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僕はsubだ。
僕らのような階級にはdomが多いと言われるがそんなことはない。
僕の父もsubだった。
「……でもケイシーもとっても素敵な人なのよ」
亡き夫への想いを述べた後で、母は照れたようにそう付け加えた。
伴侶を亡くし長く塞いだ母を見てきたので、彼女のそんな表情はただただ嬉しい。
「ええ、僕はあの人を信頼していますよ。
母さんと二人で幸福を培っていける」
母はにっこりと笑った。この笑顔は七つばかり若く見えた。
「少なくとも、次の従者はsubでない人を紹介所から選ぶわね」
人には、ダイナミクスと呼ばれる性質がある。
domとsub。支配的傾向の強い人間と、従属的傾向の強い人間。
傾向の強いものも弱いものも、そのどちらでもある人間も、どちらでもない人間もいる。
昔から存在することは知られていたが、それは性格や精神の歪みに依るもので、矯正可能と思われてきた。
どうもそれが生物学的な個人に備わる性質であり、可変のものではないと知られ、今日ようやくそれは一般に浸透してきている。
だが、科学が独立した学問となり、その発展めざましい19世紀の今日でも、ダイナミクスの全貌はまだ知性の光で全て照らし切れていないのが現状だった。
それが科学で定義づけられていなかったというだけで、無論昔からdomとsubは存在して、古い時代には貴族王族にはdomが多いだとか、subの女性は理想的な結婚相手であるだとか、そんな俗説はずっと囁かれていた。
subはその従属的傾向から使用人向きだと言われているが、僕に言わせればそんなことはない。
そもそも先に述べた俗説など蒙昧な流言だと断じたい。
従属的・服従的といわれるが、全て相手任せで構われたがる形でその傾向が出ることがある。
僕などはその典型だ。
domに命令されるよりは、褒められ甘やかされ世話を焼かれたい。
そうやって自分の身や心を相手に任せることで、相手に信頼を示したいし充足を得たい。
それならば、世話焼きのsubの従者でも事足りると思われがちだが、そう簡単にもいかないのが実情だった。
domとsubは真逆の欲求を持ちながら、同様の行動を示すことがある。
前の従僕は相手の意を図り、その言うとおりにすることで、自身の従属したいという欲求を満たしていた。
相手の命に従うことが、彼の喜びだった。
domの主人を得れば、良き従僕として完璧な働きをしただろう。
逆にdomが、自身の支配性を満たすために、自分のsubの面倒を全て見る、ということもあり得る。
相手の全てを把握し支配するために、自らの決めた時間に食事を取らせ、subの身につける服を見立て、subに自発的に何かをさせない。
両者とも相手の世話を焼いているようだが、内実は違う。
相手の意思に従うために世話を焼くか、自分の意思の下に置くために世話を焼くか、意図や主体がどこにあるかが異なるのだ。
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