつないで歩いた。
こまごましたもの。
景色が見せてくれた時間。
「私にも見える光あるよ」
「えっ?」
たまゆら。
切り子細工のような空にミルキーウェイが優しく光っていた。
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