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彼方の奇
生きることは何かの罰なんだろう。
事実は小説より奇なりってよく言うけどさ。
事実も小説も奇だよ。
だから僕らは奇の中で生活してるんだ。
だって、僕らは何も知らないじゃないか。
目と鼻はつながってる。
泣いた時に鼻水が出るのはそういう訳なんだ。
空は青色じゃなくって水色だってことに気が付いてから、僕は僕を隠すようになった。
一番痩せてた時は3000gぐらい。
今は62kg。
身長は170は欲しかったんだけど、168になった。
僕より無口になった父と兄を置いて、母と二人暮らしになった。
僕の服はありきたりで、オレンジのパーカーと色の抜けたジーンズ。冬も夏もそれで通してた。
寒暖の差があまり無いところだったから。
三匹の猫を飼ってたんだけど、一匹の猫も先に死んじゃったんだ。
シャギーっていうんだ。僕の名前。
空は水色だったとしても、何故そうなのかは説明できるけど、なぜそうなのかは誰も説明できない。
僕は生来、ベイビーフェイスなのか今でも未成年に間違えられる。
伏し目がちな目とちょっと不幸そうな顔をしてるのも好みだよ。
運命はあらすじ。
ミス・ウェンズデイに気に入られて、今はデリカテッセンの店番をしてる。
役者を目指した時もあったけど、言われたことをするのが嫌で諦めた。
暇な時は、安っぽい画集を買って、それをバラバラに千切って、葉や何かにしてフェイクグリーンを作ってる。
幹はアルミ。
葉っぱを裏返すと天使の目が覗いてることもあるんだ。
死んだ猫はお風呂上がりの人の肌の匂いが好きだった。
SLUSHって「雪融け」って意味もあるけど、「感傷的」って意味もあるんだって。
僕の木みたいだろ?
何度も言うけど、今デリカテッセンの店番してるんだ。
チャイニーズやらコリアンやらが惣菜を買いに来るけど、僕は恥ずかしがり屋だから、いつも横を向いてる。
いつも同じスープ缶ばかり見てる。
人なんて、なんて言う人は信用しない方がいいよ。
根っこは大体暗いものだからね。
僕は昔からいじめられっ子で、お母さんはいつも、それは僕と友達になりたいんだよ、って言ってたな。
寒い日に厚い洗濯物を干すなんてやっぱり間違ってるよ。
僕は人見知りで、話しても舌足らずで、おまけにしゃがれ声なんだ。
その日は、滅入るような蒸し暑さでね。
今にも雨が降りそうな嫌な風が吹いてた。生暖かったし。
カンガルーポケットに手を入れて、考え事をしながら歩いてたんだけど、そのせいで初めは見落としてたんだ。
側溝の中にね、猫がうずくまってたんだ。まだ仔猫。コンクリートと同じような色してたんだ。
僕は覗き込んで見た。その仔猫はね、目やになのか膿みなのか、目にいっぱい溜まってて、何かの病気なことは確かだった。僕は猫を飼ってるから、その事は分かった。
僕が近付いても、すり寄りもしないし、逃げもしないし、ただうずくまってた。何かに耐えてるみたいに。
今すぐ動物病院に連れて行かなきゃと思ったんだけど、僕が飼うのは無理なんだ。他の猫に病気が移っちゃうからね。急いで猫を飼ってくれるような知り合いを頭の中で探したけど、あいつも駄目、こいつも駄目ってもんで、見つけられなかった。
もしかしたら動物病院で飼い主を探してくれるかもと思ったんだけど、僕が引き取りに行かなきゃきっとこいつは保健所送りだろう。
頭の中では猫を助けることが堂々巡りだった。
僕はデリカテッセンに着いた。
とうとう雨が降り出した。
この雨の中であの猫は死んでるかも知れない。
猫一匹も救けられないなんて。
家の鍵を忘れたことに気が付いて、僕はまたあの道を通ったんだ。
あの猫は生きてた。
僕に走ってすり寄って来たんだ。僕はその小さな猫を撫でた。
「ごめんよ」なんて心の底から言って、その場を離れたんだ。
確か雨が止んでたな。
その後、猫がどうなったかなんて僕は知らない。
人を殺す人もいれば、猫を拾う人もいる。
僕には悲しむ資格もないんだ。
僕は猫一匹を見殺しにした。少なくとも心の中ではそう思ってる。
ミス・ウェンズデイは、「もう帰っていいよ」って言うんだけど、慌てて出たからオートロックで施錠されちゃって、帰れないんだ。
お母さんはもう出ちゃった後だったんだ。
みんなは僕を無口だって言うけど、僕は自分が無口だなんて思ってない。
みんな喋り過ぎてるんだ。
よそ見しても目を瞑ってるわけじゃないからね。
ミス・ウェンズデイは僕に料理をするとこを見せてくれないんだ。トマトのへたを取るとこくらい。
けっこう評判なんだよ、この店。
世界はうるさ過ぎる所だ。
やかましい。
お母さんみたいだ。
いつも一言多いんだ。
うちのお母さんはマシンガントークでね。
時々、お母さんのいない世界ってどうなんだろうと思う。
いつも静かなんだ。
そう、だから僕は無口なんだ。
いつからだろう。ガムを飲まないで捨てるようになったのは。
僕は子供の年齢ってのがよく分からないんだ。
大抵、「もう喋りますか?」って聞くね。
恐らく、僕が子供だった時の記憶が無かったからなんだ。
道を歩いている子供を見ても、その子が何歳か見当も付かない。
ミス・ウェンズデイのお子さんもおそらく三歳くらいなんだろうけどまだ話せるかどうか聞いてないね。
きっと僕がものごころつくのが遅かったせいだろう。
心っていうのは心臓にあるんだな。
兄は、芸術は「存在してるだけで意味がある」って言ってた。
でも僕の意見は違うんだ。
でも本当のところ、その答えは分からない。
彼は死んじゃったから。
いつも同じスープ缶が僕の悩みを吸い込む。
現実と理想っていうのは、シーソーみたいに互い違いに動くものさ。
無神論者がいるならば、それは単に気付いていないだけ。
神様は約束を破ることなんかないんだ。こっちが勝手にした約束でもね。
すごい慈善家だよね。
それに対して、僕は神様に何かしてあげられただろうか?
割に合わない仕事だよね。
好きでやってんじゃないと思うんだな。
何もかも、約束通りだって思えちゃう時があるんだ。
そういうのってあると思う。
みんな病気の猫なんだよ。実は。
名前を付ければ誰でも病気になるさ。
僕だって病的な運命論者だからね。
僕の家からデリカテッセンまでは半マイル程しか離れていない。
いつも行き帰りに水色のシーソーが見える。
僕の水色のカバンと同じ色してんだ。
それよりちょっと暗いかな。
子供は一人で遊べないだろ?
だからいつも母親が手で片側をユラユラユラユラ揺らすんだ。
シーソーの話だよ。
現実も想像の一部。
僕は想像で生きてる。
余白の中で生きてる。
芸術は道具じゃない。
真夜中の赤信号。
倒れたサンタクロース。
使いかけのペンキ。
神様に馬鹿にされて、シャギーくんは無口になってしまいました。
ざまあみろって言われてる気がするんだ。
汗かきすぎて寒くなっちゃったよ。
暑いのか寒いのかも分からない。
僕はもうミス・ウェンズデイが出払ったキッチンに入った。
客ももういなくなったしね。
悲しい事を思い出す前に、何か食べちまおうって思ってね。
市場で買った元気な卵を持った途端に落っことしちゃった。
卵を落としても割れないんだよ。
ゆで卵かなと思ってフライパンの上で割ってみたら、殻が割れてない代わりに、黄身が潰れてた。
何だか僕は情けなくなった。
何か悪い事した?
雨の日ってのは時が止まってる気がするね。
傷付かない僕は、絵の具を混ぜれば混ぜるほど暗くなるのと同じ理由だね。
兄は絵描きだったんだよ。
国費で外国に絵の勉強に行ってたんだ。
彼がアムネシアから帰った時は、驚いたよ。
僕にハンドメイドの白いフィッシャーマンズセーターを土産にくれたけどね。
ここは私いま何処だろう状態でね。
この世に絶対なんてないと思う人がいるけど、絶対だって思えば、それは絶対なんだ。
僕はこの世に絶対はあると思ってる。それは絶対なんだ。
父も兄も自分のことが好きじゃなかったんだな。
自分を好きになれない人は早死にする。
いつだって僕と歩いて来たのは自分じゃないか。
僕は父に嫌われてたんだ。
父に言われたことがあるよ。
お前は、地動説でも天動説でもない。自動説だ。自分を中心に世界が回ってると思っていやがる。
確かに、そう思ってる節があるよ。
その頃、僕はスクーターに乗っててね。
セルフのガソリンスタンドに行って、ガソリンを頭から浴びて、ライターで火を点けかねない勢いだったな。
夢中になると、後先考えずにやっちゃう癖があるんだ。
やらずにはいられないんだ。
変な絵ばっかり描くじゃないかって兄に言われた。
空腹に咳が効くなあ。
考え事が多過ぎて困っちゃうな。
頭が一番カロリーを消費するんだって。
影踏みしてる間に夜になっちゃったみたいだ。
お母さんは僕がしゃがれ声だからシャギーって付けたのかな。
最後に口を開いたのはいつだったか忘れそうになる。
兄が罹ってたのは遺伝性の高い病気でね。
僕は恋ができない身体になっちまった。
九死に一生を得たってわけだ。
少なくとも人生は。
この店は24時間営業ってことになってるけど11時で閉めるんだ。
晩ご飯は僕が作る決まりになってるから困っちまった。
ミス・ウェンズデイに惣菜の残りを分けてもらった。
今日の夕飯はズッキーニと鶏肉と豆のトマトソースのチリだ。
帰りすがら、水色のシーソーを見た。
月が電信柱にかかってる。
誰もいないのにユラユラ揺れてるんだな。
誰かが押してるみたいに。
僕の水色のカバンにはいつもバスケットボールを入れてるんだ。
運動不足でね。
マンションのエントランスで2,30分待ったかな。
お母さんが帰ってきた。
「おかえんなさい」
「どうしたの、シャギー?」
事情を説明して、二人で部屋に入ったんだ。
その間も母は喋り続けていたっけな。
部屋に入った途端、ママは僕にキスした。
ママの唇が濡れてる。
ママって呼んでることは秘密だよ。僕はまたベイビーに逆戻りだからね。
「お腹空いたでしょ?」
「お腹空いてない、ガム食べたから」
ファンデーションを落とす間、僕は食卓で待ってた。
それから、ズッキーニと鶏肉と豆のトマトソースのチリを食べたんだけど、二人じゃ足りなかったんだ。
半額のクーポンがあって、ピザを頼んだんだ。
混んでて、なかなかつながらなかった。
40分くらい待って、やっと来た。
ピザを食べるなんて何年ぶりだろう。
ピザは家族で食うもんだと思ってたけど、ママと食ったピザは旨かったな。
戦争なんかがあったりするだろ?
砲弾が飛び交う中で、瓦礫になった街を駆け抜けて、瓦礫の下に潜り込んで、「君と僕だけ助かれば良いね」って言うんだ。
そういうものだと思うんだな。愛は。
「シャギー、シャギーったら、ねえ、無口くん」
お母さんの話を聞いてなかった。
いつもそうなんだ。お母さんの話はBGMみたいなもので、ホントに話は聞いてないんだ。
僕と母が生き残ったのは死ぬほど陽気だったからだと思うよ。
僕と母は戦友みたいなもんなんだ。
それから、自分の部屋に入って煙草を吸った。
僕、いい大人だから。
煙草の煙は白い。
「世界は」そう言いかけてやめた。
そう口を噤んだままだった。
世界は僕の分からないように出来ているんだろう。
どうしてそう思うのかよく分からない。
お母さんが喋り続けているから。
僕の喘息のことを心配してるんだ。
世界は分からないように出来てる。
鶏は便利な生き物さね。何たって卵を産むんだから。
僕は強いストレスにさらされると、あくびが出るんだ。
お母さんは夜更かしなんだ。
僕は大体それよりも前に寝るんだけど、その夜は違った。
「おやすみ」って言って寝たフリをしたんだ。
どうしてそうしたのかは分からない。
きっと考える事が多過ぎたせいだろう。
才能はなくなった方がいい。
才能ってのは目に見えないものだから。
その夜は眠れなかった。
僕はまず一篇の詩を書いた。
「さよならマシンガン」
さよならは言わないで
誰かが言ったもうありふれた言葉
さよならは一度だけ
さよならは一人きり
世界中のさよなら
世界中の灰皿で燃やして
きっと月も沈むだろう
素直に笑うことが出来れば
貴方の影も踊るわ
この世界はまるでさよならマシンガン
君と僕だけ助かればいいね
それなら笑えるわ
初めて笑えるわ
もう さよならは聞き飽きた
それから一話の短編を書いた。
「オールナイト」
考えてみれば、世界は単純に出来ていると思っていた頃。チャッピーと散歩に出て、よく星空を眺めていた。
何故? とばかり思っていた。
最初に死んだのは、ミーちゃんで、その頃、僕は大学生で、離れて暮らしていた。
ふと、家に電話したくなって、でも、用もないしと思って、でも、翌日にやっぱり電話したら、ミーちゃんが昨日死んだよ、って。
きっと、ミーちゃんは流星になって、僕に報せに来てくれたんだと思った。
そういうことって本当にあるんだって。
大学が終わる頃、父が病気になって、死んで、その後を追うように、チャッピーも病気になって、死んで、一つの時代が終わったね、って言った。
順番を間違えて兄が死んで。
クロもミミヲも死んで、タマちゃんも死んで、また一つの時代が終わる。
いつか母も死ぬ。
やがて、僕も死んで、そして、一つの時代が終わる。
半分伝わればいい。
あの美しい夜のように。
誰? 振り返った。
後ろに誰かいるような気がして。
徹夜をしたのは何年ぶりだろう。
何でかって、別に理由はないんだ。
トイレに籠城を決め込んだみたいにして、泣き通したんだ。
人間は鼻かまなきゃいけないから面倒だね。
涙さえ水でできてるんだ。
素晴らしい夜だ。
みんな当たり前のように暮らしてるけど、そこに何があるかってことはきっと誰も知らないんだ。
子供の頃、お風呂が嫌いだったのは、顔が濡れるのが嫌だったのかな。目を閉じるのが怖かったのかな。オバケが出るから。
幽霊が怖くなった。
あまりに泣いたんで、お腹が空いちゃった。
僕は二人前のパスタを一人で食べたんだ。
後はお母さんが起きてくるのを待つだけ。
僕はその時、至福を感じてたな。
そういえば、シャギーって名前はね、あの日救けられなかった猫の名前なんだ。
奇しくも、別に、奇をてらってたわけじゃない。
書いていいことと悪いことがあるから。
さよならは短いね。
じゃあね、バイバイ。
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